「打倒・江川卓」広島商の監督はハナから打つことをあきらめた 奇想天外なトリックプレーを考案
作新学院の江川卓が評判どおりの活躍をみせ、ついてセンバツ甲子園大会ベスト4に進出。ここまで3試合25イニングで49奪三振と、「怪物」の名に恥じぬ活躍で勝ち上がってきた。
準決勝の相手は広島商。1973年までに春1回、夏4回の全国制覇を果たし、甲子園出場は春夏合わせて25回。高校球界屈指の名門校である。江川は、この広島商の野球というものが、まったく違ったものに見えたという。
「ほかの高校は僕を打とうと振り回すところを、広島商の野球は打たない野球ですよね。甲子園で戦って『いろいろな野球があるんだなぁ。自分の野球がベストじゃないんだ』と実感しました」
3年春のセンバツ準決勝で広島商と対戦する作新学院・江川卓 photo by Sankei Visual
広島商といえば、"精神野球"が代名詞である。監督は迫田穆成(さこだ・よしあき)。84歳まで指導者をつづけた高校野球界の重鎮は、当時まだ33歳。1957年に戦後初の広島商優勝時のキャプテンであり、この時にある経験をしたことで野球観が大きく変わることになる。
接戦の試合で三塁コーチャーをしていた迫田は、あまりの大観衆の前に緊張してしまい、冷静な判断ができず三塁走者を本塁憤死させてしまった。迫田はこの時の教訓を、のちの野球人生に大いに生かすことになる。
1957年に優勝した際、新聞に『蘇る原爆球児[俊寺1]』という見出しが躍った。ナイン全員が1945年8月6日の"あの日"を体験していたのである。
迫田は爆心地から12キロ離れた己斐町(こいちょう)に住んでおり、衝撃で家は半壊。兄は亡くなり、下の弟を出産したばかりの母は寝たきり。父は姉を捜しに出て1週間後に片足を失った姉を背中に担いで戻って来たが、大量の放射線を浴びたせいで母と同じく寝たきりになってしまう。
父、母、姉、ふたりの弟、そしてフィリピンから戻って来た従兄弟ふたりの計8人が、10畳ひと間で暮らしていた。その困窮ぶりは、言わずしてわかるだろう。
「野球は意地でやっていました」
その言葉どおり、迫田はどんな状況下に置かれても野球を続けた。広島商卒業後、1965〜75年、2000〜06年の計16年間、母校の監督を務めた。
江川という超高校級の投手がいるというのは以前から知っていたが、本格的に意識したのは1973年秋、中国大会を制し、翌春のセンバツに向けて強化練習をしていた頃、見覚えのないプロのスカウトが練習後にやってきて、迫田にこう切り出した。
「迫田さん、関東に江川というピッチャーがいるのを知っていますか? これはすごいですぞ」
「そうなんですか? 鈴木孝政の高校時代と比べてどうですか?」
「孝政より上ですぞ、江川は!」
迫田は江川の実力のほどを聞いて、前年度の中国大会の時のことを思い出した。
1971年秋の中国大会1回戦で柳井高(山口)とあたり、中盤まで2対0で勝っていたが、終盤に逆転され敗れた。なによりショックだったのは、柳井の本格派投手・杉本義勝に対し、チームのなかで唯一小技が効く6番打者にスクイズのサインを出したら、球威に押されて失敗したことだ。
「こんな投手だとスクイズもできんのか......」
悔しさ反面、半ば感服したことが脳裏によぎる。
「鈴木孝政よりすごいという江川から、どうやって点を取ったらいいのか......」
迫田は悩みに悩んだ末、スクイズができないことを想定して練習を行なうことにした。
【スクイズ失敗スチール奇策】晩秋も終わりかけの1972年11月下旬、迫田は選手たちを集めてこう言った。
「おい、バットにかすらないピッチャーがいるらしいぞ」
「バットにかすらないってどういうことですか?」
「バントもできないほど、速いボールを放るってことや」
「どこにいるんですか?」
「栃木の作新に江川という投手がいるらしい」
そして選手たちは、顔を見合わせて言った。
「バットにかすらないのに、どうやって勝つんですか?」
