サッカー日本代表の優勝をイメージできなかったアジアカップ 予選落ちを繰り返した80年代から、頂点に上り詰めるまで
日本代表アジアカップ戦記(1)
1月12日(現地時間)に開幕するアジアカップ。奇しくも開催地は、日本が初めて本大会に出場することができた1988年と同じカタールだ。それから36年、日本代表はどのような成長過程を経て現在に至ったか。アジアカップでの戦いぶりを振り返る。
1956年にスタートしたアジアカップ。日本がその予選に初めて参加したのは1968年で、本大会に初めて駒を進めたのは1988年のことだった(この時は10チームが出場)。
日本はその2年前(1986年)に行なわれたメキシコW杯の予選で、韓国に勝利すれば本大会初出場を飾るというところまで迫っていた。もし本大会出場を決めれば特集号を出すという、ある雑誌の編集者とともに、筆者は国立競技場で行なわれたその一戦を観戦した。
この大一番に日本は1−2で敗れている。ソウルで行なわれたアウェー戦も0−1で落とし、合計スコア1−3でW杯初出場を逃した。重い試合ではあったが、地団駄を踏んで悔しがるほど競った試合ではなかった。言うならば順当負け。日本はその時、アジアのトップに君臨していたわけではなかった。
アジアカップでも予選落ちを繰り返していた。初めて本大会に出場した1988年カタール大会もグループリーグで最下位。日本サッカー界に明るい未来が訪れることを、その時はまだ予感できずにいた。
転機は1992年。日本代表監督の座に、横山謙三(敬称略、以下同様)の後任としてハンス・オフトが座ったことにある。日本代表史上初の外国人の監督は就任直後、いきなりダイナスティカップ(現在のE−1東アジア選手権の前身にあたる)で韓国、北朝鮮、中国を相手に優勝を飾る。
アジアカップは同年10月から11月にかけて広島で開催された。広島はその2年後(1994年)、アジア大会の開催都市に決まっていて、アジアカップはそのプレ大会的な意味合いを持つイベントだった。
日本は開催国の特権で予選を免除されて出場。ダイナスティカップを制したとはいえ、本大会に初出場した前回のアジアカップはグループリーグ最下位だった。日本にとって対戦国はいずれも強豪そのものだ。初戦はUAEに0−0、第2戦は北朝鮮に1−1。グループリーグの2試合を終えた時点で、日本の優勝をイメージすることはできなかった。
【アジア初制覇に貢献した森保一監督】
オフトジャパンを振り返ろうとした時、外せない選手をひとり挙げるならば森保一現日本代表監督になる。日本代表選手はそれまで無数に誕生しているが、筆者の知る限り、当時の森保選出を上回るサプライズはなかった。
つまり、圧倒的に無名だった。森保は当時、マツダに所属しており、日本サッカーリーグ(JSL)の主に2部が主戦場だった。ユース代表に選ばれたこともなければ、高校選手権で活躍したこともなかった。協会のユース担当者でも名前をきちんと読めなかったほどだ。名字と名前をどこで区切ればいいのか。森保が日本代表として最初にプレーしたアルゼンチン戦の現場(国立競技場)は試合前、そんな話で盛り上がっていた。
サプライズ度は、練習を見ているとさらに増した。「鳥かご」と呼ばれるパス回しで、決まってミスをしていたのが森保だったからだ。そのボール操作術を見ているとサプライズというより心配にさせられたものだ。しかも、オフトは森保をスタメンで起用した。守備力の低いMFラモス瑠偉の影武者として。
1992年のアジアカップで、森保は5試合中4試合で先発フル出場を飾っている。オフトがあの時、森保を日本代表に選んでいなければ、森保ジャパンは誕生していなかった可能性はある。
日本はグループリーグの3戦目でイランに1−0で競り勝ち、グループリーグを突破すると、準決勝で中国と激戦を展開。退場者を出しながらも3−2で勝利し、決勝進出を決めた。ただし決勝の相手は過去2大会優勝しているサウジアラビア。この段階になっても、まだ日本が優勝するイメージは湧かなかった。
1992年と言えば、翌年がJリーグスタートの年。このアジアカップ後には、そのプレ大会とも言うべきナビスコカップが開催された。まさにJリーグ開幕の足音が迫っている時だった。結果としてアジアカップはその起爆剤になった。
1992年、広島で行なわれたアジアカップで、日本は初優勝を飾ったphoto by Toshio Yamazoe
広島広域公園陸上競技場(現エディオンスタジアム)で行なわれた決勝戦。スタンドは5万人を超える観衆で満員になった。この光景を見て初めて、日本サッカー界に明るい未来が待ち受けていることを筆者は確信した。カズこと三浦知良のセンタリングを高木琢也が胸トラップ。そのまま左足ボレーで叩き込んだその決勝弾は、いまだ脳裏に鮮明だ。
【日本サッカー激動の4年間】
