元阪神の通訳・河島徳基氏 インタビュー前編

 昨年、監督復帰を果たした岡田彰布監督に率いられて日本一になった阪神。セ・リーグを制したのは、岡田監督の第一次政権時代の2005年以来、日本一は岡田監督が現役だった1985年以来の快挙だった。

 岡田監督の阪神監督としてのキャリアは、星野仙一監督の下でセ・リーグを制した翌年の2004年にスタートし、就任2年目にセ・リーグを制覇した。星野氏が阪神の監督に就任した2002年から、岡田監督がセ・リーグを制した2005年まで、阪神で外国人選手の通訳などを担当していた河島徳基氏に、当時の外国人選手との向き合い方、2003年のリーグ優勝時のチームの雰囲気などについて聞いた。


2003年、好投した阪神のムーア(右)を出迎える星野監督 photo by Sankei Visual

【キャンプ中に「来られますか?」】

――まずは、河島さんが阪神タイガースに入社した経緯を聞かせてください。

「僕は阪神の通訳になる前、アメリカでスポーツトレーナーとして働いていたのですが、2001年の冬頃に個人的な事情で日本に戻らないといけなくなり、帰国して個人でパーソナルトレーナーをしていたのですが、僕のことを気にかけてくれた知人が『阪神の通訳募集の広告を見た』と連絡してくれて。『絶対に無理だろうな』と思いつつ、とりあえず履歴書を送ってみたんです。

 でも、面接には進んだものの、結局は落ちてしまい......。パーソナルトレーナーの仕事に戻ったタイミングで、阪神のほうから電話がかかってきたんです。忘れもしない、2002年の2月13日のことでした」

――2月中旬ということは、すでに春季キャンプが始まっている時期ですよね?

「そうなんです。球団の方によると『内定していた方が前の会社を退職できずにいる』とのことだったようで、次点の僕に声をかけたそうです。『今から来られますか?』と言われたので了承し、ボストンバックに荷物をまとめて、2日後には高知空港に降り立ちました。星野仙一さんが阪神の監督に就任した年だったので、キャンプ地(安芸市営球場)には多くの報道陣が詰めかけていたことを覚えています」

――河島さんが任された業務は?

「当時の阪神の通訳は一軍の投手、野手、二軍を担当する3人体制で、僕は投手の通訳を担当しました。その年に新加入したトレイ・ムーアや抑えのマーク・バルデスに加え、グレッグ・ハンセル、バディ・カーライルも含めた4投手の通訳です。ただ、外国人枠は最大4人ですから、シーズン開幕後は一軍に帯同していたバルデスやムーアとコミュニケーションを取ることが多かったです」

【助っ人たちと接する上の意外な苦労】

――通訳として苦労したことはありますか?

「アメリカ南部のテキサス州出身のムーアが話す英語は、少しわかりにくかったですね。特にご両親が来日された時は、地域特有の訛りがあるので聞き取るのが大変でした(笑)。翌2003年に加入するオーストラリア人のジェフ・ウイリアムスも、独特なイントネーションの英語を話していたように思います。

 また、英語圏以外の国の選手たちが話す英語を通訳することもありましたね。ただ、それぞれの細かな違いはありましたけど、日本に来る"助っ人"は多少なりともアメリカの野球を経験していますから、『まったく聞き取れない』ほどではなかったように思います」

――選手の家族とも交流の機会があるんですね。

「外国人選手は家族を大切にする文化があるので、選手の家族に対するサポートも重要な業務のひとつです。具体的には、選手の遠征に同行する家族のためのホテルや新幹線のチケットの手配、ディズニーランドのチケットの予約をすることもありました。時には遠征先で、家族の観光に同行するケースもありましたよ」

――選手のプライベートにも寄り添うんですね。

「そうですね。さまざまなところに気を配らなければならないんですが、特に気を遣ったのは日用品の買い物でした。お店に並ぶ日用品のパッケージはほとんど日本語で書かれているので、来日したばかりの選手は戸惑うことが多くて......。そんな選手の買い物に同行して『どんな商品なのか』を説明したり、美容室で選手の希望を美容師さんに伝えたり、といったこともありました」

――"助っ人"たちは、試合におけるストレスや葛藤とはどう向き合っていましたか?

「開幕7連勝スタートを切った2002年はあまり見られませんでしたが、連敗が続いた時などは、外国人選手がやり玉に挙げられやすかったです。例えば、優勝した2003年に主力だったジョージ・アリアス(打率.265、38本塁打、107打点)でも、チームの成績がよくないと『打率が低くて三振が多い』と言われ、勝てない要因にされてしまうこともあるんです。

 それでも多くの外国人選手は、さまざまな批判を受けやすい状況を受け入れ、『長いシーズンをどう戦い抜くか』を考えながら必死にプレーしていました。彼らの姿勢に"プロ野球選手のすごさ"を感じましたし、僕も多くのことを学んだように思います」

【抑え候補のバルデスが激怒】

――当時の星野監督は、外国人選手に対してどう振る舞っていましたか?

