松任谷正隆

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「伝説のミュージシャン」という表現はよく目にするが、いささか安易に使われ過ぎの感もなきにしもあらず。しかし、この4人が数多くの伝説的なレコーディングに携わってきた存在なのは間違いない。鈴木茂、小原礼、林立夫、松任谷正隆から成るバンドSKYE。新作発表を機に、音楽ライターの神舘和典氏が松任谷にロングインタビューを敢行した。

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【写真】「伝説のミュージシャン」4人が集合…リラックスムードながらオーラを感じる1枚

全員が「伝説の存在」

 メンバー全員が1951年生まれの70代バンド、SKYEが新作セカンドアルバム「Collage(コラージュ)」をリリースした。7月26日のビルボードライブ横浜を皮切りに、ツアーも開始する(31日ビルボードライブ大阪、8月4日ビルボードライブ東京)。

松任谷正隆

 メンバーは、鈴木茂(ギター)、小原礼(ベース)、林立夫(ドラムス)、松任谷正隆(キーボード)。

 4人は1970年代から日本のポップ・ロック・シーンの第一線で活動してきた。鈴木ははっぴいえんど、小原はサディスティック・ミカ・バンド、鈴木と林と松任谷はキャラメル・ママに在籍。キャラメル・ママはユーミン(松任谷由実)や吉田美奈子などをプロデュースしている。

 全員が「伝説の存在」と言っても過言ではない。老若男女問わず、彼らの演奏を一度はどこかで耳にしているはず――以下のインタビューに登場するアーティストの名前を見れば、これがオーバーな表現ではないことはご理解いただけるだろう。

 SKYEの4人でのアルバム・デビューは2021年。1人のフロントマンが牽引するのではなく、全員が作詞・作曲し演奏し歌うスタイル。ハーモニーも多彩なので、このバンドにしか出せない音になる。

LINEグループのおかげ

「キャリアを重ねて、自分がこんなに歌うときが来るとは思っていませんでした。4人は絶妙な距離感でやっています。仲間だけれど、友だちではない。プロのミュージシャンとしての信頼関係があってこそ成立しています」

 そう話す松任谷正隆は、このベテランのバンドは今の時代だからこそ成立したと考えている。

「関係性がいいのは、たぶん、LINEグループのおかげでもあります。文字で共有できるツールは僕たちにはとても合っている。おたがいほどよく気を遣えています。でも、実は茂だけはまだLINEグループに参加していないんですよ。1枚目のアルバムのときはガラケーを使っていて、僕たち3人には若干のストレスがありました。2枚目の制作がスタートしたときにはスマホに替えてはいたけれど、まだLINEをインストールしていません。ただ、僕たちのほうが慣れました。人にはいろいろなタイプがいますよね。そのことがふつうに理解できる年齢のバンドなので」

 そんな鈴木のギターに、松任谷はあらためて驚かされた。

「今回、茂のギターは、全曲違うアプローチをしています。発想が豊か。茂は“ザ・ミュージシャン”です。僕と茂の付き合いも長くて、キャラメル・ママを一緒にやり、僕がプロデュースする由実さんのアルバムにも参加してもらい、拓郎(吉田拓郎)のバンドでもレコーディングしてツアーを一緒にまわりました。それなのに、今さらながらに彼のすごさに驚かされています」

70代で現役バリバリの理由

 SKYEに限らず、1940年代後半から1950年代生まれには演奏技術が高く、息が長いミュージシャンが目立つ。

「そうなのかな……。もしそれが事実だとしたら、僕たちは時代に育ててもらったのだと思います。プロになったころから、世界的に音楽を制作する環境が変わりました。 ひと世代上は、歌も演奏も一緒に録音する、いわゆる一発録りが主流でした。仕上がりの9割くらいは歌手の実力やその日の出来次第です。でも僕たちの時代には、マルチ・トラックが発達しました。つまり、楽器それぞれを別に録音できるようになった。それで多分ミュージシャンに求められるものが大きくなったんだと思います。それまでの技術職から創作職に変わっていったといったらいいのかもしれない」