続く1996年大会はUAEで開催された。前回の広島大会から4年の間に、日本サッカー界には大きな出来事が渦巻くことになった。まずはドーハの悲劇(1993年11月)。2つ目はJリーグのスタート(1993年5月)。3つ目はロベルト・ファルカンの監督就任(1994年5月)と、わずか9試合後の解任劇。4つ目はアジアカップ優勝で権利を得たキング・ファハド・カップ(コンフェデレーションズカップの前身大会)への出場。5つ目はゾーンプレスを掲げファルカンの後任に就いた加茂周監督の就任と解任騒動。6つ目は2002年W杯の日韓共同共催が決定したことだ。
強化委員会が加茂監督にノーを突きつけ、当時、ヴェルディ川崎の監督だったネルシーニョの招聘に動いたのは1995年秋。つまり交代騒動は1994年、1995年と1年ごとに発生した。この時のネルシーニョの招聘は土壇場でひっくり返り、加茂監督は続投することになったが、その2年後、1997年秋、フランスW杯アジア最終予選の最中に、加茂監督は解任の憂き目に遭う。
1996年アジアカップに臨んだ加茂ジャパンは、グループリーグを首位で通過したものの、準々決勝でクウェートに0−2で完敗。成績は前回の優勝からベスト8に後退した。
いま振り返れば、加茂ジャパンはサッカーそのものに問題を抱えていた。「ゾーンプレス」なるプレッシングサッカーを標榜するも、加茂監督が実際に採用した布陣は4−2−2−2だ。ブラジルサッカーの当時の定番だが、プレスがかかりにくそうな布陣であることはその4列表記を見ただけで明らかになる。サイド攻撃をサイドバックのみに委ねるため、中央攻撃が8割方を占める。
選手に現在ほどの技術がないことも手伝い、相手ゴール前に辿り着く前にボールを奪われた。サイドで奪われたほうが自軍ゴールから遠いので、リスクは低い。対して、中央は逆モーション、裏返しの関係になりやすい。選手の技量はオフト時代より若干上がったが、サッカー的には後退したという印象だった。
【成長過程のトルシエジャパン】
1992年のアジアカップ優勝の権利で出場した1995年キング・ファハド・カップ(サウジアラビア)では、ナイジェリアに0−3、アルゼンチンに1−5で敗れている。晴れの舞台で大国と試合する日本代表。数年前では考えられなかった光景を目の当たりにできた満足感と、大敗を事実として受け入れなければならない絶望感とが交錯する、何とも言えない気分に襲われた。アルゼンチン戦の後半、都並敏史がフリーで抜け出そうとするガブリエル・バティストゥータを後方からカニ挟みで止め、PKを献上したシーンでは頭を抱えたくなったものだ。
2000年のアジアカップは10月にレバノンで行なわれた。チキンの丸焼きを期間中連日、食べた記憶が蘇る。レバノンはチキンのグリルが絶品だった。
日本はグループリーグでサウジアラビアに4−1、ウズベキスタンに8−1と大差のスコアで連勝。3戦目のカタール戦(1−1)を待たずにベスト8入りを決めると、準々決勝でイラクを破り(4−1)、準決勝では中国にやや苦戦したもの逆転で勝利を収め(3−2)、決勝に進出する。そのサウジアラビア戦は1−0で勝利を飾り、日本は1992年大会に続き2度目の優勝を飾った。
1996年からの4年の間に、日本はW杯(1998年フランス大会)に念願の初出場を果たしていた。本大会はグループリーグ3連敗という結果に終わったが、1996年から2000年は、日本サッカーが最もレベルを上げた4年間だった。1992年に広島でアジアカップを制した時とは地力が違っていた。1998年フランスW杯後に日本代表監督に就任したフィリップ・トルシエのもとで、2002年日韓共催W杯に向け、顕著な右肩上がりを描いていた。とりわけ選手の技量はめざましく上昇した。
ちなみに筆者はグループリーグの最終戦(対カタール)を観戦取材した後、準々決勝までの試合間隔を利用し、1泊3日の旅程でレバノンを離れた。向かった先はバルセロナ。バルサ対レアル・マドリードのクラシコを観戦取材するためだった。
バルサからレアル・マドリードに禁断の移籍をしたルイス・フィーゴが、白のユニフォームを着て古巣のカンプノウで初めて戦う試合である。レアル・マドリードのビセンテ・デル・ボスケは、そのしばらく前、こちらのインタビューにフィーゴを獲得した理由をこう語っていた。
「我々のチームにはこれまで攻撃のルートが2つしかなかった。フィーゴを右ウイングに据えることで、それを左、真ん中、右という3つに増やそうとしたのだ」
トルシエのサッカーを含めて、当時の日本サッカーはウインガー不在だった。現在の日本とは全く異なる姿で、2002年日韓共催W杯に臨んだ。当時のメンバーを現在のスタイルで戦わせてみたかった......というのが率直な思いだ。結果はベスト16だったが、攻撃のルートが3本存在した共催国・韓国のほうが、サッカーの内容は明らかに面白かった。
(つづく)