【杉山 登志郎】発達障害が治る子と治らない子、その違いはどこに…?発達障害にまつわる「嘘と本当」

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言葉が幼い、落ち着きがない、情緒が不安定。

育ちの遅れが見られる子に、どのように治療や養護を進めるか。

講談社現代新書のロングセラー『発達障害の子どもたち』では、長年にわたって子どもと向き合ってきた第一人者がやさしく教え、発達障害にまつわる誤解と偏見を解いています。

本記事では〈「発達障害は一生治らないし、治療方法はない」は本当?…発達障害について、誤った認識を持っていませんか?〉にひきつづき、著者が長年にわたって相談に乗ってきた成人について紹介します。

※本記事は杉山登志郎『発達障害の子どもたち』から抜粋・編集したものです。

自閉症と診断されたB君

A君と実は同学年の青年B君を次に紹介する。

B君に初めて会ったのは、B君が4歳のころであった。このころはまるまるとした幼児で、毎日のようにかんしゃくを起こしていた。

初診のときは、お母さんがおんぶ紐でおぶって診察室に入ってきたのであるが、私はこのときのことをよく覚えている。B君がむずかると母親はあやすため、B君をおぶったまま診察室を出ていってしまう。そして帰ってこないのだ。これには往生したが、後で伺うとすでに母親は息子が自閉症ではないかと強く疑っていて、その診断を下されるのがとても怖くて、診察室にとどまることがつらくてできなかったのであるという。

B君は両親と目が合わず、母親の指示は理解しなかった。おぶっていたのも、下におろしたらそのまま振り返らず走り出してしまうからであった。実際に迷子になったこともあった。言葉は4歳過ぎてまだ数語程度、オウム返しの断片的な語尾・語頭発声(たとえば「ぎゅうにゅう」を「にゅう」、「みかん」を「み」とのみ言うなど)があるだけで、理由のよく分からないかんしゃくを起こすことが多く、行動を止められることに強い抵抗があり、私はお母さんの予想していたとおりB君を自閉症と診断した。

その後、B君は市の運営する母子通園施設(保育園に入る前に母子で通園をして生活習慣や集団行動の基礎的な練習をする療育施設)に通い始めた。その中でB君は急速に身辺の課題が可能となり、周囲の状況に合わせた行動ができるようになった。すると5歳前後から言葉は急速な伸びを示すようになった。小学校入学前に行った心理検査では知能指数76と境界知能を示し、ご両親はだいぶ迷われたが通常学級に進学した。

B君もまた小学校中学年ごろから学習には困難を覚えるようになった。これには理由がある。少し説明を加えると、小学校3〜4年の時点で、カリキュラムに抽象的なイメージ操作を用いる課題が登場し、勉強に関するハードルが急に高くなるのである。国語で言えば接続詞であり、算数で言えば分数、小数などである。学校のカリキュラムは一段階飛躍し、ここでハードルに引っかかる児童が少なからず存在する。この現象を9歳の壁と呼ぶこともある。

また同じ時期、小学校中学年ごろからいじめもときどきあり(これも理由があって、この時期に子どもたちはいわゆるギャングエイジを迎え、親への秘密を持つようになり、子ども同士で仲間を作るようになるので、いじめが一挙に深刻化する傾向がある)、そのつど、学校の担任にお願いをして、いじめの沈静化を図ることが続いた。

小学校5年生ごろにはB君は自信を失ってしまって、一時期、著しく元気がなくなり、またわざと挑発的に叱られることをするなど、情緒的なこじれを示唆する症状もあらわれたので、私は心配をした。しかし知的にはB君は伸びており、知能指数は82とほぼ正常知能に近い値を示していた。

生き生きと働くように

B君とご両親はこちらの勧めもあり、中学校は躊躇なく特殊学級への進学を選んだ。知的に高くそこそこの学力もある彼はクラスのリーダーとなり、連続して特殊学級の級長を任せられるようになった。中学校1年生の2学期になると、彼は学校での自分の様子を自慢げに語るようになり、すっかり自信を取り戻したことが窺えた。

彼を、知的な遅れのない自閉症やアスペルガー症候群の子どもとその親の会である「アスペ・エルデの会」に誘ったのはこのころである。この会は、親子ともに気に入ったようでB君はせっせと熱心に通うようになった。

