「すごいと言われて天狗になって...」33歳になった柿谷曜一朗が10代を振り返って「逃げ出したくなった」本音を吐露【2023年人気記事】
2023年の日本はWBC優勝に始まり、バスケのW杯では48年ぶりに自力での五輪出場権を獲得、ラグビーのW杯でも奮闘を見せた。様々な世界大会が行なわれ、スポーツ界は大いなる盛り上がりを見せた。そんななか、スポルティーバではどんな記事が多くの方に読まれたのか。昨年、反響の大きかった人気記事を再公開します(2023年2月19日配信)。
※記事内容は配信日当時のものになります。
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愛しているJ! Jリーグ2023開幕特集
柿谷曜一朗(徳島ヴォルティス)インタビュー前編
正月明けの1月6日、いきなり飛び込んできたニュースにサッカーファンの誰もが驚いた。
『柿谷曜一朗、徳島ヴォルティス移籍』
公式リリースが届くまで、まったく噂すら立っていなかった。しかも、発表と同時にクラブのツイッターにアップされた動画には、徳島の背番号「8」「YOICHIRO」とプリントされたユニフォームを見にまとい、本拠地ポカリスエットスタジアムに立つ柿谷本人の姿──。
電撃移籍で13年ぶりに徳島に帰ってきた男は、どんな心境で新シーズンを迎えようとしているのか。復帰決断の理由、名古屋グランパスの2年間、セレッソ大阪での葛藤を語ってくれた。
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柿谷曜一朗が33歳になった今の心境を語ってくれた
── まさに"電撃"という言葉がふさわしい今回の移籍となりましたが、あらためて13年ぶりに徳島ヴォルティスに復帰した経緯を教えてください。
「去年は試合になかなか絡むことができず、コンディション的にもモチベーション的にもうまくいかない1年でした。もちろん、いろんな想いがあって名古屋に移籍して、名古屋ではすごく貴重な経験をさせてもらったと思っています。そのまま名古屋の歴史に名前を刻めるようにやっていきたい、という気持ちがあったのも事実です。
でも、試合に出られなかったこともそうですし、年齢的なこともそう。このままくすぶったまま終わっていくんじゃなくて、もう一度、チャレンジしたいという気持ちがありました。そこで徳島から話をもらった時に、自分としてはもう一度サッカーをしたいと強く思ったし、徳島のためにやっていきたいという気持ちになったことが、今回移籍を決断した理由です」
── 名古屋での2年間はどういったものでしたか?
「自分がどういう気持ちで『セレッソでプレーしていたのか』ということを、あらためて気づかされた2年間でしたね。幼稚園の時からセレッソ大阪のユニホームを着てサッカーをしてきましたし、すべてのアカデミーを経験して、ほとんどすべてのスタッフとも関わってきました。
そのなかで『自分がこのセレッソというクラブを大きくする』という想いで、ずっとやってきました。それがいい方向に行く時もあれば、悪い方向に転ぶ時もありました。
でも、たとえ理解されなくても、自分が思う『セレッソはこういうクラブなんだ』というプライドを捨てることはできなかったんです。『セレッソ=自分』だという気持ちにもどんどんなっていって。
もちろん、いいパフォーマンスを見せることが前提にあることはわかっていたんですけど、少し長くいすぎた部分があって、自分でもどんどん甘いほうにいっていたということに気づいていましたよ。それでも『自分のセレッソ』という気持ちが強すぎて。自分がよくしたい、自分が中心なんだという想いが強すぎたからこそ、あのタイミングで出ざるを得なかったのかなと思っています」
── セレッソではいろんなものを背負いすぎていたと?
「背負いこんでいたというよりも、セレッソというクラブを自分の物だと勘違いしていたので。『セレッソと言えば僕以外ありえない』という気持ちでしたね。
でも、名古屋に移籍したことで、そんな気持ちはまったくなくなりましたし、周りのことを気にせずにプレーできるようになりました。サッカーを楽しむというか、サッカーのことだけに集中できた2年間だったと思います」
── サッカーに集中できた一方で、結果としては納得できないものだったのでは?