迫田は熟考の末、ある攻略法を思いついた。
それが"スクイズ失敗スチール"である。まずそのためには、一死二、三塁の形をつくらなければならない。もしこの形をつくることができたら、バッターはわざとスクイズを失敗する。三塁走者はあまり飛び出さないかわりに、二塁走者は全速力で三塁ベース手前まで来る。そしてキャッチャーが三塁に投げた瞬間、三塁走者は全速力でホームに突っ込み、一塁側にスライディングをする。さらにその隙を狙って、二塁走者がホームに生還する。
そんな奇想天外なトリックプレーを、真剣に何度も練習した。当時の広島商のメンバーにこの伝説のトリックプレーのことを聞いたのだが、あるひとつの疑問を常に持っていたという。
「バットにかすらないのにどうやって一死二、三塁にするのだろう......」
とはいえ、監督の言うことは絶対。選手たちは疑問を抱きながらも、トリックプレーの練習に取り組んだ。
当時の広島商のキャプテン・金光興二が、江川攻略法を明かす。
「ほかのチームは江川の球をどうしたら打てるかを考えていたと思いますが、広商は最初から打つのではなく、打てないなかでどうやって点を取るのかということに焦点を絞りました。戦略としては、ウエイティングです。江川といえども4連投だったので、後半勝負だと決め、5回までに100球以上を投げさせることができれば勝機が生まれると、監督は言っていました」
では、100球以上投げさせるためにはどうすればいいのか。試合前のミーティングで迫田が説明した作戦はこうだ。
「ストライクゾーンというのは、だいたい横にボール6個分、縦に10個分。つまり、ストライクゾーンは6×10で60個のボールが入ると。その60個の上半分は打つな。さらに下半分の30個も自分に近いところの15個分はボールに力があるから捨てる。最終的には、一番遠いアウトコース低めを狙えと。
でも、そこは一番打ちづらいコースなんです。要は、そこに意識を集中しておけば、ほかのボールには手を出さない。仮に打ってもファウル。ハナから打とうとしていないんです。『ど真ん中のボールはどうするんですか?』と聞くと、『三振してもええ。自信を持って見逃してこい』ですから。これがウエイティング野球です」
広島商の選手たちは、センバツ大会で開会式直後の作新学院と北陽の試合を、バックネット裏で観戦した。普段は自分たちの鍛錬のほうが大切なため、相手チームの試合を見ることなどしないのだが、目標としている江川というピッチャーとはどのようなものなのか。この時ばかりは偵察する意味も含めてスタンドで観戦させた。
そして江川のピッチングを見るや、戦慄が走った。
「ほんまに高校生なのか⁉︎」
ナインの誰もが思った。江川とセンバツで対戦することを目標に、ワクワクしていた気持ちが一瞬にして吹っ飛んだ。それどころか恐怖心が生まれてしまった。
いよいよ迎える作新との一戦。試合前日、迫田は記者の前で秘策があることをほのめかしている。
「秘密作戦があるが、これは話せない。ただ、選手には3人くらい死んでもらう」
最後は冗談っぽく言ったが、まさしくスクイズ失敗スチールのことだ。迫田は、甲子園史に残る試合をしてやると頭の中で描いていたのだった。
(文中敬称略)
後編につづく>>
江川卓(えがわ・すぐる)/1955年5月25日、福島県生まれ。作新学院1年時に栃木大会で完全試合を達成。3年時の73年には春夏連続甲子園出場を果たす。この年のドラフトで阪急から1位指名されるも、法政大に進学。大学では東京六大学歴代2位の通算47勝をマーク。77年のドラフトでクラウンから1位指名されるも拒否し、南カリフォルニア大に留学。78年、「空白の1日」をついて巨人と契約する"江川騒動"が勃発。最終的に、同年のドラフトで江川を1位指名した阪神と巨人・小林繁とのトレードを成立させ巨人に入団。プロ入り後は最多勝2回(80年、81年)、最優秀防御率1回(81年)、MVP1回(81年)など巨人のエースとして活躍。87年の現役引退後は解説者として長きにわたり活躍している