「君は何人?」からのナショナルチーム入り ガールズケイリン太田りゆが東京五輪スタンド観戦の悔しさを忘れないための写真とは
パリ五輪出場へ向けて邁進する太田りゆ photo by Noto Sunao(a presto)
ガールズケイリンと自転車競技トラックの世界で、太田りゆは目を引く存在だ。その強さはもちろんのこと、レース前には念入りにメイクを施し、ファッションへのこだわりも強い。SNSでの発信だけでなく、メディア出演、講演活動にも積極的だ。実力も折紙つきで、ガールズケイリンデビュー前からナショナルチームのメンバーとして世界を舞台に戦っており、昨年はスプリントでアジア選手権の連覇を達成した。
「特にメイクは私にとっての戦闘服で、鎧を身にまとうことと同じなんです。強くあるために、自分に自信を持ちたいし、その自信を持つためにビジュアルを磨いています。そして選手としてだけでなく人間としても成長したいし、自分が経験したことも伝えたいと思っていろいろやらせていただいています」
オリンピックイヤーの今年はまず、国ごとの出場権をかけた国際大会が4月まで続く。太田は夢舞台への切符を手にする可能性について「楽しみな気持ちが60%で、心配が40%」と率直な気持ちを口にした。
「私には東京オリンピックに出られなかった経験がありますので、パリも絶対に大丈夫とは言えません。ただ東京前と比べて一番の違いは自分自身が成長を実感しているところで、それが自信となり楽しみな気持ちにつながっています。年明けから国際大会が始まり、香港で開催されるネーションズカップまで続きます。オリンピックの出場権の獲得はもちろん、本番でしっかり戦えてメダル争いができるという自信をつかんで帰って来たいです」
そして「今年は人生でもっとも重要な年になります」と、きっぱりと言いきった
【世界で戦いたいと思ったきっかけ】中学、高校と陸上中距離に打ち込んだが、大学では経済的な事情から競技を続けられなかった。「なんとかして家計を助けたい」との思いで仕事を探し、行き着いたのがガールズケイリンの世界。自転車競技の経験はなかったが、大学在学中に日本競輪学校(現日本競輪選手養成所)へ入学する意志を固めた。
「私は生きづらさを感じるくらい、自分の運動能力に自信があったんです。ガールズケイリンを知り、すぐにやってみたいと思いましたし、さかのぼれば、私の幼馴染のお父さんが競輪選手で、『りゆは絶対に競輪に向いている』って子供の頃から言われていました。
通っていた大学にガールズケイリン一期生の増茂るるこ選手がいて、話を聞けたことも大きかったですし、大学の先生も競輪学校の受験対策に協力してくれました。その時に自転車での回転数やパワーの数値を計ったんですが、それらの数値がすごくよくて、みんながほめてくれました。その言葉を全部真に受けて、その気になってしまいました」
事実、太田の運動能力は本物だった。2016年春に競輪学校に入ると、その10月、まだ在学中にナショナルチームの日本代表ヘッドコーチ、ブノア・ベトゥとジェイソン・ニブレットに才能を見出される。
「いきなり知らない外国人が来て、『君は何人?』って聞かれたんです。下半身の筋肉のつき方に加え、顔の見た目もあったと思うんですけど(笑)。私たちの年から競輪学校に世界で活躍する選手育成を目的に、ナショナルチーム選手と同様の環境でトレーニングをするハイパフォーマンスディビジョン(HPD)というグループができて、そこに入ることになりました。正直、まったく実感が湧かなかったんですけど、一方でオリンピックという夢が開けるし、あれよあれよという感じで進んでいきましたね」
初の国際大会は2017年2月、競輪学校卒業前のアジア選手権。その舞台に足を踏み入れた瞬間の光景が、太田の心を自転車競技へと一気に引き込んだ。
「バンクに入った時、国際大会ならではの光景が目の前に広がっていました。各国の国旗が天井から吊り下げられていて、ライトで明るく照らされていたんです。それがカッコよくて、そこに自分が足を踏み入れていることにものすごく感動したんです。胸が本当に高鳴り、ここで戦いたいと強く思いましたね」