「やっぱり、厳しい世界ですから、思うようにいかないことはあります。呼んでくれた監督と強化部長が代わってしまうことは、この世界では起こり得ること。そこに関して何かを言うつもりはないです。
監督が求めるプレーができなければ、試合に出られなくなるのは当然のこと。もっと柔軟にやればよかったですし、自分としては柔軟にやっていたつもりだったんですけど、使われなかったということは、全然できていなかったということなんでしょうね」
── 特に昨年は苦しい1年だったのかなと思います。
「そうですね。ただ、セレッソの時もそうですし、バーゼルに行った時もそう。名古屋の時もチームメイトにはすごく支えられましたね。名古屋では特に丸山(祐市)と武田(洋平)のふたりには助けられました。そういう経験もこの先につながっていくものなのかなと思っています」
── 徳島だからプレーする意欲が高まったと話していましたが、あらためて13年ぶりに復帰した徳島に対する想いを聞かせてください。
「自分が今、長くサッカー人生を歩めているのは、間違いなく若い頃のここでの経験があったから。成長させてもらった場所であることは間違いありません。
ただ、実際に徳島に対して何か返せたかというと、何も返せていないんですよね。2年半在籍したなかでJ1に昇格もさせていないですし、徳島を盛り上げていくことも当時の自分には力不足で、できませんでした。
でも、やっぱりここでの経験は、一番に思い出される記憶なので。そういった場所で僕がやり残したことと言えば、J1に昇格させること。そこに向けて自分の力のすべてを注ぎたい。そう思えるのは徳島だけですね」
── 2009年の途中にセレッソから徳島に移籍しましたが、当時の自身を振り返ると?
「そんなに今と変わりはないのかなと。もちろん生活のリズムであったりは全然違うと思いますけど。どうですかね? まあ、若かったですし、楽しかったですよ。今は家族の存在もありますし、そういう部分では違いはありますけど」
── 誤解を恐れずに言えば、当時はセレッソから、ある意味で"放出された"移籍だったと思います。そういう状況のなか、徳島ではどういう思いでプレーしていたのでしょうか。
「16歳でプロになって、『サッカー選手ってこんなにおもろないんや』と思っていましたね。『なんでもっと楽しいことせえへんのやろう』って。でもここにきて、それではダメだということに気づけたというか、気づかざるを得ない状況でしたね。
ここで試合に出られなかったら終わりだ、と思っていましたから。そう思えなかったら、僕は終わっていたと思います。本音を言えば、出されたというよりも、逃げ出した感じでした。
小さい頃からセレッソでずっと期待されてきて、すごい、すごいと言われて天狗になって。天狗のままでプレーしても挫折することもなく16歳でプロになって。プロになってからも、小さい頃から知っている人たちに期待されて。でも、そういう人たちの前で活躍できず、(香川)真司くんや乾(貴士)くんとかがどんどん活躍して......。
その時に『セレッソって俺のチームじゃないの?』って、悔しいというよりも恥ずかしくなったんですよね。その状況から逃げ出したかったですし、セレッソではもう変われないという気持ちもありました。
でも、徳島に来た時に、ここで変われると思えたし、実際に変わることができたと思います。あの時は出してくれてよかったですし、逃げ出してよかったなと思います」
── 若いうちに経験できたことがよかったわけですね。
「今となっては『経験できた』と言えますけど、当時は経験ではなくて、そのまま終わってしまう可能性のほうが大きかったですから。だから、あの時の自分には『頑張ったな』って褒めてあげたいですね(笑)」
◆後編につづく>>今だから言える「僕のことは見本にしないほうがいい」
【profile】
柿谷曜一朗(かきたに・よういちろう)
1990年1月3日生まれ、大阪府大阪市出身。4歳からセレッソ大阪の下部組織で育ち、クラブ最年少16歳でトップチームとプロ契約。2006年11月にJリーグデビューを果たす。2009年〜2011年は期限付き移籍で徳島ヴォルティスに所属し、2014年にスイスのバーゼルへ完全移籍。2016年に帰国して再びC大阪へ。2021年から名古屋グランパスでプレーしたのち、2023年より徳島に加入。日本代表18試合5得点。ポジション=FW。身長176cm、体重68kg。