栗山英樹流〜ビジネスに生きる世界一の組織活性術:読んで分かる「カンブリア宮殿」
「2023年の顔」に完全密着〜知られざるエピソードを大公開
10月、西伊豆の小さな港町、静岡・松崎町の町役場に、WBC日本代表前監督、栗山英樹(62)の姿があった。
松崎町は温泉も湧く観光の町だが、住民の高齢化が進み、活性化に頭を悩ませていた。その思いを深澤準弥町長が手紙にしてダメ元で送ると栗山が快諾。講演会の実現となった。
【動画】『誠意をもって人を生かす!』栗山流マネジメントの秘密
「侍ジャパンの合宿の時に、エレベーターで佐々木朗希選手に会ったら、『監督、ひとついいですか』と聞くので『どうぞ』と言うと『ダルビッシュさんっていい人ですね』と(笑)」
大谷翔平選手の話に会場中が聞き入った。大谷選手が投打で活躍し、日本ハムが日本一になった2016年。その年のクリスマス・イブの深夜1時ごろ、大谷はひとりバッティング練習をしていたと言う。
「だいたいクリスマスから正月にかけて、若い選手たちは一番楽しいこと、好きなことをしています。彼女や家族と食事をしたりどこかに行ったり。みんながやりたいことをやっている時に大谷翔平はひとりでバッティング練習を続ける。彼の中には『頑張っている』とか『努力している』とかはないです。自分が『こういうふうになりたい』というのをイメージして、そうなれるのが一番うれしくて、ただひたすらやっているだけです。中学生たち、いい? 僕はみんなに『夢を持ってくれ』とは言わない。みんなが本当にやりたいことは必ず出てくる。その思いだけは大切にしてほしい。人は体の中にものすごい力強さや能力がある。それを信じてあげてください。不安になる時もあるかもしれないけど、みんなは必ずいろいろなことができます」
多くの人に共感を呼ぶ講演となった。今、こうしたラブコールが栗山の元に殺到している。この人気を本人はどう捉えているのか。
「唯一、確信として分かったのは、こうやって人はダメになっていく。こんなに人に褒められることは人生でなかったので、人はこうやって褒められて勘違いしてダメになる。それだけは分かりました」
企業から講演依頼も続々〜「信じきる」ことで能力を引き出す
東京・大手町では三菱地所グループの企業セミナーに。控え室で一心不乱に行っていたのは、主催する企業から頼まれたサイン。「夢は正夢」は選手時代からの座右の銘だという。
栗山は選手との向き合い方を例に、リーダーの心得を話した。
「不安になってくると、選手にはもう少し頑張ってほしいのに、人間関係をつくりたいがために『いい感じだな、頑張れよ』と言ってしまう。これは最悪です。そのたったひと言で『俺は頑張っているからいいんだ』と安心材料になってしまう。それぐらいトップの言葉は大きい」
こうした企業からの講演依頼もひっきりなしに。その一方で、オリンピック選手のコーチ陣を育成するJOCナショナルコーチアカデミーの講師を務めるなど、リーダー栗山の手腕が求められている。
これまで栗山は自身の考えを多くの著書の中に記してきた。論語などの古典や経営者の言葉をヒントに時間をかけて練り上げてきたものだ。
この日の企業セミナー「NTT DOCOMO VENTURES DAY2023」のテーマは「組織作り」。
「僕がジャパンの監督になってチームが世界一になるためにどうするか考えた時に、選手に伝えたいことがひとつだけあって、全員に手紙を書きました」
その手紙の一部を特別に見せてもらった。そこには「あなたの姿こそが日本野球そのものです」と記されていた。
「『あなたは侍ジャパンの一員なんです』ということではなく、『あなた自身が侍ジャパンなんです』と。皆さんとこれからともに仕事をしようとする社員全員が『俺の会社なんだ』『俺のチームなんだ』と思った時に、勝ち切れるのではないか」
話を聞いたビジネスマンは「チームワークの作り方やモチベーションの上げ方など、我々もそういったマインドで仕事に向き合わないといけないと感じました」と述べていた。
世界一の監督にはなったが、野球のエリート街道を歩いてきたわけではない。ドラフトにはかからず、プロの道はヤクルトのテスト生から始まった。1軍と2軍を行ったり来たりしながら7年間くらいついたが、1990年、29歳にしてユニフォームを脱いだ。
