下窪陽介インタビュー(前編)

 開会式では、岡本真夜の『TOMORROW』が入場行進曲として銀傘に響き渡っていた。前年に発災した阪神・淡路大震災から、誰もが明るい「明日」が来ることを信じ、復興へと歩みを進めていた1996年。そんな時代背景のなかで行なわれたセンバツの主役は、間違いなく下窪陽介だった。鹿児島実業のエースとして全5試合、553球を投げ抜き、「鹿児島県初の甲子園優勝投手」へと輝いた。その称号は、28年の歳月が流れた今も、下窪ひとりだけのものだ。


鹿児島実業のエースとして1996年のセンバツで全国制覇を達成した下窪陽介氏/写真は本人提供

【本格的に野球を始めたのは中学から】

「甲子園は本当に自分を一回りも二回りも大きくしてくれた場所。マウンドからホームまですごく近く感じたし、本当にこんな場所があるのかと。野球というスポーツを面白いと思った瞬間でしたね」

 じつはそれまで「野球を好きでやってきたわけじゃなかった」という。小学生時代は剣道をやっていたが「叩かれるのが嫌になって......」と、進んだ頴娃(えい)中学(鹿児島県揖宿郡、現・南九州市)では違う部活動へ進むことを決意。兄の健一郎さんが野球をやっていた影響もあり、軟式野球部に入部した。

「ルールがわからなくて、最初は苦労しました。2アウトでチェンジ、2ストライクで三振、3ボールでフォアボールだと思っていて、全部ひとつ少ないんです(笑)。自分はそういうなかで野球を始めました。守るところがなくて、ストライクは入らなかったんですけど、ピッチャーをやっていました」

 だが、幼少期からやっていた剣道の動きが、投手の動きに生きた。竹刀は体全体を使って右手で打ち込むため、右手首や背筋が自然と鍛えられる。その結果、制球こそ定まらなかったが、球は抜群に速かった。

 横浜高(神奈川)のエースで1998年甲子園春夏連覇を達成した松坂大輔(元西武、レッドソックスなど)も幼少期は剣道をやっていたという。年齢が2つしか違わないふたりの甲子園優勝投手が、剣道から投手力の基盤をつくり上げたというのもじつに興味深い。

 やがて、上半身の力に頼る投球から、下半身を使って投げるフォームを覚え、制球力も格段にアップ。中学2年秋の新チームからはエースとして活躍し、県内外を問わず有名高校からスカウトがくる投手にまで成長した。

 そして、憧れの高校から声がかかる。定岡正二(元巨人)、内之倉隆志(元ダイエー)ら、多くのプロ野球選手を輩出し、「鹿実(かじつ)」の愛称で親しまれてきた鹿児島実業だ。

「鹿児島というと、やっぱり鹿実に憧れがあって、甲子園にいけるんじゃないかというのがありました。ほかの選択肢はなかったですね」

【自信が確信に変わった関西遠征】

 当時の鹿児島は、鹿実、鹿児島商工(鹿商工)、鹿児島商業(鹿商)の「御三家」が君臨。なかでも鹿商工は、下窪が中学3年時の1993年、福岡真一郎(九州産業大−プリンスホテル)−田村恵(元広島)の2年生バッテリーを擁して春夏連続で甲子園に出場。春にはベスト8入りするなど、県内では一歩抜きん出た存在となっていたが、初心を貫き、鹿実への進学を決めた。

 ライバルの鹿商工が「樟南」へと校名を変更した1994年。下窪は1年夏からベンチ入りを果たし、鹿児島大会決勝で対戦したが、登板することなく、3対5で敗戦。鹿商工時代を含め、3年連続で夏の甲子園に出場した樟南は、福岡・田村バッテリーの活躍で準優勝まで駆け上がるなど、鹿児島県勢初の大旗まであと一歩に迫った。