B君は高校進学に当たって養護学校の高等部を選んだ。学力的には通常高校のいわゆる底辺校や専門学校に進学ができないことはなかったが、親子ともに躊躇はなかったようである。彼が選択した養護学校高等部は職業訓練を徹底的に行うことで有名なところであった。

この作業訓練は、作業のときの受け答えや、作業態度まで含む徹底的な指導である。高校2年生になったころからB君は学校の厳しい教育が身についてきたようで、私との受け答えにおいても、それまでの聞いているのかいないのか分からないといった風情ではなくなり、しっかりと目を見て返事をするようになった。

アスペ・エルデの会では高校生以上の青年で「サポーターズクラブ」という、会の運営自体に関わる別働隊を作っている。B君はここにも熱心に顔を出し、高校生の仲間同士であちらこちらに遊びに行ったり、ボランティアに出かけたりするようになった。筆者は当時、ある大学で教育学部の教官をしており、その地域のアスペの会を主宰していたが、サポーターズクラブの仲間を誘って、遠方からボランティアとしてしばしばその手伝いに駆けつけてくれた。

B君は養護学校高等部卒業後、ある大企業に勤めるようになった。今日、障害者雇用促進法という法律があり、あるレベル以上の企業は従業員の1.8パーセントにあたる障害者を雇用しないと罰金が科せられるのである。現在の実績は1.5パーセントであるため、まだ障害者を雇用していない会社が多数ある。つまりきちんと仕事ができる障害者は、企業の側も欲しいのである。

またB君の通う養護学校高等部では徹底した職業訓練があり、現場実習という職場での就労体験が重ねられ、また企業側と教師との話し合いもあり、就労後にも教師が職場に訪れるようになっている。

B君はこうして就労を果たし、生き生きと働くようになった。さすがに大企業で、初任給も高く、すぐにボーナスも出るなど待遇も良かった。B君は残業もこなし、また自動車の免許も取得し、自分の給料で買った車で自宅から通勤を始めた。アスペの会、サポーターズクラブの友人との交流は続いていて、休みの日はしばしば一緒に出かけている。彼は就職してからもサポーターズクラブの友人を誘って、アスペの会にボランティアで手伝いによく来てくれていた。

ある日のこと、比較的遅い時間まで彼がのんびりとしているので、「今日はゆっくりしているけどいいの」と筆者が聞くと、「今までは学生だったから、鈍行の電車で来ていたけど、今は自分の給料で新幹線で帰れるから大丈夫」と答えた。筆者はとても感動した。

ただし問題がまったくないわけではない。数年前、キャッチセールスの被害を受けたのである。新しい友達ができたというので何かと思ったら、キャッチセールスのお姉さんであった。被害額は100万円以上にのぼる。人の悪意に関しては非常に脆弱な人たちである。今後の社会生活の上で、B君が学ばなくてはならないことはまだまだ多い。

どこが違うのか

さて、A君とB君はどこが違ったのであろうか。

元々の障害ということで言えば、自閉症であったB君のほうが明らかに重症である。ハンディキャップにもとづく学習の問題があることはA君もB君も一緒で、小学校年代に学習につまずき、小学校高学年には危機的になった点も同じである。A君は中学校進学に際して通常教育を選択し、B君は特殊教育を選択した。違いといえばこの一点である。その後の著しい違いを見たときに、たかだかこれだけの違いがなぜこのような差をもたらしたのか、驚かざるを得ない。

A君の医学的な診断は学習障害であるが、A君の適応の妨げとなったのは学習の問題もさることながら、それ以上に自己イメージの混乱や自信の欠如が大きな支障となったことは容易に理解できるところである。

しかもA君は、その後高校生になったときには、小学校中学年レベルの社会的自立に必要不可欠な基礎学力は身に付けていた。これは新聞を読むことが可能なレベルの国語力と買い物とお金の管理ができる程度の数学力である。それだけで大丈夫かって? われわれが日常生活でそれ以上を用いているであろうか。つまり学習障害そのものがA君の自立を妨げたのではない。

どこに混乱や選択の誤りがあったのか、この本を読んでゆけば次第に了解していただけるのではないかと思うが、冒頭に書いたいくつかの一般的な誤解の一部は、すでにこの事例を振り返っただけで、疑問符が付されることが明らかであるので、それだけはここで取り上げておきたい。