 同世代で切磋琢磨をしてきた盟友たちをSKYEは1枚目のアルバムでゲスト・ヴォーカルに迎えている。松任谷由実、吉田美奈子、矢野顕子、尾崎亜美、ブレッド&バター、そして小坂忠がレコーディングに参加した。

「1作目は手探りでした。あれ1枚でバンドは終わる可能性もあり、せっかくなので、同じ時代に育った音楽仲間に参加してもらったんです。1970年代に一緒に音楽をつくり、その後はそれぞれ別の道を歩いていったミュージシャンたちに声をかけさせてもらいました」

 松任谷は1971年に吉田拓郎のアルバム『人間なんて』でプロとしてレコーディング・デビューしている。そして1972年にバンド、小坂忠とフォージョーハーフに参加した。その小坂もSKYEの1枚目のアルバムで歌っている。松任谷と小坂はSKYEが活動をスタートする少し前、2018年に約40年ぶりに再会した。

小坂忠との対立と和解

「WOWOWが主催するSONGS&FRIENDSというライヴのシリーズがあります。毎回1枚のアルバムをテーマに、多くのミュージシャンが参加する企画です。その2回目で忠さんのアルバム『ほうろう』がテーマになり、主催側から僕に総合演出の依頼が来ました」

 実は小坂忠とフォージョーハーフ時代、松任谷にはいい思い出がなかったのだという。リーダーの小坂の音楽に魅力を感じることができず、飛行機が苦手で、ワゴン車での移動も嫌で、仮病を使い、身内に不幸があったと偽り、ライヴをドタキャンし続けた。

「フォージョーハーフでも一緒だった林には、あのころ、ずいぶん叱られました」

 バンドは埼玉県・入間にあった米軍基地跡の“ハウス”で暮らしていたが、そんな共同生活も苦痛でしかなかった。そして、いつも小坂は親しい細野晴臣の意見は聞く。松任谷の意見をなかなか受け入れないことも不満だった。

「ところが、再会した忠さんは僕が知る彼とは別人でした。40年も経っているのでおたがい十分に大人になっていたのかな。忠さんは、フォージョーハーフの後、牧師さんになられたんですよ。1990年代にまた音楽を再開して、ゴスペル・シンガーとしても活動していました。長い紆余曲折、試行錯誤があり、自分のスタイルをつくり上げていました。その世界観を見せていただいた」

「忠さんへの懺悔でした」

 松任谷は小坂のバックグラウンドを意識し、尊重し、ステージを教会のようにつくりあげた。ゴスペルのコーラス隊も入れた。

「ここは忠さんのホームです」

 そう伝えた。

「フォージョーハーフのころの僕は20代になったばかりでした。忠さんは音楽の先輩だけど、それでもまだ20代なかばです。僕も手探りだったけれど、忠さんも手探りでした。そのことも考えずに反発して、ライヴをドタキャンしていた僕の、忠さんへの懺悔でした」

 客席5000の東京国際フォーラムホールAは満席になり、ショーは大成功に終わった。

「僕はステージの上で、忠さんに幸せになってほしかった。幸せな瞬間を体験してほしかった。それを願って演出しました」

 しかしそのころ、小坂の身体はがんに蝕まれていた。松任谷は2021年のSKYEのアルバム「SKYE」で小坂に参加をオファーする。そして2022年4月30日、もう1度、松任谷は小坂と横浜で共演できるはずだった。しかし前日の4月29日、小坂は永眠した。