輝かしい実績もコーチ経験もなかった栗山だが、引退から22年後、日本ハムの監督に。そこで栗山はあるやり方を貫く。日本ハム時代、そしてWBCでもコーチを務めた東京ヤクルトスワローズ・城石憲之二軍総合コーチは言う。
「栗山さんは『何とかしてくれ』『打ってくれ』『抑えてくれ』とかはない。僕らコーチは『何とか打ってくれ』と願望が出てしまう。栗山さんは『この選手ならできる』と、そこは信じきる」
信じきることが選手のモチベーションを高め、持っている力を最大限、引き出すことにつながる。栗山はそう考えているのだ。実際、日本ハムでは周囲の予想を覆し、強敵と渡り合い日本一にも輝いた。
栗山は今、東京に暮らしながら2拠点生活を送っている。そのひとつ北海道・栗山町では一日警察署長に就任。一歩、町に出れば、町民たちとはまるで長年の友達のようだ。
地元となった北海道だけではない。行く先々で人々の心を惹きつける。
千葉・幕張の「イオンモール幕張新都心」で行われたウォーキングのイベントでは、眼鏡店「Zoff」の前にヌートバーの等身大ポスターを発見。絶好の撮影ポイントと見るや、「子どもたちも一緒に撮ろう」と呼び集めた。サービス精神満点だ。
「100年練習しても無理だな」〜テスト生から世界一の監督へ
名前が同じという縁で栗山町の観光大使を引き受けた栗山。2002年には私財を投じて「栗の樹ファーム」(コロナを機に休館中)を作った。
一角に立つログハウスには、栗山のお宝コレクションが。イチロー、松井秀喜ら名選手が実際に使っていた野球道具が展示されており、直接、触ることもできる。野球ファンに無料開放したのだ。
壁一面には栗山自らアメリカで買い集めた野球人形のコレクション約200点が。今では手に入らない希少品も多いと言う。ヤンキース時代の松井秀喜やドジャース時代の野茂英雄のフィギュアも。
「僕がいなくなって何十年かしたら、『こういう時代があった』とみんなが喜んでくれるかなと思って」(栗山)
東京・小平市に生まれた栗山は、小学校で野球に夢中になった。高校は都内の強豪、創価高校に進学。キャプテンも務め、プロを目指した。しかし、将来を心配した両親が猛反対。それなら教師になろうと、国立の東京学芸大学で教員免許まで取得した。だが、「このまま野球を辞めたら一生、後悔すると思って。最後まで誰かに「ダメだ」と言ってほしかったというのもありました」。
学芸大学ではスラッガーとして鳴らしたが、ドラフトで声はかからず、ヤクルトの入団テストを受験。奇跡的に受かり、テスト生としてプロ入りする。しかし、入団した栗山はいきなりうちのめされる。
「プロの練習が始まってからは『なんてことをしちゃったんだ』という感じです。あんなに人生で後悔したことはない。あまりにも他の選手とレベルが違いすぎて、100年練習しても無理というぐらい差があった。だから全然楽しくない。普通、しばらくは楽しいじゃないですか、プロ野球選手になれたら」(栗山)
入団後、めまいに襲われる病気、メニエール病を発症したこともあり、1軍になかなか定着できない。結局、実働わずか7年で引退した。
「そういうのがトラウマなので、次はちゃんと一人前の仕事ができるようにやらなきゃと思って選手を辞めました」(栗山)
引退後はスポーツキャスターとして野球に携わり続けた。
セオリーに縛られない〜二刀流を生んだ栗山発想術
2002年、栗山は私財を投じて野球場を作った。きっかけは大好きな野球映画『フィールド・オブ・ドリームス』。栗山は現役引退後、撮影現場となったアメリカの球場を訪れ、ある光景を見た。
「『フィールド・オブ・ドリームス』の球場で、台湾の子、日本の子、アメリカの子が遊んでいて、言葉が通じないのに試合をやり出したんです。こういう環境をつくってあげることによって人と人が結びついて、子どもたちに伝えたいことが伝わるんだと感動し、日本にもつくろうと思ってやったんです」(栗山)
出来上がった球場を栗山は無料開放。定期的に野球教室も開いてきた。そんな栗山に信じられない話が舞い込む。北海道日本ハムファイターズから監督の打診があったのだ。
栗山のマネージャーを務めた北海道日本ハムファイターズの岸七百樹チーフマネージャーは、「栗山さんは指導者というより、発想が教育者。プロ野球レベルの選手を教育者の目線で育てていく。それができる人を球団はほしかったのだと思います」と言う。
