元阪神の通訳・河島徳基氏 インタビュー後編

(前編:星野仙一政権の阪神を支えた元通訳が語る「助っ人外国人」との付き合い方「バルデスが激怒して...」>>)

 2002年〜2005年まで、阪神で外国人選手の通訳などを担当していた河島徳基氏に聞く当時の阪神。インタビュー後編は、岡田彰布監督の第一次政権時代の裏話や、プロ野球で活躍する助っ人たちの特徴などを語った。


2005年、阪神のシーツ(左)を出迎える岡田監督photo by Sankei Visual

【「練習嫌い」と言われた元ヤンキースの助っ人の素顔】

――2004年に岡田彰布新監督が就任。河島さんは2003年に事業部で仕事をされたあと、再び通訳に戻ったそうですね。

「私は二軍の担当になりました。二軍で調整していた時のジョージ・アリアスやマイク・キンケード、投手陣では、ヤクルトで最多勝を手にしたケビン・ホッジスの弟のトレイ・ホッジス、ラモン・モレル、ロドニー・マイヤーズなどの通訳をしました。翌2005年は一軍に帯同する野手の通訳を任され、広島から移籍してきたアンディ・シーツや、新外国人のシェーン・スペンサーなどをサポートしていました。

――特に印象に残っている外国人選手はいますか?

「2005年からチームに加わったスペンサーですね。ヤンキースの一員としてワールドシリーズを制したことがある実績があった選手ですが、日本ではあまりいい成績を残せず、当時の阪神では桧山(進次郎)さんと交互に起用されていた。右打者の彼が、右投手の登板時にベンチを温めている姿を見ると、どこか可哀想に感じることもありました。

 結局、彼は2006年限りで日本球界を去ることになりました。当時を思い出すと、いまだに『レギュラーとして試合に出てほしかった』『日本でのプレーを続けてほしかった』と思うこともあります」

――そこまでの思い入れがある選手だったんですね。

「彼にはよく、個人練習に付き合わされましたから(笑)。スペンサーは、練習時間が長い日本の野球を『クレイジーだ』と表現したことがあって、そのせいで『練習嫌い』のイメージが定着してしまったんですけど、実際の彼はとても練習熱心でした。

彼と一緒に室内練習場に向かうと、『このエリアを打ちたいから、こういうトスをあげてほしい』などと言われました。それで、15分くらい黙々と同じ練習を続けるんです。自分が克服すべき課題を理解し、それを解決するためのさまざまな練習法を持っている選手でした」

【日本のプロ野球で活躍する助っ人の特徴】

――近年は、加入初年度の外国人選手が華々しい活躍をすることも難しくなりつつありますが、"外国人助っ人"が日本球界で活躍するために必要な要素は何だと思いますか?

「当時と今とでは違うかもしれませんが、野球の実力よりも『日本の社会に適応できるかどうか』が重要だと思いました。例えば、多少なりとも日本語が話せたり。その点、2005年に広島から移籍してきたアンディ(・シーツ)や、"JFK"の一角で活躍したジェフ(・ウィリアムス)は日本に馴染む努力をしていましたね。

 ジェフはとても知的な選手で、アメリカ球界でも"外国人選手"としてプレーしていた時間が長かったせいか、他の選手よりも外国での振る舞いを心得ているように感じました。アンディは日本語をある程度は話せましたし、時には新外国人選手が生活環境に不満を言ってきた時に、『阪神の待遇はすばらしいんだぞ』となだめてくれたこともあった。通訳として、ジェフやアンディにはざまざまなところで助けられましたし、本当に感謝しています」

――日本人の選手たちは、外国人選手とどのようにコミュニケーションを取っていましたか?

「僕が『すごいな』と思ったのは、下柳(剛)さんです。現役時代はあまりメディアへの出演もしなかったので寡黙なイメージがあるかもしれませんが、実際は饒舌で、とても面白い方なんです。まさに、チームの"ムードメーカー"的な存在でした。

 そんな下柳さんが、春のキャンプが終盤に差し掛かった頃に、外国人選手を全員集めて食事会を開いたことがあるんです。最初は和気あいあいだったんですが、だんだん真面目な雰囲気に変わっていって......。最後に、下柳さんが真剣な表情で『俺は優勝したい。そのためにはみんなの力が必要だから一緒に頑張ろう!』と話し始めたんです。その言葉に心を動かされた外国人選手たちが一致団結し、店を出ようとしたら、下柳さんが会計を済ませていたんです。そんな細かな気遣いには、本当に驚かされました」

【リーグ優勝した2005年シーズンの裏話】

――優勝した2005年の印象に残っている試合はありますか?