「忠さんのショー、僕は一所懸命やったんです。なぜ一所懸命やったのか、コンサートが終わったときに気づいたんです。僕は愛されたかったのかな、と」

 小坂が逝去した翌日に行われたライヴのステージ上で、松任谷はそう聴衆に語りかけたという。

「あのときのMCは、僕、泣くな、泣くな、と自分に言い聞かせていました」

 涙を見せることなく、松任谷は総合演出を務めあげた。

「人って、どんなに嫌い合っても、無理だと思っていても、実際には関係を修復できるものです。今になってわかりました」

自身の作品へのリベンジ

 バンド、SKYEにはミュージシャンとして松任谷自身のテーマもあった。

「かつてリリースした僕のソロアルバムへのリベンジです」

 松任谷は1977年にアルバム「夜の旅人」を制作。作曲とリード・ヴォーカルは全曲松任谷自身、歌詞は全曲ユーミンが書いた。

「これは俺じゃない」

 そう松任谷は思い続けてきた。

「作詞は由実さんですし、自分らしい作品とは思えず、好きになれませんでした。あれから約40年、キャリアを重ね、ヴォーカルのディレクションもやってきました。歌もうまくなっているはず、と思っていました。でも、そうはいきませんでしたね」

 今回、リード・ヴォーカルを担当する曲は、深夜、自宅のスタジオで歌入れを行った。

「人が寝静まった深夜に1人で何度も歌いました。うまくなったとは思えなかったけれど、でもね、とても楽しかったんですよ。音楽を楽しめた。すると、『夜の旅人』も受け入れられるようになりました。あの歌詞を書いたのは由実さんですが、それも含めて僕のアルバムだと思えるようになりました」

 こうして「Collage」は満足できる仕上がりになったという。

「僕たちらしい、バンドとしてよくまとまっているアルバムだと思います。レコーディングでは、さまざまな手法にもチャレンジしています。たとえばリレー方式の曲作りです。メロディを手分けして書いたものもあれば、あえてメロディもコードも歌詞も考えずにスタジオに集まり、ゼロから音楽をつくったものもあります」

「結婚しようよ」のメンバーだった

 7月、アルバムの音が完成したタイミングで、松任谷のもとに吉田拓郎からメールが届いた。音楽制作についての内容だった。そのレスポンスに松任谷は「Collage」を全曲添付した。

「拓郎の『結婚しようよ』のメンバーだよ」

 そうコメントを付けて――。

「拓郎は刺激を受けたみたいです。『結婚しようよ』は、林と小原と僕が演奏しています。加藤和彦さんがキャスティングしました。その後、1970年代の拓郎のツアーは僕がバンマスを務め、茂がギターを弾きました。だから、SKYEのサウンドは、拓郎は嫌いじゃないはずです」

 吉田拓郎は2022年をもってミュージシャンを引退するとしたが、最近はベスト・アルバムをリリースしたり、曲を書いたり、徐々に活動を再開しつつある。

「ミュージシャンって、なかなかやめられるものではありませんよ。1970年代に、アメリカで、ボブ・ディランとザ・バンドが一緒にレコーディングし、ツアーをまわっていました。あのころ拓郎は、自分と僕のことをディランとバンドの関係と語っていました。実際に僕たちはそういう音楽をつくっていて、ボブ・ディラン&ザ・バンドを意識することで意気投合していたんです。一緒にレコーディングして、ツアーをまわりました。今の拓郎とSKYEが一緒にやったら、あのころよりももっといいライヴができると思いますよ」

3枚目はきっとキラキラしたアルバムに

 アルバムを2枚つくり、ツアーをまわり、手ごたえをつかんだ松任谷は、SKYEにいよいよ本腰を入れている。

「自分のところのスタジオを整備しました。事務所にあるリハーサル・スタジオにレコーディング用のコンソールを入れて、上のフロアとワイアでつなぎました。数千万円のコストをかけています。そこで『Collage』をレコーディングしました。これからは、発想が浮かんだときにいつでも音づくりができる環境です」

 すでにこの先への展望もあるのだという。

「次の3枚目はきっとキラキラしたアルバムになるんじゃないでしょうか。2枚目の『Collage』でたぶん4人とも充実感を覚えて、次はいろいろと新しいことにチャレンジしたいと思っているからです。でも、4枚目は分裂してバラバラになっちゃうかもしれません。さらに次の新しい音をつくりたくなって。バンドって、たいがいはそういうものですから」

神舘和典(コウダテ・カズノリ)
ジャーナリスト。1962(昭和37)年東京都生まれ。音楽をはじめ多くの分野で執筆。『不道徳ロック講座』など著書多数。

デイリー新潮編集部