栗山自身はこう考える。
「このぐらい野球を愛しているなら『栗山に監督を任せてもいい』となったのではないかと思います。野球場をつくっていなかったら、監督になっていない。(グラウンドの隅に植えてある植物は)バットの素材のアオダモの苗を植えているんです。次の世代に残したいと思って」
アオダモの木が大きくなってバットになるのは60年も後のこと。そんな野球愛が運命を切り拓いたと栗山は思っている。
2012年、初めての監督生活がスタート。通常、新監督は自分が信頼するコーチを引っ張ってくるが、栗山は違った。球団との打ち合わせの席で「今までと同じ人で結構です。僕がやりやすい人を集めるつもりはありません。今いるコーチは自分より優秀な人たちです。彼らの力を借ります」。これでチームの空気が見事に変わった。
「それでコーチたちが『よっしゃ!』、栗山監督のためにやろうと。そこでコーチたちの心をつかんで、その年に優勝です」(岸さん)
リーダー・栗山には頑なに守ってきた流儀がある。
「僕みたいに、もともと誰も監督をやらないと思っている人間が監督をやった時点で、セオリーから外れているわけです。その人間がセオリー通りやっても意味がないし、常識に囚われるのが一番バカみたいなので」(栗山)
その流儀は大谷翔平との関係に象徴される。2013年、大谷が入団すると、栗山は球界のセオリーに反するかつてない育成プランを打ち出す。それこそが二刀流だ。
分業が定着したプロ野球界のセオリーは無視。するとすぐさま周囲は騒ぎ出した。プロはそんなに甘くない、才能を潰してしまう、二刀流を捨てろ……。
「みんなが言うけど、誰がやめさせるんだ、と。才能があったから、どちらかをやめさせるわけにはいかない。僕は成功すると信じてやっただけです」(栗山)
栗山が信じた才能は今、メジャーリーグを席巻。最も価値のある選手となった。
「大谷翔平のように育てるコツ?」〜街行く人の相談に栗山がズバリ
「栗山英樹に相談してみたい」ことを街で聞き、それについてスタジオで栗山が答えた。
まずは20代のビジネスマンから、「尊敬されるような上に立つ人になるにはどうしたらいいか」という質問が。
「これは僕の持論なのですが、例えば仮に監督を選ぶ立場になった時にどんな監督を選ぶのかというと、僕は『担がれる人』とよく言います。要するに、能力よりも『この人のためにやりたい』とか『この人のためだったら手伝ってあげたい』という魅力がある人でないと、今は昔みたいに、絶対的オーラがある人に全員が「はい!」と言う時代ではないと思うんです。だから担がれる人柄、生き様を持っている人になればいい。その人が一生懸命やると、周りは理解できるので、そういう生活を送ってください」
続いて20代の女性からの「2月に子どもが生まれるのですが、大谷選手のように育てるコツがあれば……」という質問にはこう答えた。
「これは僕の感覚ですが、翔平を見ていると、ご両親がすばらしいんです。もちろん教育もあるかもしれないですが、お父さん、お母さんの姿をそのまま自分の心の中に入れている感じがします。両親がやっているそのままが人格に直結していく可能性があるのかなと思います」
〜村上龍の編集後記〜
1984年テストを受けヤクルト入団。86年、規定打席には足りなかったが打率・301。このころの必需品はワープロ。まだPCが普及していないころ、コーチからのアドバイスなどを記録していた。89年ゴールデングラブ賞を受賞。広い守備範囲、ダイビングキャッチでの球際の強さは見せ場を作った。「ホームランを打つと視線が全部集まる、グラウンドを支配できる。それと同じ気分でした」栗山さんが自分のことを話すことは極めて少ない。でも、ダイビングキャッチのことを話すときは、とても、うれしそうだった。
<出演者略歴>
栗山英樹(くりやま・ひでき)1961年、東京生まれ。1984年、東京学芸大学卒業後、ドラフト外でヤクルトスワローズ入団。1990年、現役引退後、解説者、スポーツジャーナリストとして活動。2012〜21年、北海道日本ハムファイターズ監督。2021年、第5回WBC日本代表監督就任。
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