フィリップ・トルシエの哲学
連載 第4回
2000年アジアカップ優勝の舞台裏(4)

◆(1)トルシエジャパンが絶大な成果を出した「ラボラトリー」とは?>>

◆(2)トルシエは袂を分かった名波浩をなぜ日本代表に再招集したのか>>

◆(3)トルシエはなせ中田英寿、中村俊輔、小野伸二を同じピッチに立たせなかったのか>>

 マレーシア・クアラルンプール郊外にあるAFC(アジアサッカー連盟)本部ビルのロビーには以前、アジアカップの写真パネルが飾られていた。もちろん2000年レバノン大会のものもそのなかにあり、優勝した日本代表には「アジアカップ史上最強チーム」のキャプションが添えられていた。

 6試合を戦って5勝1分。総得点21、失点6。前回大会(2019年)でカタールがいくつかの記録を更新するまで、すべてアジア最高記録だった。

 はたして、サウジアラビアとウズベキスタンを大差で下した日本。その直後、フィリップ・トルシエはこう語った。

「ノックアウトステージに向けて、難しい場面も経験しておきたい。前半を終えて0−1とリードされているとか、しかも退場でひとり少なくなるといった状況を......」

 そして実際、グループリーグ3戦目のカタール戦、トルシエが思い描いたとおりのことが起こった。前半、カタールに先制されたうえに、海本慶治の退場で日本は10人対11人の数的不利な状況に陥ったのだった。

 だが、その劣勢も日本は難なくクリア。後半、西澤明訓のゴールで追いついて引き分けた。

 困難な状況でも落ちつきを保った日本は、さらに勢いを増して準々決勝ではイラクに4−1と快勝。準決勝で中国(3−2)、決勝でサウジアラビア(1−0)を撃破し、地元開催の1992年大会以来、2大会ぶり2度目のアジアの頂点に立った。中東の地での優勝は、日本がアジアのトップチームとしての地位を確立した瞬間でもあった。


2000年アジアカップで優勝し、胴上げされるトルシエ監督。photo by Kyodo News

 トルシエが当時を振り返る。

「まさに偉業だった。我々は自信にあふれ、冷静だった。選手たちはオートマティズムを身につけて、自分たちで戦術的な問題を解決することができた。

 ボール回しに絶対の自信を持ち、若い選手たちがピッチを躍動した。彼らは貧欲だった。明神智和や稲本潤一、高原直泰、柳沢敦、小野伸二......。若い力の爆発だった。

 それと同時に、西澤明訓や森島寛晃、名波浩、服部年宏、森岡隆三らによってもたらされた経験があった。ふたつがよく混じり合い、チームはバランスが取れていた。ピッチの上でもピッチの外でも均衡を保っていた」

 ピッチ外もピッチ上と同様に大事だった。

「(大会前の準備を含めて)数週間続く大会を戦い抜くには、ホテルなどのピッチ外の雰囲気や、試合の結果が思わしくなかった時のチームの雰囲気などが、グループが結束を保っていくうえではとても重要だ。数週間をともに過ごすために、私はその点に常に注意を払っていた」

 開催地のレバノンで、トルシエは五輪代表ほどに選手を拘束しなかった。それは、U−23代表とA代表という、年齢差への配慮でもあった。

 それでも、ある練習のあとで怒りに震えた森岡が、スパイクを投げつけてピッチを去る場面もあったように、トルシエは選手やスタッフ、メディアにも刺激を与え続けた。そこまでしなければ大会を勝ちきることができないという思いが彼にはあった。

 現に日本は、中国との準決勝、サウジアラビアとの決勝では、それまでになかった苦戦を強いられた。

「それは、ある意味仕方のないことだ」とトルシエは語っている。

「中国も、サウジアラビアも、W杯本大会出場を果たしたアジアの強豪だ。中国は優れた選手をそろえ、当時の監督はボラ・ミルティノビッチ(メキシコ、コスタリカ、アメリカなどの代表監督を務め、W杯でも実績を残した名将)だった。

 一発勝負で簡単ではないうえ、日本は若いチームだったこともある。そんななか、ディテールが試合の勝敗を決した」

 ミルティノビッチに率いられた中国は、それまでの相手とは異なり、ゾーンディフェンスの守備を敷いてきた。相手の動きに惑わされることなく、ゾーンを守ってブロックを維持し続けた。

