92歳になった今なお大いに人気を集める広岡達朗の魅力について詳しく見ていく(写真:KAORU/PIXTA)

現役時代は読売ジャイアンツで活躍、監督としては1970年代後半から1980年代中盤にかけてヤクルトスワローズ、西武ライオンズをそれぞれリーグ優勝・日本一に導いた広岡達朗氏。

実に70年もの間、プロ野球を内外から見続け、そして戦い続けてきた“球界の生き字引”の眼力は92歳になっても衰えず、今もなお球界を唯一無二の野球観で批評しつづけ、多くの野球好きの耳目を引き、メディアで大いに人気を集めている。

球界最老長の広岡達朗とともに球界を生きたレジェンドたちの証言から構成された、ノンフィクション作家・松永多佳倫氏の著書『92歳、広岡達朗の正体』より、広岡達朗の足跡を一部抜粋・再編集してお届けする。

*この記事の前半:92歳「嫌われた"球界の最長老"」広岡達朗の真実

スローイングを「試合1時間前」に矯正

初のコーチ稼業として情熱を燃やした広島東洋カープ時代の前編でも広岡のすごさが垣間見えたが、ヤクルトスワローズ時代に入ってさらに存在感を増していく。

1979年4月24日県営富山球場にて大洋2回戦。ヤクルトスワローズの先発マスクは八重樫幸雄が被った。

「前日に、広岡さんから『明日行くぞ。1時間前に監督室に来い』と言われたんです。監督室に行くと、そこで『素振りしろ』と命じられました」

監督室で素振りをする八重樫を見て、広岡は鋭い視線を送る。

「ハチ、反動つけちゃダメだ」

淡々とした物言い。広岡の教えとは、自分で決めたトップの位置を変えずに、そのまま最短距離で振り下ろす。構えたところから少しでも動いたり、遊びを作ったりすると「ダメだ」とNGを容赦なく連発する。

八重樫は投球に合わせて身体をひねったり、タイミングを取ったりしながらトップを作っていくタイプだっただけに、広岡の言う理論が合わなかった。とりあえず言われた通り何度も素振りを繰り返していると、沈黙していた広岡が口を開く。

「おい、セカンド送球はどういう気持ちで投げている?」

八重樫はバッティングのことを言われると思ったためちょっと戸惑った。

「絶対刺そうと思ってベースに対してまっすぐ投げています」

「まっすぐ投げるのはいいんだけど、お前はキャッチしてからボールを持つときに腕が必要以上に曲がる。ボールを持った腕のままセカンドに放れ」

広岡は、声のトーンを変えずに言う。バッティングも同じだと言いたかったらしいが、八重樫はそれどころじゃない。

結局、監督室での素振りは、八重樫にとって苦痛でしかなかった。広岡の言いたいことはわかるが、タイミングの取り方は千差万別ある。疑心暗鬼で素振りをやっているため、1時間やそこらで反動つけずにスムースな素振りなどできるはずもなかった。

広岡監督の「厳しさ」が理解されチームに浸透していく

試合が始まった。八重樫は2本のホームランを含む4安打の猛打賞。素振りの効果があったのかどうかはわからないが、試合は前年オフに近鉄から移籍したサウスポーの神部年男が先発し、12対1の完投勝利で見事連敗をストップさせた。

ここから八重樫のスタメン出場が増えていく。ちなみに監督室で言われた通りのスローイングを試してみたができなかった。キャッチしてボールを握ったままの形でスローンイングと言われても……。

しかし、何度も練習するうちにスナップを利かせて投げるコツを覚え、以前よりも盗塁を刺せるようになった。スローイングのアドバイスはしっかり聞いといて良かったと八重樫は思った。

「広岡さんの厳しさは最初面食らってついていけないけど、やがて広岡さんの言っていることがちょこちょこと頭に入ってくるようになると、やっぱり厳しい練習をやんないと伸びていかないんだって肌で感じてくるようになる。だから、どういう立場になっても一生懸命やらなきゃいけないんだというのを広岡さんからずっと教えられている気がする

とにかく、監督の広岡さんがいないと、チームの練習が始まっていてもみんなチンタラ走っているんですよ。でも広岡さんがポコッと現れると、みんなベテラン連中も変わってキビキビ動き出す。なんていうのかな、広岡帝国の皇帝が顔を見せた途端、民衆の背筋がピョーンとなるような感じですかね」

1984年にトレードで西武ライオンズに入団した江夏豊は、すでに球界内でも噂になっていた「玄米を食べろ、肉を食うな、酒を飲むな」という西武のルールをこの目で確かめようと食堂に行った。すると、選手たちは黙って玄米を食べていた光景に遭遇する。

西武・江夏豊が発した「禁断の発言」

「なんかアホらしい」。江夏はそう思った。

玄米を食べることそのものではなく、選手がすべて監督の言いなりになっていることに辟易したのだ。

シーズンに入り、監督の広岡が痛風を患っていることを耳にした江夏は、5月の遠征時の食事中に広岡の席までつかつかと近寄ってこう言った。

「玄米を食べているのに、監督はなんで痛風になるの?」

その瞬間、周りは凍りついた。冷静沈着な広岡の顔が強張り、何も言わずに席に立ってしまった。

江夏に悪気はなく、あくまでも本音を言ったまでだ

「何をそんなにビビっとるんや。軍隊じゃあるまいし、俺らは操り人形とちゃうぞ」

キャンプ時から「ああせえこうせえ」と一から十まで指図され、選手はそれを素直に聞き入れている。これではまるで広岡教の信者じゃないか。広岡に心酔していればまだわかるが、選手はどこかビクビクして従っているように見える。高校球児じゃあるまいし、プロのアスリートには到底見えない

江夏は「いっちょかましたろ」と思ったのだ。この痛風発言から、江夏の登板数は減っていった。

広岡に、江夏の発言を受けてから登板機会が減ったという経緯についても聞いてみた。

江夏の登板と痛風発言はまったく関係ない。ただいろんな人から痛風については言われたよ。美食で痛風になるのはウソ。人によって原因は違う。医者からは特効薬を3時間おきに飲みなさいと言われた。中西太から専門の医者を紹介され、『これを3時間おきに飲んでいます』と言ったら『広岡さん、私に会ってよかったよ。死ぬとこだったから』と言われた。3時間おきに服用していた薬が、非常に強い薬だったわけ」


かつて痛風は贅沢病と呼ばれ、美味しいものをたらふく食べている贅沢者が発症する病気と言われていた

医学の進歩により、食べすぎ、酒量といった生活習慣の乱れから、激しい運動やストレスも原因とされ、人によって原因となる要素はさまざまである。

とにかく、監督時代に痛風になったことは、マスコミならず選手からも格好の攻撃材料となった。

毎朝起きたら真水を浴び、規則正しい生活を徹底して自分を律してきた広岡が、生活習慣の乱れから痛風を発症したとは考えにくい。

おそらく極度のストレスからの発症に違いない。ただ、当時の間違った認識により周りからは好奇な目で見られるようになり、食事管理するうえでの説得力が欠けてしまったのは否めない。

「広岡達朗の生き様」は誰の人生にも当てはまる

マスコミから「管理野球」と揶揄された広岡達朗の野球スタイルは、決して型にハメたものではなかった。自主性を重んじながら目の前のことを一生懸命やらせた結果が優勝につながっただけに過ぎない。

「やるべきことをやる」。誰の人生にも当てはまることでもあり、広岡達朗の生き様はまさに万人に通じる

*この記事の前半:92歳「嫌われた"球界の最長老"」広岡達朗の真実

(松永 多佳倫 : ノンフィクション作家)