「その時は樟南が強くて、そこにどうやって勝つかということしか考えていませんでした」

 その後、新チームとなり、鹿実は1年秋の鹿児島大会を制するも、九州大会では初戦の首里(沖縄)に4対5と逆転負け、2年夏の鹿児島大会は準々決勝で鹿商に5対9と足元をすくわれた。結局、鹿商が勝ち進み、甲子園切符を手に入れた。

「ライバルは樟南なんですけど、鹿商は夏になると強いんです。春は弱いので、油断がありました」

 甲子園に一番近い高校と信じて入学した鹿実で、2年まで甲子園出場なし。チャンスはあと2回しかない。焦りはあった。が、同時に自信もあった。

 その自信が確信に変わったのは、新チーム結成直後の8月関西遠征。滝川二や育英といった兵庫県の強豪相手に勝利したことで「俺たちはやれる」という手応えをつかんだという。

 遠征の合間には夏の甲子園を観戦。柳川(福岡)の花田真人(中央大→ヤクルト)らの投球を目に焼きつけ、来年はそのマウンドで自分が躍動する姿をイメージしていた。

「初めての甲子園は鳥肌が立ちました。"来年はみんなでここに来たいね"みたいな話をしました」

【下窪陽介を変えたふたりの恩師】

 実際、そこから7カ月後の1996年センバツに選手として甲子園に戻るわけだが、その後の下窪の活躍を語るうえで、鹿実の恩師ふたりの存在は欠かすことができない。

 まずひとり目は、久保克之監督(当時/現・名誉監督)だ。今でも忘れられない言葉がある。

「相手に敬意を払いなさい」

 登板した試合で、審判の判定に不服な態度を取れば、チェンジ後にベンチ裏に呼ばれ、叱責されながらこう言われた。

「試練は超えられる奴にしか与えられない。審判がボールと言ったらボール。じゃあ、次はしっかりストライクを投げようと思いなさい」

 審判や対戦相手、そして味方にも敬意を払う。スポーツ選手として欠かせない資質の一つだが、多感な高校生の時期は、不満が顔や態度に出ることは少なくない。全国でも名将として知られた久保監督の教えは、下窪少年の腑にストンと落ち、以降は鹿実のエースらしい立ち居振る舞いを見せるようになる。

「自分を育ててくれたのは久保先生。誰にでも言っているんですけど、今までの野球人生のなかで一番尊敬している方です」

 もうひとりは、下窪が2年時から投手コーチを務めたOBの竹之内和志さんだ。のちに杉内俊哉(元ソフトバンク、巨人)らも指導し、鹿実の監督も務めた竹之内さんは、現役時代は専修大や、社会人の河合楽器でも活躍。先発完投、連戦連投が当たり前だった時代に、省エネの重要性など、投球術のいろはを教えてくれた。

「竹之内先生からは『初球にカーブを投げる時はスローカーブでいいから、ストライクを取れ』と言われて。それを覚えたら、すごく省エネになりました」

 それまでは最初から最後まで常に全力投球だったが、スローカーブでカウントを整えることで体力を温存。打者の目線も変わるので、勝負球のスライダーも有効に使うことができた。

 こうして迎えた2年秋の鹿児島大会。決勝で樟南を12対1と圧倒的なスコアで下すと、九州大会では都城工(宮崎)を11対0(5回コールド)、諫早(長崎)を2対0、沖縄水産を5対0と圧巻の"3試合連続完封"。決勝の小倉東(福岡)戦は途中からの登板で2対1と九州王者に輝いた頃には「下窪陽介」の名は、九州のみならず、全国にまで知られるようになっていた。

後編につづく>>


下窪陽介(しもくぼ・ようすけ)/1979年1月21日、鹿児島県生まれ。鹿児島実業では3年春のセンバツで優勝、夏の甲子園でもベスト8進出。その後、日本大、社会人野球の日本通運を経て、2006年大学生・社会人ドラフト5位で横浜(現・横浜DeNAベイスターズ)に入団。入団1年目に72試合の出場で打率.277の成績を残し、その後は右の代打として活躍。2010年に退団後はサラリーマン生活を経て、現在は家業の下窪勲製茶へ入社