連載 怪物・江川卓伝〜甲子園デビュー(前編)

「バットにボールが当たっただけで拍手が起こる」

 作新学院・江川卓が出場した1973年、第45回センバツ甲子園大会を語る時に必ず出るフレーズだ。 "江川伝説"を語るにおいて、もっとも象徴的でわかりやすい事象であることは間違いない。


1973年春のセンバツ大会、初戦の北陽戦で快投を見せる江川卓 photo by Sankei Visual

【優勝候補から19奪三振】

 県大会などで8度のノーヒット・ノーラン(うち完全試合が2度)を記録。噂の剛腕投手が満を辞して全国大会デビュー。

 ちょうど同じ頃、地方競馬出身の"怪物"ハイセイコーが中央に出て、連戦連勝を重ねていた姿とダブらせ、いつしか江川のことを「怪物」と日本中の誰もが呼ぶようになった。

 新チームになってから15試合、111イニングで被安打28、奪三振194、与四球25、自責点0。この記録だけを見れば、江川から点をとるのは不可能に近い。

 前代未聞の記録を引っ提げ、甲子園に初登場した江川はどんなピッチングをするのか。はたして本物なのか、それとも張り子の虎なのか......野球関係者、報道陣、選手たちが一同に関心を寄せていた。

 しかも江川の登場は、開会式後の第1試合。最もプレッシャーのかかる試合である。そんな大注目のなか、作新対北陽(大阪)戦が始まった。

 作新は後攻であり、つまり江川が投じる1球目がセンバツ大会の幕開けとなる。相手の北陽は、出場30チーム中トップのチーム打率.336を誇る強力打線だ。

 3月27日、午前10時35分、試合開始のサイレンが高らかにこだまし、182センチ、82キロの巨躯から唸るようなストレートが外角低めに決まった。

「ストライーク!」

 サイレンが鳴り終わるとともに、球審の声が響きわたった。江川の輝かしい未来へと通ずる甲子園での第1球。スタンドは静寂に包まれ、ミットを切り裂くような乾いた音と球審のコールだけ聞こえる。やがて「おぉぉぉ」とスタンドが遠慮がちにざわめく。あまりのストレートの速さに、観客は呆気にとられていた。結局、1回は15球を投げ3者三振。華々しいスタートを切った。

 そして2回、5番・ピッチャーの有田二三男へ投じた3球目は、この日初めてバットに当たるファウルとなった。

「うおおおおおお!」
「当たった、当たったぞ!」

 歓声で地鳴りが起こり、拍手喝采となる。それから1球投げるたびに悲鳴にも似た歓声が沸き起こる。評判どおりの江川の快速球は、一瞬にして見る者を虜にした。

 初回から5者連続三振。6番・杉坂高には力んで四球を出してしまったが、そこから再び奪三振ショー。4回二死から5番の有田にライトオーバーの三塁打を打たれるまで、11個のアウトをすべて三振でとった。

 ノーヒット・ノーランは果たせなかったが、2対0で勝利。江川は被安打4、奪三振19と圧巻の完封劇で全国デビュー戦を飾った。

【3者三振で締める江川卓の美学】

 試合後、北陽の監督である高橋克はこう語った。

「完敗です。どうしても江川くんの速球に抑えられてしまった。真っすぐを狙わせましたが、スピードが速すぎて、バットに当たらなかった。私の見た限りでは、速球よりカーブのほうがコントロールはいいように思えた。途中から作戦を変え、短打打法に切り替えたがダメだった。敗因は私にあります」

 過去、尾崎行雄や江夏豊の高校時代を知る当時部長だった松岡英孝は、こんなコメントを残している。

「上には上がいるという気持ちですわ。はっきり言って完敗です。三振19個? ウチの野球部史上最多ですね。あんなピッチャーは初めて見ましたわ」

 打線の要である4番の藤田寛は4打数4三振。「あれじゃ、とても打てない」と、うなだれるしかなかった。

 江川の美学は、最終回に3者三振で仕留めること。プロ入りした時によくこの話を出していたが、すでに高校時代から意識していた。

「(9回が)あの試合(北陽戦)で一番できのいいイニングでした」

 試合後、江川はこのコメントのみ笑みを浮かべながら話していたのが印象的だった。

 野球評論家、プロのスカウト、スポーツ記者などは、ふつう欠点を見つければ容赦なく指摘するものだが、江川のすごすぎるピッチングにほとんどの人が手放しで褒めたたえるしかなかった。なかには、最大級の賛辞を贈るスカウトもいた。