・発達障害は一生治らないし、治療方法はない

これがそもそも完全な誤りであることは、きちんと就労し、自分で買った自分の自動車で会社に通い、残業もこなし、税金をきちんと払っているB君を見れば分かるであろう。もちろん自閉症であるB君はいまだにハンディキャップはたくさんある。だがこれらのハンディキャップにもとづく、社会的な適応の障害は現在のところ見あたらないか、ごくわずかなまでに改善をしている。

・発達障害児も普通の教育を受けるほうが幸福であり、また発達にも良い影響がある

A君は極端な例であるかもしれない。だが明らかにA君の学校生活は、幸福とは言いがたいエピソードであふれている。ご両親はもちろんA君の不幸を願って学校選択をしたのではない。どの親が自分の子どもの不幸を願って選択を行うであろうか。だが結果として、A君の学校生活は胸が痛くなるまでにつらいものとなってしまった。これを学校の責任とする考え方もあるだろう。

だがどのような工夫をしてみても通常教育の場は、個別の学習対応には限界がある。通常教育とは、30人ないし40人の生徒に対して原則として一人の教師が、学習指導要領に沿ってカリキュラムをこなすという場である。ところが特殊教育を選択すれば、一挙に、容易に、個別的な対応が原則としては可能になる(ここで、原則としては、と保留を付けるのは、すべての特殊教育が個別の専門的な対応を行っているとは言いがたい現在の日本の状況があるからであるが、この問題は後に述べる)。

これは学習の問題のみを言っているのではない。問題は子どもの自己イメージに関わる。

あなたが、自分が参加しようとしても半分以上は理解できない学習の場にじっと居ることを求められたとしたらどのようになるだろう。また自分が努力しても成果が上がらない課題を与え続けられたらどのように感じるだろう。子どもにとってもっとも大切なものの一つは自尊感情である。子どもの自信をそしてやる気を失わせないことこそが重要なのだ。

・通常学級から特殊学級に変わることはできるが、その逆はできない

これは完全な噓である。私が継続的なフォローアップをしている子どもで、特殊学級から通常学級へという選択をした児童は多い。

多くの親は、また学校の教師も安易に、「通常学級でやってみてダメなら特殊に移せばよい」と言う。このアイデアは私は賛成できない。ダメだったときは自己尊厳を著しく傷つけてしまい、子どもはぼろぼろになっているからである。人生の早期に子どもに挫折体験を与えて良いことは一つもない。

通常学級に在籍して特殊学級に出かける(これを一般に通級という)のは、特殊学級の担任にとって員数外の負担が増えるという理由から現在でも困難が多いのに対して、特殊学級に在籍をして参加可能な科目は通常学級に出かける(これを一般に交流という)ことに関しては支障が少ない。交流を利用して参加が可能なものは出かけていき、すべての科目が参加可能になったらその時点で通常クラスに移行するということは、しばしば実践されている。

だが問題は何のために通常学級に行くのかということである。中学校2年生で通常学級にもどり、そのまま通常高校を卒業し、一般企業に就労をした高機能自閉症の青年がいるが、就労をした会社で主として対人関係の問題から2年弱で失職をしてしまった。

その後の再就職はなかなか困難があり、結局、障害者職業センター経由で障害者雇用の枠を用いて再就職を果たしたのであるが、こうなってみると、無理に健常者として就職をするよりも、ハンディキャップの存在を会社側に知らせた上で就労先を探し、就職をしていればもっと安定した就労が最初から可能であったのではないかと悔やまれるのである。

・養護学校卒業というキャリアは、就労に際しては著しく不利に働く

これがどうもそうではないらしいことは、先のB君の事例を見れば了解いただけたと思う。養護学校のほうが、就労を巡るビフォア・アフターケアがむしろ手厚く、企業間との話し合いも緻密であり、何よりも企業サイドもきちんと働ける障害者を求めている。また現在、障害者職業センターが就労に際してはジョブコーチを派遣してくれるようになっている。このような就職に際しての手厚いケアは、通常教育では望むことが困難である。

実はB君の同級生に知的にはもう少し高く、通常高校を卒業後、地元の会社に就職したC君という青年がいるのであるが、給料もボーナスも、大企業に就労したB君のほうが一貫して高収入で、夏休みをはじめとする休暇も多かったのである。

※本書で取り上げられている事例は、公表に関してはご家族とご本人に許可を得ていますが、匿名性を守るため、大幅な変更を加えています。

「発達障害は一生治らないし、治療方法はない」は本当?…発達障害について、誤った認識を持っていませんか?