韓国人Jリーガーインタビュー 
キム・ジンヒョン(セレッソ大阪) 後編

セレッソ大阪で15シーズンもプレーしてきた、GKキム・ジンヒョンインタビューの後編。「一試合一試合に集中するスタイル」の結果、積み上げてきた15年の日々を振り返ってもらった。

前編「キム・ジンヒョンが来日直後に感じた、言葉とプレーの壁」>>

【Jリーグ全体のレベルが上がってきた】

 キム・ジンヒョンがセレッソ大阪で過ごしてきた15年の間には、もちろん起伏があった。


キム・ジンヒョンがセレッソ大阪での15年を振り返った photo by Ushijima Hisato

 2014年にはチームのJ2降格も経験したが、チームを移ることは考えなかった。より大きなうねりは、2016年末と翌2017年にあった。

 まずは2016年、本人に移籍説が浮上した。チームはこの年J2からプレーオフを勝ち抜き、J1昇格を決めたあとのタイミングだった。この年で契約が切れる韓国代表クラスのGKをメディアがそっとしておくことはなかった。韓国のメディアは特に自国のFCソウルと、鹿島アントラーズがその候補だと連日報じた。

「自分が成長するにはどうしたらいいか。そういうことを考えた時期であったのは確かです。でもどこからも正式なオファーは来なかったんですよ。

 その点もさることながら、僕はもう心を決めていました。『若い頃から多くの失敗を繰り返してきた自分を使ってくれたセレッソのために戦おう』と。実際にこの頃からより一層、クラブへの愛着が増してきたと思います」

 そして、その決断をした翌シーズン、尹晶煥(ユン・ジョンファン)監督に率いられたチームがリーグカップと天皇杯で初タイトルを獲得した。2001年に天皇杯準優勝、2005年に「リーグ最終節で勝てば優勝」という状況を逃すなど、「最後に勝ちきれない」印象もあったクラブが殻を突き破った瞬間だった。

「セレッソが変わったというよりは、Jリーグ全体のレベルが上がってきた面も大きいと思います。例えば、昔は上位のチームは常に上位にいて、下位のチームは下位にいるという状況でしたが、今は本当にどのチームがどのチームに勝つかわからないようなレベルになっています。

 リーグのレベルアップに合わせるように、セレッソも上位に入りタイトルを獲っていけた。そんな感覚を持っていました」

 ビッグクラブと下位クラブがはっきりと分かれるのではない、群雄割拠。世界のなかでもJリーグが持つ魅力として語られることが多い点を、キム・ジンヒョンは感じ取っている。

 もちろん、当時のセレッソ大阪自体の変化もあった。

「その当時は経験豊富な選手が多かったと思います。日本代表クラスの選手も多く、チームの質が上がりました。より個々のプレーを発揮する、という点にポイントを置けるようになったのです。

 僕が入団した2009年当時のチームももちろんいい選手は多かったですが、2017年当時よりも『まずは戦術の決めごとを守ることが第一』という印象もありました」

【15年間ずっと変わらない責任】

 今や日本語も上達し、クラブ発信のSNS動画では日本語で周囲と親しく過ごす様子も度々アップされる。

 クラブのレジェンド、香川真司が欧州に旅立ち、また戻ってきてプレーする姿の両方を、ピッチで共に過ごす数少ない存在でもある。「彼と僕とでは歩んできた道が大きく違いますね。いずれにせよ頼りなる選手がいるのは心強いこと」という。

 ただし、自分があくまで外国人選手としてこのクラブに存在するという点は忘れたことがない。

「15年間、ここでプレーしてきました。自分自身が日本に適応しているかどうかは別として、僕は外国人枠の一つを占めています。ほかの選手よりも何か違うものを示さなければなりません。それは15年間ずっと、今も変わりません。それが僕の責任です」

 違うもの、とは何なのか。それはキム・ジンヒョンの場合は「特別」だ。他の外国人選手たちのように欧州や南米で育んだ技量ではない。この地、セレッソ大阪で得たものだ。

「このチームで多くのGKたちと過ごしました。僕は彼らから多くを学んだし、僕が伝えたものもあるでしょう。僕から伝えることがあるとすれば、それを示すのが自分の役割です。

 僕はこのチームでプレーし、若い頃から多くのことを経験し、成長してきました。その成長を若い選手たちに見せるのは僕の責任でしょう。これからも若い時からの経験と成長を、ほかの選手にも示さなければなりません」

 日本語がわからず、GKの位置からパスを出した経験がなかった日々。J2降格の痛みをサポーターに与えたことも、勝利の美酒に酔った日のことも。とにかくキム・ジンヒョンにとって「プロ選手としての日々」のすべてが、セレッソ大阪でのものなのだ。

【一試合一試合集中するスタイルできた】

 今回、本人とじっくり顔を合わせて韓国語で改めて話を聞いていて思った。多くの韓国人プレーヤーたちはJリーグクラブへの移籍について「欧州進出のためのファーストステップの場」として、あるいは「精密な技術や戦術を学び成長する場」として捉えている。

 あるいは韓国社会では「国外で大学を出たり仕事したこと」が非常に高い評価を得るなかにあって「キャリアに箔をつける」という考えもある。

 しかしキム・ジンヒョンは何の先入観も持たず、Jリーグの世界に飛び込んだ。だからこそ、15年間を過ごせてきたのではないか。

 本人は「確かに、日本という国やJリーグや文化に対する先入観、また、どうなるかという期待がなかった」と言う。

「僕自身、一試合一試合に集中するスタイルです。未来を見るのではなく、一試合に全力を尽くすことで、あとのことはあとで考えるようにしています。ここセレッソでも、状況に合わせてプレーし続けています。

『いつかヨーロッパに行きたい』だとかも考えたことがありませんね。目の前の試合のためにできる限りのことをして、後悔なく戦いたい。ただ自分に集中した結果、長い時間が過ぎたというところですね」

 日本にすっかり溶け込んでいるようで、じつは韓国らしい考え方だとも感じられる。

 韓国語にも日本語と同じ「無条件」という漢字の言葉がある。「ムチョッコン」と読むが、日本語よりも遥かに頻出ワードで「とにかく、ひたすらに、がむしゃらに」というニュアンスがある。

 まさに彼は、ひたすらやらなければならない日々を過ごし、ふと気づいたら15年もの時が経っていたのではないか。結果、自分のことに集中させてくれた組織、セレッソ大阪への愛が日々増しているといったところか。

 自分のことに集中する、と言うがスタジアムで聞こえる自分の応援歌は知っている。元歌は韓国で1999年1月に男女混成グループ「コヨーテ」が発表した『純情』だ。

「僕が韓国人だから、その歌を選んでくれているのかどうかはあんまりよくわかってないんですよ」という。ただ元歌の歌詞は当然韓国語だから、自分の子どもも意味がわかる。「だから最近は車でも聴かせてて、子どももこの歌が好きになっちゃいました」。

 そうやってまた、愛すべき大阪の地での時間が続いていく。

キム・ジンヒョン 
金鎭鉉/1987年7月6日生まれ。韓国京畿水原市出身。東国大学から2008年に練習生を経てセレッソ大阪に加入。翌2009年シーズンから今年で15年間、セレッソでプレーし続けているレジェンドGK。外国籍選手としてJリーグの単一クラブ最長在籍記録、J1通算最多出場記録(376試合/2023シーズン終了時)を更新中。韓国代表には2011年から招集されていて、2018年ロシアW杯のメンバー。