「とてつもない大投手。プロとかアマとか別にして、こんな大投手が生まれてきたんだということを野球ファンに見てもらいたいですね。10年にひとりの選手? そんな表現は江川には安っぽすぎる」

 江川はこの試合について、のちにこう振り返った。

「最初の甲子園の第1試合で、優勝候補の北陽と当たりました。その時はすごく調子がよかったので、いいピッチング(19奪三振完封)ができたと思いますね。ただ甲子園になかなか出られなかったので、優勝しようという気は全然なかったですね」

【高校ナンバーワン捕手の証言】

 ここではっきりさせておきたいのが、江川が本当の意味で絶好調だったのは前年秋の関東大会であり、このセンバツは決して本調子ではなかったということだ。それでも優勝候補相手にあれだけのピッチングをするのだから、怪物なのだ。

 じつはセンバツ大会の開幕前、江川伝説はすでに始まっていた。開幕2日前の3月25日、滝川高のグラウンドで練習した時のことだ。当時、滝川高には高校ナンバーワン捕手との呼び声が高い中尾孝義がいた。

 中尾はのちに大学(専修大)、プロ(中日)でも江川と対戦し、1982年のオールスターでは江川とバッテリーを組んで8連続三振を演出した。そんな中尾が高校時代の江川について、こんなエピソードを語ってくれた。

「センバツ前、作新が滝川高校のグラウンドに練習しに来たんです。その時、ひと回りだけ江川が投げるシートバッティングをしたんです。まあすごかったですよ。1球目はストレートを空振り、2球目もストレートを空振り、3球目は『わぁ、頭に当たる』と思ったらストンと落ちるカーブで見逃し三振。結局9人中8人が三振で、ひとりがボテボテの内野ゴロ。ウチのエースなんて『オレたちがやってきた野球は何だったんだ?』って真剣に悩んでいました。

 あと驚いたのは遠投ですよ。ファースト付近からレフトに向かった80〜90メートルほどの遠投をするんですけど、低い弾道のままボールが落ちてこないんです。もうレベルが違いすぎました。大学、プロでも対戦しましたが、高校時代のインパクトには度肝を抜かれました。82年のオールスターで江川の球を受けましたが、高校で初めてバッターボックスから見た球のほうが数段上でした。あとから作新のキャッチャーに、シートバッティングだから本気で投げていないと言われて、さらにショックを受けましたね」

 そしてその頃から、「沢村栄治2世」「スーパー投手」「右の江夏豊」「パーフェクト・ボーイ」......といったように、いろいろな形容詞が江川につけられるようになる。江川卓というキャラクターが、自分の意思とは別に勝手にひとり歩きし始めた瞬間だった。

(文中敬称略)

後編につづく>>


江川卓(えがわ・すぐる)/1955年5月25日、福島県生まれ。作新学院1年時に栃木大会で完全試合を達成。3年時の73年には春夏連続甲子園出場を果たす。この年のドラフトで阪急から1位指名されるも、法政大に進学。大学では東京六大学歴代2位の通算47勝をマーク。77年のドラフトでクラウンから1位指名されるも拒否し、南カリフォルニア大に留学。78年、「空白の1日」をついて巨人と契約する"江川騒動"が勃発。最終的に、同年のドラフトで江川を1位指名した阪神と巨人・小林繁とのトレードを成立させ巨人に入団。プロ入り後は最多勝2回(80年、81年)、最優秀防御率1回(81年)、MVP1回(81年)など巨人のエースとして活躍。87年の現役引退後は解説者として長きにわたり活躍している