 その戦術に日本は苦戦を強いられた。それでも、中村のFK(得点は西澤)が状況を打開した。

「アジアカップを通じて、日本はチーム構築の途上にあった。大会前には誰も、稲本や明神、柳沢の名前を知らなかった。彼らはおしなべて若く、実力を証明すべき立場にあった。

 中国戦は確かに苦戦の末の勝利ではあったが、だからこそ日本の真の姿を見ることができた。1−2とリードされ、同点に追いつかねばならなかった。どんな状況でも諦めずにプレーし続ける姿勢は、チームの性格を形作るうえで重要だった。難しい状況に直面した中国戦で勝利を得たのは本当にすばらしかった」

 決勝の相手となったサウジアラビアは、初戦で日本に敗れたあとに監督のミラン・マチャラを解任。ナーセル・アル=ジョーハルのもと体制を立て直して、準々決勝でクウェート、準決勝では韓国を破り、日本へのリベンジに燃えていた。

 強度の高いプレスで日本の攻撃を封じ込め、ロングボールを浅いDFラインの裏に放り込む戦い方で試合のイニシアチブを握ろうとした。前半に得たPKをサウジアラビアが決めていたら、その後の展開は大きく変わっていたかもしれない。

 だが、ハムザ・ファラタの蹴ったボールはポスト左に外れ、逆に日本は中村のFKを望月重良が決めて先制。後半のサウジアラビアの猛攻もしのいで、1−0で振りきった。

「我々に運があったのも確かだった。運もまたサッカーのひとつの要素だ。PKを献上するかどうかなどわからないことだし、しかもそれが外れることになるとは......。

 しかしその結果、日本は試合を続けることができ、自分たちを解放するゴールをあげることができた」

 決勝から得たものは、それまでの試合以上に大きかったとトルシエは言う。

「難しかったのは、我々が勝利を絶対的に求めていたことだった。攻め続けるか、ゴールを固めるかの決断を迫られる試合の終盤は特に難しい。そうしたシナリオを経験することでチームは成長する。

 勝利から得られるものは大きい。そこには、悩み抜くこと、耐え抜くことがあるからだ。そして、強い気持ちを最後まで持ち続け、それを表現し続けながら(選手も、チームも)成長していく。

 運を味方にすることもそうだ。チームは勝利のみによって作られるのではない。挑戦すること、困難に直面することで形作られる。そうした経験を経た末に、我々は優勝した。日本は優勝に値するチームだった」

 日本には別のプレッシャーものしかかっていた。

「忘れてならないのは、我々はW杯に向けての準備の段階にあったことだ。日本国民やサッカー協会、メディアの期待を背負っていた。同時にAFCの期待も双肩にのしかかっていた。日本はW杯の開催国であり、アジアを代表して大会に臨む。そうした責任の重さを感じていた。W杯のチームを構築すべき立場の私は特にそうだった。

 アジアカップ制覇はW杯のために避けて通れない目標で、チーム構築のためにも絶対的に必要なプロセスだった。優勝は絶対条件で、勝つことだけが我々の目標だった。実際に優勝して、日本はW杯に向けて進むための、さらなる自信を得ることができた」

 こうして2000年アジアカップは、トルシエ自身にとっても忘れならない思い出となった。

「私たちはアジアの頂点に到達した。そのうえ、ワールドユースで準優勝、シドニー五輪も準々決勝に進んだ。2001年コンフェデレーションズカップでも決勝に到達した。

 それらは仕事の成果であり、ラボラトリーの成果だった。プレー哲学から導き出された結果でもあった。選手たちが強い決意のもと、私の哲学をピッチ上で体現した。

 アジアカップは私にとってひとつのトロフィーだが、最高のトロフィーのひとつだ。監督として、私がキャリアのなかで成し遂げた最高の偉業だ」

(文中敬称略/おわり)

フィリップ・トルシエ
1955年3月21日生まれ。フランス出身。28歳で指導者に転身。フランス下部リーグのクラブなどで監督を務めたあと、アフリカ各国の代表チームで手腕を発揮。1998年フランスW杯では南アフリカ代表の監督を務める。その後、日本代表監督に就任。年代別代表チームも指揮して、U−20代表では1999年ワールドユース準優勝へ、U−23代表では2000年シドニー五輪ベスト8へと導く。その後、2002年日韓W杯では日本にW杯初勝利、初の決勝トーナメント進出という快挙をもたらした。