大分高・岩粼久則監督インタビュー(後編)

前編:夏の甲子園を目指す大分高・岩粼久則監督は1990年にオリックスから4位指名はこちら>>

 昨秋から母校の大分高で監督を務める岩粼久則さんは、元プロで投手として活躍した。オリックス・ブルーウェーブで1年目を終えた1991年オフ、自身と同じドラフト4位で、鈴木一朗が入団してきた。岩粼さんが、当時の印象を振り返る。


昨年秋、母校である大分高の監督に就任した岩粼久則氏 photo by Uchida Katsuharu

【忘れられないイチローのエピソード】

「高校時代(愛工大名電)にすごかったという話も聞かなかったし、最初はとくに何も考えませんでした。でも、ファームでは1番で使われるんです。足が速くて、ボテボテの内野ゴロが全部ヒットになっていましたね。ライトからは鉄砲肩でビューンと放るし、すぐにでも一軍で活躍できる選手と思いながら見ていました」

 鈴木は監督が土井正三から仰木彬へと代わった1994年に登録名を「イチロー」に変更して大ブレイク。「振り子打法」を引っ提げ、日本プロ野球史上初の200安打超え(210安打)を達成するなど、その後の活躍は周知のとおりだ。岩粼さんの見立ては、間違いではなかった。

 忘れられないエピソードがある。当時の選手寮である「青濤館(せいとうかん)」に併設されていた室内練習場で、イチローがいつものように打撃練習をしていた時だ。うしろから何気なく見ていると、ネットの同じ箇所に打球が突き刺さる。しかも、一度や二度ではない。ほぼ寸分の狂いもなく、まるで打球が意思を持つかのように同じ方向、同じ角度で打ち出されていった。

「鳥かごだったので、途中にネットがあるんですけど、イメージではセカンドの頭ぐらいですかね。そこに向かってマシンのボールをパーン、パーンと打ちよるわけです。そこにしかいかないから『えっ?』と思って......僕も遊びがてらに打ってみたら、簡単に引っ張れる速さじゃないんですよ。それで、イチローのすごさがわかりました」

 岩粼さん自身も、91年のルーキーイヤー以来、一軍登板から遠ざかっていたが、1994年は5試合に登板。1995年にはウエスタン・リーグで最優秀救援投手(17セーブポイント)と最優秀防御率(1.69)の2冠に輝き、1996年にはプロ6年目にして一軍初勝利を挙げるなど、チームの2年連続リーグ優勝と日本一に微力ながら貢献した。

「土井さんが監督の頃は、阪急時代からいる選手がすごくて、選手の入れ替えがほぼなかったイメージでした。イチローもファームですごい結果が出ているのに、上では代打で出場するが、打てなくてまたファームに落ちてくることが多かったです。それが仰木さんに代わって、調子のいい選手はどんどん入れ替えです。だからファームの選手は目の色が違っていました。よかったらどんどん放らせてくれるので、7連投ぐらいしたこともありました(笑)」

 ただ、一軍に定着することはできなかった。ファームでは通用したウイニングショットのフォークも、一軍ではいとも簡単にカットされ、痛打された。

「なかなか打ち取れなかったというのが僕のなかの印象です。アマチュア時代は"そのへん"に投げておけば打たれませんでしたが、プロでは"そこ"に投げないと打たれてしまう。そこまでコントロールにも自信がなく、慎重にいって思いきり腕を振れないこともありました」

【8年間のプロ生活で得たもの】

 1997年のシーズン途中にはヤクルトにトレード移籍。「野村再生工場」と呼ばれた野村克也監督のもとで7試合登板し、2球団目となるリーグ優勝、日本一を経験したが、翌1998年は一軍登板がないまま、現役を引退した。

「プロで8年間もよく放れたなと感じています。通算で1勝2敗、防御率も6点台(6.04)と実績だけを見たらたいしたことはないけど、イチローも含め、この選手はこんな練習をしていたとか、こんな捕り方をしていたと伝えることはできます。宮本慎也(元ヤクルト)は『PLの時に、簡単な打球を簡単に処理する練習を1時間も2時間も続けてやっていたので、今の自分があります』と言っていました。その記憶があったので、僕はノックでもガンガン打つことはなく、やさしいゴロを基本どおり捕りなさいという指導をしています」

 引退後は、1年間だけダイエー(現・ソフトバンク)の打撃投手を務めた。1999年はくしくも、福岡に移転後、初のリーグ優勝、そして日本一に輝いた年である。

「オリックスでもヤクルトでもダイエーでも日本一を経験しました。当時ダイエーにいた秋山幸二さん、工藤公康さんの次に僕が優勝請負人だとフロントのなかでは言っていただけました(笑)」

 その後は妻と一緒に大分へ戻り、ハローワークへと通い詰め、「どんな仕事があるか全部見た」という。そして2001年からホテルマンに転身。ホテルのメンテナンスやマネジャー業も経験した。

「マネジャーで現場のシフトを変えたり動かしたりしていました。そういう仕事をしていた時に、大分のスポーツ店の社長から、『大分西南リトルシニアという中学のクラブチームの会長をしているので、そこを教えてほしい』と言われたので、指導にいっていました」

 だが、仕事が三交代制勤務だったため、練習へは週1、2回程度しかいくことができなかった。スポーツ店社長の誘いもあり、5年間務めたホテルマンから、スポーツ店での営業マンへと転身。本格的に指導者の道へと舵を切ったことが、結果的に母校との縁を結ぶことになる。

「当時の大分高校監督の佐野徹先生に、いい選手がいたら紹介してほしいと言われて、教え子を何人か紹介していました。そんな関係を続けていくうちに、佐野先生から、中学でクラブチームを立ち上げるから、今までのノウハウを生かして監督をしてくれないかという話をもらいました」

【打倒・明豊への秘策】

 そうして2011年から大分中学リトルシニアの監督に就任。教員免許は持っていなかったため、事務員として採用された。在任中には佐野監督のアドバイスもあり、学生野球資格を回復。もしこの時、研修を受けていなければ、高校生を指導することはできなかっただろう。色々な人との出会いが、今の岩粼さんの礎となっている。

「佐野先生には感謝しています。また、大分高校にも、理事長、校長、教職員のみなさまへの恩返しも含めて、グラウンドで結果を出さないといけないと思っています」

 新日鉄大分時代に二刀流を経験したことも、指導をするうえで多いに役立っている。

「投手、野手、お互いの気持ちがわかるんですよ。だから極端な話、投手は練習試合などでも打たれていいから四球は出さないところからスタート。打者は投手の球に対して、意識せずに体が反応してバットを出すには、どういう練習をしたらいいのか、それを自分たちで考えて答えを見つけなさいと言っています」

 大分中学リトルシニアを12年間指揮し、昨秋から大分高の監督に就任。今春はセンバツに出場した明豊不在の大分大会で優勝し、九州大会で8強入りするなど、半年あまりできっちりと結果を残した。中学時代から特徴を知る選手が多いのも、采配を振るううえでプラスに働いた。

「秋も春もベンチでは緊張はしませんでしたけど、夏はどうなるんやろうかと思っているんです(笑)。今の大分は明豊が頭ひとつ抜けていて、正攻法で勝てる相手ではありません。何かしら戦略は立てますけど、チャンスがきたらギャンブルでいきますよ」

 明豊とは、互いに勝ち進めば決勝で甲子園をかけて対戦する。その前に立ちはだかる強豪校も多い。56歳が母校の監督で迎える初めての夏が、まもなく始まる。