「優勝が間近に迫ったナゴヤドーム(現バンテリンドーム ナゴヤ)の中日戦(9月7日)で、中村豊が延長戦で本塁打を放った試合です。この試合で阪神は、本塁に向かった中村が微妙な判定でアウトになったり、その後も不利な判定が続いたこともあって、岡田監督が試合の途中で選手たちをベンチに引き上げさせて審判に猛抗議をした。そんな荒れた試合に決着をつけたのが、微妙な判定をされた"伏兵"中村の本塁打。フラフラと上がった打球がレフトスタンドに入った時に、僕はリーグ優勝を確信しましたね」

――その後、阪神は順調にマジックを減らし、9月29日にリーグ優勝を決めました。ただ、日本シリーズではロッテ相手にまさかの4連敗。一部では、4戦合計のスコアから「33−4」などと揶揄されていましたが......。

「僕が言うことではないでしょうが、当時はパ・リーグだけがプレーオフを導入していて、対戦相手のロッテは直前まで真剣勝負を繰り広げていた。一方の阪神は、早々に優勝を決めた後に実戦から遠ざかり、ふわふわした雰囲気でまったく流れを掴めないまま日本シリーズが終わってしまった感じです。実践感覚の差や、科学的には説明のつかない試合の流れを掴む難しさなどを思い知ったシリーズでしたね」

――当時の岡田監督の采配を、間近で見ていていかがでしたか?

「岡田さんは、ジェフ、藤川球児、久保田智之による"JFK"のように、選手にきちんとした役割を与える傾向がありました。選手たちも自分の出番に向けて準備がしやすかったと思いますし、そこは昨年の岡田さんの采配にも通じるものがあるんじゃないかと。

 実は、2005年のシーズン中に、当初の予定とは違う投手が場内にアナウンスされて、マウンドに上がったことが何回かあるんです(苦笑)。僕が覚えているのは、大差で勝っていたのにジェフの名前がコールされた試合です。

 スパイクの紐を緩めてリラックスしていたジェフは、自分の名前を聞いて驚いていましたよ。『とりあえず牽制球で肩を温めよう』と言って、ひとまずマウンドに送り出したんですけど、その時は打たれてしまった。ベンチに戻ってきた時、ジェフは怒っていましたよ。あとは東京ドームの巨人戦で、江草(仁貴)がブルペンからマウンドに向かおうとした時に、別の投手がコールされたこともありましたね」

――そういった間違いは、2005年よりも前にもあったんですか?

「そうですね。選手たちは、自分が試合に出るタイミングを予測しているので、想像とまったく違うところで呼ばれた時は不憫にも感じました。ただ、プロの選手である以上、呼ばれたら試合で結果を残さなきゃいけない難しさもある。"代打の神様"と言われた八木裕さんが、ベンチ裏で試合展開を見ながら準備する姿などを見ていても、期待どおりの活躍をする難しさを感じました」

【甲子園が「世界の人気観光地」に?】

――昨年に復帰した岡田彰布監督は、18年ぶりのセ・リーグ優勝と38年ぶり2度目の日本一を達成しました。河島さんから見て、以前と変化を感じる点はありますか?

「僕が言うのはおこがましいですし、あくまで客観的に見た印象ではありますが、采配の落ち着きが増したように感じました。岡田監督のすごいところは、2005年にプロ2年目の鳥谷敬をレギュラーで起用し続けたように、不振に苦しんだ4番の大山悠輔や佐藤輝明、ルーキーの森下翔太などを使い続けたことにあると思っています。

 ただでさえ、『なんであんなに調子の悪い選手を使うんだ』というファンの声が聞こえやすい球団なのに、耐えながら起用を続けられる。目の前の勝利が求められてもブレない。その姿勢は18年前にも見られましたが、より堂に入った印象がありますね」

――河島さんは2005年まで阪神に勤務された後、スポーツビジネスの分野でご活躍されています。昨年に日本一になった阪神の今後に期待することはありますか?

「ビジネスの視点で阪神のことを考えると、梅田と三宮を結ぶ阪神電車のちょうど真ん中に甲子園球場があって、試合がある日には沿線から3万人のファンが訪れる、という"究極のローカルビジネス"が成り立っているんです。本当にすばらしい球団のあり方ですが、すさまじい数のジェット風船が飛ぶアルプススタンドの風景を、アメリカの方に映像で見せるとかなり驚いてくれることもあります。

 日本を訪れる外国の方も増えてきているので、彼らに向けて日本の野球文化を発信できたら、将来的には『世界の人気観光地』に甲子園球場をランクインさせることもできるかもしれない。収益が増加すれば、人気メジャーリーガーをチームに呼ぶこともできるようになるかもしれません。

これまで以上に、チームが成長していく可能性が秘められているように感じます。今季の阪神は連覇を目指すことになりますが、『球団の魅力を世界の人々に知ってもらいたい』という気持ちはずっと持ち続けています。

【プロフィール】
河島徳基 (かわしま・のりもと)

学習院大学経済学部卒業後、アメリカ・ウィスコンシン州の「UNIVERSITY of Wisconsin La Cross」のスポーツ科学大学院に進学し、ストレングス&コンディショニングコーチになるための科目を専攻。カリフォルニア州の「The Riekes Center」にてアスリートにトレーニングを教える仕事に従事後、帰国。パーソナルトレーナーの仕事を経て、阪神タイガースで通訳や営業の仕事に携わる。2005年に「(株)RIGHT STUFF」を設立し、現在は代表を務める。主にスポーツ業界に特化した人材紹介や、ビジネスとスポンサーマッチングビジネスを展開中。