ブラジルW杯の代表にサプライズ選出された大久保嘉人が「負の連鎖」が始まった瞬間を明かす
私が語る「日本サッカー、あの事件の真相」第26回
まったく異なるW杯を経験した男の葛藤〜大久保嘉人(2)
◆(1)大久保嘉人がザックジャパンに呼ばれたのは「引退を考えていた時だった」>>
2014年ブラジルW杯メンバー発表の日、大久保嘉人は所属の川崎フロンターレでAFCチャンピオンズリーグの試合に臨むため、クラブバスで羽田空港に向かっていた。
川崎Fには、代表選出の可能性がある選手がふたりいた。大久保と中村憲剛である。
羽田空港に到着すると、ふたりはチームメイトと一緒にバスのなかでメンバー発表のテレビ中継を見守っていた。GKから一人ひとりの名前が呼ばれていくなか、中村の名前は呼ばれず、FWで大久保の名前が呼ばれた。
2010年南アフリカW杯のあと、アルベルト・ザッケローニが日本代表の指揮官となって以降、わずか1試合の出場しかなかった大久保は、まさしくサプライズ選出だった。
「正直『無理やろな』って思っていたところで(自分の名前が)呼ばれたんで、びっくりしたし、うれしかった。でも、憲剛さんが(一緒に)いたんで、さすがに『よっしゃ』とは言えなかった。
メンバー入りできたのは、メディアをはじめ、いろんな人のおかげだと思った。得点王を獲った2013年からメンバー発表の前まで、『大久保、また点を取った』と盛り上げてくれた。そういうのが、監督に伝わったんだと思う」
2014年ブラジルW杯の代表メンバーにサプライズ選出された大久保嘉人。photo by Kyodo News
大久保は2012年2月のアイスランド戦以来、およそ2年3カ月ぶりに代表チームに合流した。
「(2013年の)東アジアカップで活躍した(柿谷)曜一朗とか(山口)蛍とかが入って、(アイスランド戦の時とはチームが)少し変わった感はあったけど、(香川)真司をはじめ、よく知っている選手ばかり。(本田)圭佑とか、ヤットさん(遠藤保仁)とは南アフリカW杯で一緒に戦っていたんで、やりにくさはなかった。ただ、(自分は)どこのポジションで、どんなふうに使われるんだろうなって思っていた」
チームに合流すると、大久保は鹿児島合宿の練習メニューに面を食らった。Jリーグはシーズン中だったため、自身のコンディションに問題はなかったが、欧州組はシーズンが終わったあとで束の間のオフにあった。彼らのコンディションを上げるために、かなり負荷のかかったトレーニングメニューが入っていたからだ。
「俺らJリーグの選手は、シーズン中でコンディション的には仕上がっていたので、むしろ試合続きのなかでの疲労を抜くための、戦術的な練習をやるのかなと思っていた。それが、いきなり坂道ダッシュとかさせられて、『なんで、この時期に!?』って思った。
それで、自分も含めてみんな、かなり疲れてしまった。強度の高い練習で疲労が抜けず、誰もがもうひとつ調子が上がらないまま、大会に入っていくことになった。今思うと、ここから"負の連鎖"が始まったというか、ここが大きな失敗だったと思う」
外から見ている分には、主力選手たちが自由にプレーしているように見えた攻撃の練習も、実際はイタリア人監督が指揮するだけあって、ポジションを含めていろいろな制限があった。守備においても、決まり事は多かった。
そんななか、大久保は「何となくこんな感じ」というレベルでその戦術を把握。W杯本大会に臨んでいった。
ブラジルW杯が開幕。日本の初戦はコートジボワール戦だった。大久保はスタメンではなく、ベンチからのスタートとなった。
「南アフリカW杯の初戦の時は、『もうこれ以下はないだろ』って感じで、捨て身で(試合に)入っていった。でもブラジルW杯の時は、海外でプレーしている選手が多かったので、自信を持っていたし、『俺ら、勝てるやろ』『大丈夫やろ』みたいな雰囲気だった」
本田の先制ゴールは、その自信の表れのように感じられた。南アフリカW杯の時と同様、そこまでは「ブラジルW杯も本田の大会か」と思うほどの勢いがあったという。
しかし、試合は1−0のまま膠着した状態で進んだ。すると後半17分、コートジボワールが動いた。エースのFWディディエ・ドログバがタッチラインに立った。
それを見て、交代出場の準備をしていた大久保は「同じタイミングで入りそうだな」と思った。だが、大久保にはベンチから「待て」の声がかかった。大久保は「もう入ったらええやん」と通訳に言ったが、ベンチの決断は変わらなかった。
その5分後、大久保は大迫勇也に代わってピッチに入ったが、試合の状況は一変していた。ドログバが入って一気に流れが代わり、日本は立て続けに失点し、逆転されてしまっていたのだ。
