「高校で活躍してプロ野球選手に」の夢は入学すぐに断念 大阪桐蔭「藤浪世代」の控え捕手は「とんでもないところに来てしまった」
大阪桐蔭初の春夏連覇「藤浪世代」のそれから〜森島貴文(前編)
「毎朝、目が覚めたらまずネットニュースをチェックします」
藤浪晋太郎の移籍先が決まっていないか、確認するためだ。(※日本時間2月3日にニューヨーク・メッツと契約)
「見出しに"藤浪"とあると、『決まったか!』となるんですけどね。まあ、昨年12月末に会った時に『決まるのは早くて1月末くらい』と言っていたので」
世界は違うが、働き場所が決まらないがゆえの落ち着かなさは想像できる。ただ、このヤキモキさせる感じがまた「藤浪っぽい」とも言った。浮き沈みの激しさ、型にはまらない魅力。この時代にあって、藤浪はやはり稀有な存在である。
大阪桐蔭時代は控え捕手としてチームの春夏連覇を支えた森島貴文氏/写真は本人提供
「常に騒がせますからね。なんでこんなに藤浪のニュースばっかり記事にするんやろうって思う時もありましたけど、ネタになりますからね。なんだかんだ人気者ですよね(笑)」
声の主は、12年前に甲子園春夏連覇を達成した大阪桐蔭の控え捕手としてチームを支えた森島貴文だ。
少し確認したいことがあり、電話を入れたのは1月26日。その日はセンバツ大会出場校の発表の日で、話題は同級生の藤浪から12年前の記憶へとつながった。
「自分たちの時のことはよく覚えています。発表の時間が近くなってくると、ユニフォームに着替えて、本館の運動場でストレッチとかしながら、校長先生が報告に来られるのを待っていました。でも、校内にいた生徒が先にその情報を知って『おめでとう!』って言い始めて......。ただ、僕らにとっては初めての甲子園でうれしかったんですけど、僕はまだメンバーに入れるかわからなかったので。内心ピリピリしながらほかのメンバーとカメラマンの要望に応えてガッツポーズしたり、帽子を空に向けて投げたり......今年も僕みたいに微妙な気持ちで笑顔をつくっている選手はいるはずですよ(笑)」
高野連への登録メンバーの提出は、例年2月半ば。前年秋の大阪大会、近畿大会は背番号17でベンチ入りしていた森島だったが、際どいポジションにいたことに変わりはなかった。
「1月末から紅白戦が始まって『最後のアピールや!』と張り切りながら、ちょっとでもケガをしたら外されるという怖さも常にありました。メンバー発表までの時間は、本当にピリピリでした」
当時は、各大会ともベンチ入りは18人。そのなかで当時の大阪桐蔭のベンチ入り捕手は、1学年下の正捕手・森友哉と、秋の大会で背番号12を背負った同級生の藤原勇太が有力とされ、残る枠は一枠。
「17番か18番でもうひとりキャッチャーが入るだろうというところで、僕と尾下(皓亮)と倭(慎太郎)らで争っていたんです」
結果、森島は春、夏ともにベンチ入り。表舞台で活躍することはなかったが、この代の話になった時、チームメイトや監督の西谷浩一の口からしばしばその名前が出る。たとえば西谷は、かなりの確率で「いい男ですよ」とひと言入れてから、決まりの言葉を続ける。
「もし僕が会社の社長をするとしたら、必ず森島には声をかけます。そういうヤツです」
この言葉で、森島がいかに信頼され、チームに必要な戦力だったかがわかる。
【5年越しの思いを実らせ大阪桐蔭へ】現在、森島は福岡県の博多にあるTOTO株式会社九州支社の営業マンとして、サラリーマン生活を送っている。
出身は大阪府豊中市。大阪桐蔭の最大のライバル・履正社の地元で育ち、豊中リトル、豊中シニアで野球に夢中になった。当時は阿部慎之助と城島健司のファン。左の強打の捕手兼投手として成長していくなか、大阪桐蔭への憧れが膨らんでいった。