まだ自転車競技を本格的に始めて1年も経っていない頃のことだ。「人生を変えたいと思って、競輪学校に入った」という太田だったが、その人生は短い期間で想像以上の広がりを見せ始めた。
もともと運動能力が高かったという太田。強靭なフィジカルを持つ photo by Noto Sunao(a presto)
「ただナショナルチームに入ってからは決して順調ではなかったですよ。最初の世界選手権には力不足で出られなかったですし、合宿に連れて行ってもらえなかったこともあります。競輪学校の同期はガールズケイリンだけに専念して活躍していて、うらやましいなと思ったこともあります」
だがその後、実力を伸ばし、ナショナルチームのメンバーとしての地位を確立。2019年に香港で行なわれたワールドカップではケイリンで銀メダルを獲得するまでになった。その後の国際大会でもナショナルチームの一員として奮闘。東京五輪では、女子ケイリンとしては日本史上初のオリンピック出場枠1を確保した。しかしその座を小林優香に譲ることとなり、太田は自国開催の大舞台を補欠としてスタンドから観戦することになった。
「その時の光景は忘れられません。観客席から見ることで、外から選手を応援する悔しさをひしひしと感じました。これまでも頑張ってきたつもりですが、もっと頑張らなければと思い、もう一回、五輪を目指すことを決めたんです。
それは厳しいナショナルチームのトレーニングをまた3年間続けることであり、自分の人生設計にも影響することなので覚悟が必要でした。でも東京で感じた悔しさを忘れないために観客席からの写真を自分のInstagramに載せて、ずっと見続けて頑張ってきたんです」
自転車競技に邁進する一方、ガールズケイリンのいち選手でもあるため、回数は少ないながらも出走を重ねてきた。ガールズケイリンでは勝つだけでなく、勝ち方まで含めて、期待に応える場と捉えている。当然、日の丸を背負って世界で戦っているだけに、否応なしに注目度は上がり、勝利を期待される。だがそれはプレッシャーとはならない。
「負けてはいけないという自覚はありますが、一方で自転車も競技特性も違うので、私たちよりガールズケイリンを専門としている選手のほうが負けられないという思いが強いはずです。最近は国際大会でも応援してくれることが増えましたが、やはり日本国内では日本語で応援していただけるので楽しいですよ」
そう言って笑顔を見せる太田。ガールズケイリンで走る彼女のレースを観に行けば、持ち味であるパワフルな追い上げと強気なレースをきっと目の当たりにできるはずだ。
明るい性格でコミュニケーション能力も高い太田 photo by Noto Sunao(a presto)
夢にまで見たパリ五輪への出場権をかけた戦いは、いよいよ大詰めを迎えている。
「まずはしっかり出場権を獲得することが今の目標です。そして絶対にメダルを獲るという強い意志と走りをパリでできるようにしたいと考えています。そして今、講演などに呼ばれると、オリンピックを目指す話が中心ですが、出ることでまた自分に話せるテーマが生まれます。
この先、自転車競技をやめる時がきても、自立した女性として生きていけるように、将来を見据えながら、目の前の目標に向かって一生懸命に頑張りたいと思っています」
"りゆ"という名前は、"龍"から取ったという。辰年にあたる2024年は、まさに太田の年だ。3年前の悔しさを経て、どこまで高みに登ることができるか。それは誰よりも太田自身が一番楽しみにしている。
【Profile】
太田りゆ(おおた・りゆ)
1994年8月17日生まれ、埼玉県出身。中学・高校と陸上競技の中距離選手として活躍し、大学時に競輪学校の試験を受けて合格。2016年に入学すると在学中にナショナルチームから声がかかり、2017年2月のアジア選手権大会のチームスプリントに出場し3位となる。その後も数々の国際大会に出場して結果を残し、2022年、2023年のアジア選手権女子スプリントで連覇を達成した。ガールズケイリンでも活躍し、いくつかのビッグレースで決勝を走るなど、屈指の実力を誇っている。