「『星野監督は外国人選手の心を掴むのが本当に上手だな』と思いました。キャンプ期間中に、外国人選手だけを集めた夕食会をホテルのレストランで開いて結束を強めたり、試合前に星野さんに呼び出されて、恐る恐る監督室に行くと外国人選手の奥様に用意した誕生日プレゼントを渡してくれたり。選手に対してさまざまな気遣いをしていましたね」

――監督室に向かうのは「恐る恐る」だったんですね。

「正直に言うと、怖さしかありませんでした(笑)。当時の僕はまだ20代で、通訳の仕事も始めたばかり。テレビで見ていた星野さんの"闘将"のイメージは強烈でしたし、ご本人を目の前にすると萎縮してしまうこともあったと思います。

ただ、怒っているイメージが強いかもしれませんが、選手を個別に呼び出したり、いきなり怒鳴るようなことはなかった。厳しい言葉を口にするのは、ミーティングで選手が集められた時など、ごく限られた場面だけだったと記憶しています」

――星野監督時代に、外国人選手と揉めたことはありませんでしたか?

「先ほど話した外国人選手を集めた食事会で、星野監督は『部屋の鍵を開けておくから、気になることがあればいつでも監督室に来てくれ!』と伝えていました。とはいえ、その言葉を文字どおりに受け取る選手はほとんどいないんですけどね。

でも、キャンプの時に『抑え候補』と言われていたバルデスが、オープン戦で結果を残せなかったことがあって。『別の投手を抑えで起用するかもしれない』という噂を耳にしたバルデスが、『今からホシノに直訴しに行く!』と言い出したんです。僕は必死に止めたんですが、気持ちが昂っている彼には何も聞き入れてもらえませんでした」

――どのようにその場を収めたんですか?

「ひとまず、『何かあったら俺のところに来い』と言ってくださっていた島野育夫ヘッドコーチのところにバルデスを連れていって、話し合ってもらうことにしたんです。すると島野さんはバルデスに『星野は、開幕からお前を抑えにすると言っていたから心配するな』と諭してくれて。それで彼は落ち着きを取り戻しました。

 島野さんは、開幕した後もいろいろ気を遣ってくださったので本当に助けられました。翌2003年、阪神が18年ぶりにセ・リーグ優勝を果たした時も『島野さんの力が大きかった』と話す方も多かった。当時のチームを支える大切な存在だったように思います」

【2003年のリーグ優勝時の裏方業務】

――阪神がセ・リーグを制したシーズン、チームの雰囲気はいかがでしたか?

「2003年に関しては、さまざまな事情があって僕は事業部で仕事をしていたのですが、毎日がお祭りのような楽しい日々を過ごしました。シーズンが進むにつれて、『ライセンス料を払うからグッズを作りたい』といった電話が引っきりなしにかかってきたり......優勝に向けて盛り上がっていくのを感じながら仕事をしていました」

――マジック2で迎えた甲子園球場での広島戦(9月15日)に勝ち、試合後に他球場でヤクルトが敗れたことで優勝が決まりました。当日のエピソードを聞かせてください。

「前日のナイター(ナゴヤドームでの中日戦)が終わった後に、警察から『夜中のうちから甲子園球場の前にたくさんのファンが来ているので、明日は早めに開門してほしい』という電話がありました。それで、翌日の早朝8時に門を開けると、すさまじい数のお客さんが球場に入ってきた。普段とは違う雰囲気や、優勝を待ちわびたファンのみなさんの熱量が感じさせられた試合でしたね」

――優勝の瞬間はどうやって見届けましたか?

「僕は優勝セレモニーの担当だったので、数千万円するだろうと言われたティファニー製のトロフィーを台車で球場に運んだり、ビールかけの準備をしながら優勝が決まるのを待っていました。マジックが減り始めた頃から、セレモニーの準備や優勝グッズの制作を進めていましたが、優勝がいつ決まるかと状況を見ながらの業務は本当に大変でしたね」

――ダイエー(現ソフトバンク)と対戦した日本シリーズは、本拠地の甲子園球場で3連勝したものの、3勝4敗で敗退しました。

「ただ、甲子園球場での主催試合(第3〜5戦)では現地で仕事をしていましたが、3連勝したこともあってシーズン中とは比べものにならないくらい盛り上がっていましたよ。甲子園を訪れた約4万人のファンの歓声は地鳴りのようでした。結果的に日本一には届きませんでしたが、それを望む人たちの熱量の高さを感じましたね」

(後編:岡田彰布第一次政権を支えた阪神の元通訳が見た活躍する「助っ人」の特徴「馴染む努力が重要」>>)

【プロフィール】
河島徳基 (かわしま・のりもと)

学習院大学経済学部卒業後、アメリカ・ウィスコンシン州の「UNIVERSITY of Wisconsin La Cross」のスポーツ科学大学院に進学し、ストレングス&コンディショニングコーチになるための科目を専攻。カリフォルニア州の「The Riekes Center」にてアスリートにトレーニングを教える仕事に従事後、帰国。パーソナルトレーナーの仕事を経て、阪神タイガースで通訳や営業の仕事に携わる。2005年に「(株)RIGHT STUFF」を設立し、現在は代表を務める。主にスポーツ業界に特化した人材紹介や、ビジネスとスポンサーマッチングビジネスを展開中。