当時、森島の父はスポーツメーカーに勤務し、大阪桐蔭にも出入りしていた。森島の小学5年の冬、豊中リトルが大阪桐蔭も練習試合などで使用する龍間グリーンフィールドの野球場で試合を行なうことがあった。その帰り、父が「見に行ってみるか」と、そこから車で7、8分のところにある大阪桐蔭の練習グラウンドへ連れて行ってくれた。
西谷や部長の有友茂史らとも顔見知りの父に連れられ、グラウンド脇から練習を観戦。ここで森島の心は決まった。
「とにかくカッコよくて、『これが高校生?』って感じで、驚きでした。ちょうど大阪桐蔭OBで阪神から1位指名を受けた岩田(稔)さんがあいさつかなんかで来られていて、そこに夏の甲子園で活躍してドラフト1位で中日に指名された平田(良介)さん、1年生だった中田(翔)さん......あまりの豪華さにテンションが上がって、『オレも絶対ここに行く!』と一瞬にして気持ちをつかまれたのを覚えています」
大阪桐蔭に行くために──これが中学の3年間を過ごすモチベーションになった。豊中シニアの2年春には全国大会に出場。3年になると、西谷がグラウンドにやってきた。この時まで進路について父としっかり話すことも、大阪桐蔭に行きたいと口にすることもなかった。それが西谷訪問後のある夜、初めて父子ふたりでこれからの話をした。
「大阪で甲子園に狙えるところに行きたい」
子どもの希望に、父からは「たとえば......」という感じで、履正社の名が出た。ここで初めて森島が秘めていた思いを口にした。
「大阪桐蔭に行きたい。大阪桐蔭で勝負したい」
そして2010年春、5年越しの思いを実らせ大阪桐蔭へと進んだ。ところが、待っていたのは厳しい現実だった。「高校で活躍してプロ野球選手に」という夢は、入学と同時に吹き飛んだ。
「最初に見た練習が衝撃でした。一番はキャッチャーの江村(直也/2010年ドラフト5位でロッテに入団)さんの肩。とにかくえげつなくて。ほかの先輩たちのキャッチボールのボールも強いし、ノックの時の動き、スイングの速さ、打球の強さ......。『とんでもないところに来てしまった』と、いきなり鼻っ柱をへし折られました」
大阪桐蔭は夢を見させることのできる場所であり、夢をあきらめさせる場所でもあった。森島も入学当初の目標を修正せざるを得なくなった。
「自分たちの代でレギュラーになる」
同級生にライバルは多かったが、力をつけていけば勝負できると感じていた。
ところが入学してから1年、二度目の春にまたしても衝撃を受ける。新入生として森が入部してきたのだ。ポジションはキャッチャー。説明不要のバッティングに度肝を抜かれた。どう見ても勝ち目はない。森島はこのままキャッチャーを続けるべきか、自問自答した。
「ただ、キャッチャーを辞めることは一切考えなかったんです。でも、キャッチャーとして何を目指すのか。(ベンチ入りの)残り二枠にどう入っていくか」
そう考えていると、西谷がよく野球ノートに書いてきた言葉が浮かんできた。
「ブルペンを大切にしなさい」
やるべきことが見えた。誰にも負けないブルペンキャッチャーになる。そのためにピッチャー陣と西谷の信頼を勝ちとる。
「自信満々で中学から来て、メンバーに入れないというのだけは許せない。だから、どうやればメンバーに入れるか。必死に考えて、ブルペンキャッチャーを極めようと。藤浪、澤ちゃん(澤田圭佑)の球は、ほかの誰にも受けさせないくらい受けてやると、勝手に決めて、練習時間の大半はブルペンに居座るようになりました」
【ブルペンが仕事場に】大阪桐蔭のグラウンドの一塁側ファウルゾーンにあるブルペン。ここが森島の居場所になっていく。高校時代を思い出し、浮かぶ風景はいつもマスク越しに映るブルペン。