「(自分をピッチに)入れるの『遅いやろ』って思った。(ドログバと)同じタイミングで出ていてもやられたかもしれないけど、その逆もあったかもしれない。(試合の行方を左右する)大きなポイントになると思ったんで、『早く俺を入れてくれ』って思っていた」
逆転に成功したコートジボワールは、チーム全体のテンションが上がって勢いが増した。
「コートジボワールは、逆転したあと、強かった。『もう絶対にやられねぇぞ』っていう感じで、バチバチきていた。
逆に俺らは、『逆転するぞ』っていうムードがあまり感じられなかった。普通だったら、自信を持ってボールをつないで攻めていたはずなのに、逆転されたあとは、(みんな)焦って、どうしたらいいのかわからない感じになって、(ボールを)つなげなくなった」
前年のオランダ遠征では、日本は流れるようなパスワークで相手を崩し、オランダ相手に2−2で引き分け、ベルギーには3−2で勝利を飾っていた。そのパスワークがザックジャパンの攻撃の特徴のひとつだったが、コートジボワール戦では試合をひっくり返された途端に、その特徴が消えた。
「選手の間と間にパスを出せばいいのに、すぐにサイドに逃げるというか、サイドに(パスを)出すんですよ。それでそのまま、素直にセンタリングを入れるだけ。
大迫に代わって、何のために自分が入ったのか......。『やること、他にあるやろ』って思っていたけど、逆転されて追い込まれて、これまでやってきたことがまったく出せなくなってしまった。これが、W杯の怖さだなと改めて思った」
結局、1−2で初戦を落とした日本代表。試合後のロッカールームは重苦しい空気に包まれた。
大久保は、「自信が過信になった」と思っていた。オランダ遠征の結果はあくまで親善試合の結果であり、W杯のような本気の試合ではない。
南アフリカW杯の時は、田中マルクス闘莉王が「俺たちは弱い」と言い、謙虚な姿勢で試合に臨み、必死になって戦った。それがブラジルW杯では「どんな相手でも勝てる」という自信を膨らませて試合に臨んだ分、後手に回ると焦り出し、勢いが萎んでしまった。
チーム内の落ち込んだ空気を一掃すべく、続くギリシャ戦でザッケローニはスタメンを入れ替えた。調子の上がらない香川に代えて、大久保を右のサイドハーフで起用した。
試合は相手選手の退場という思いがけない展開から始まった。数的優位を得た日本だったが、引いて守りを固めるギリシャに手を焼いた。
「ギリシャがひとり少なくなって、逆に難しくなった。俺らは絶対に勝たないといけないので、点を取らないといけないんだけど、全然ボールがつながらない。その挙句、コートジボワール戦と同じでサイドからボールを(中へ)入れるだけ。
相手のセンターバックは大きくて強いし、真ん中を固めている。それじゃ点は取れないってわかっているはずなのに(それを)続ける......。やりながら『何で?』って思っていた。『(自分に)パス出せよ』って言っても、変わらなかった」
日本自慢のパスサッカーが完全に影を潜めてしまった。それでも後半、遠藤が投入されると、少し流れが変わった。
「前で、選手の間で顔を出すと、ポンとボールを出してくれるのはヤットさんだけ。これを続けていければと思っていたけど、サイドにいく展開は最後まで変わらなかった。
相手が守備のブロックを敷くなか、守備を広げるためにサイドをうまく使うのはアリだけど、単純にボールを中へ入れても跳ね返されるだけ。もっとボールを回して、相手を走らせて、疲れさせて攻めれば、絶対にチャンスはあったと思うけど、絶対に負けられないという気持ちが強いせいか、(攻め急いで)"安パイ"の攻撃をしてしまった」
大久保は、試合が膠着した状態のなか、ピッチ上で悶々とした時間を過ごしていた。
(文中敬称略/つづく)
大久保嘉人(おおくぼ・よしと)
1982年6月9日生まれ。福岡県出身。国見高卒業後、2001年にセレッソ大阪入り。J2に降格したプロ2年目からチームの主力として奮闘し、2004年にはスペインのマヨルカに期限付き移籍した。2006年にC大阪に復帰したあとは、ヴィッセル神戸、ヴォルフスブルク(ドイツ)、神戸と渡り歩いて、2013年に川崎フロンターレへ完全移籍。3年連続で得点王に輝いた。その後は、FC東京、川崎F、ジュビロ磐田、東京ヴェルディ、C大阪でプレーし、2021年シーズン限りで現役を引退。日本代表では、2004年アテネ五輪で活躍後、2010年南アフリカW杯、2014年ブラジルW杯に出場。国際Aマッチ60試合出場、6得点。