「ここで藤浪、澤ちゃんの球だけでも何万球受けたかわからんくらい受けました」
今もプロとして投げ続けるふたりのボールを、当たり前のように受けていた。まさに夢のような時間だった。
「藤浪のボールはえぐかったですね。球が動くから、とくに高めが捕りづらい。パッと手を出して捕りにいくと、突き指です。左手の親指はしょっちゅう曲がらんかったですね。あとは人差し指もパンパンに腫れて、いつも内出血状態でした。球の回転は全然きれいじゃないですけど、それでも150キロを超えてくる。僕が捕りづらいんですから、バッターも打ちにくかったはずです。
澤ちゃんのボールは藤浪と正反対で、めちゃくちゃきれいな回転で、構えたところにくる。いつ投げても常にボールは安定していて、波がない。澤ちゃんの場合、調子の見極めは、本人の気合いが入っているか、入りすぎているか......そこでした。ふつうは気合いが入りすぎると、力んだり、空回りしたり、よくないことが多いじゃないですか。でも澤ちゃんの場合、気合いが入りすぎたほうがいい。ふつうに気合いが入っているくらいでは物足りないんです」
ふたりのボールを受けながらともに戦った3年春と夏の甲子園。大会を振り返ってもらうと、森島ならではのエピソードをひとつ口にした。
2012年、史上7校目の春夏連覇を達成した大阪桐蔭ナイン/写真は本人提供
「甲子園は試合が始まったら、リリーフ投手はファウルグラウンドにあるブルペンで投球練習をするじゃないですか。澤ちゃんの時はいいんですけど、藤浪がブルペンで投げる時は嫌でしたね。よくブルペンでの投球が暴投になり、2ケタ番号のキャッチャーがフェアグラウンドに入ったボールを捕りに行って、試合が中断するシーンがあるじゃないですか。あれだけは絶対に嫌だったんです。だから藤浪が先発で澤ちゃんがリリーフの時はいいんですけど、センバツの浦和学院戦(準々決勝)と夏の済々黌戦(3回戦)は、澤ちゃんが先発で藤浪がリリーフ待機。この2試合はドキドキでした。だから、ファウルグラウンドでパイプ椅子に座っているボールボーイの下級生に『藤浪が投げる時は絶対に集中して、こっちを見といてくれ。オレが捕れんかった時は、飛びついてでも止めてくれ』と」
熱戦の傍らでのブルペン事情が浮かぶ思い出話だ。
春、夏の甲子園で残った森島の記録は、2試合に代打出場して2打数ノーヒット。試合でマスクを被ることはなかった。それでも変わらずブルペンで球を受け、チームを支え続けた。
春は17番、夏は12番を背に、甲子園のグラウンドに立ったブルペンキャッチャーに春夏連覇の経験は何を残したのだろう。
「社会人になって思うのは、連覇という結果以上に連覇へ挑戦する過程、この大切さです。センバツ優勝のあと、西谷先生から『今は頂点にいるけど、春の山と夏の山は別物。春の山を降りて、もう一回夏の山を登っていかんと頂点には立たれへんぞ』と言われたんです。その時はそうか......という感じだったんですけど、たとえば社会人になってひとつのプロジェクトに参加して、それをやり終えて、次の仕事になった時にここでもう一回しっかりゼロに戻ってつくっていくことの大切さがある。そんな時、春から夏に向かっていたあの時の気持ちや、練習を思い出すんです。連覇を達成できたのは、春の山をしっかり降り、一から夏の山をみんなで目指し、登りきったからだと思います。過程の大切さを学ばせてもらいました」
夏の決勝で勝利した瞬間、森島はマウンドで頭ひとつ抜けて仲間と抱き合う藤浪を目がけてベンチを飛び出した。澤田の肩に右手をかけながら満面の笑みで飛び跳ねるように駆け寄る写真がお気に入りだ。プレーヤーとして夢に破れ、現実に打ちのめされた男が"日本一のブルペンキャッチャー"となり、仲間と成し遂げた春夏連覇でもあった。
(文中敬称略)