NHK大河ドラマ「どうする家康」には、「あまりに史実とかけ離れている」との批判が相次いだ。歴史評論家の香原斗志さんは「最大の問題は、家康の正妻・築山殿の描き方にある。あまりにも荒唐無稽な設定により、俳優陣が好演しても報われない面があった」という――。
『大河ドラマ・ガイド どうする家康 前編』(写真=PR TIMES/NHK出版)

■「どうする家康」で気になったのは俳優ではなく脚本

ジャニー喜多川氏の性加害問題に揺れた2023年。NHKはこれまで旧ジャニーズ事務所に所属するタレントを毎年5〜6組、紅白歌合戦に出場させていたが、今年は44年ぶりに一人も出場させない。

長いものに巻かれながら、ひとたび問題が発覚すると手のひらを返す。そんなNHKの姿勢には、大河ドラマ「どうする家康」も振り回された。

主役の徳川家康に松本潤、準主役の織田信長に岡田准一、家康の異父弟の久松勝俊になにわ男子の長尾謙杜、豊臣秀頼にHiHi Jetsの作間龍斗と、旧ジャニーズ事務所の所属タレントが4人も出演していたからである。

露骨なまでにジャニーズへ依存していたため、シーズン途中で問題が発覚すると、「どうする家康」自体が色眼鏡で見られる不幸に見舞われた。

しかし、彼らの名誉のために強調しておきたいが、旧ジャニーズのタレントたちは適材適所に配置され、よく演じていた。

問題はそれよりも脚本にあった。登場人物の輪郭を明瞭に描こうとするあまり、複雑さや厚みが損なわれ、奥行きが失われた。

また、食うか食われるかの戦国の世に生きるにしては、各人はいつも個人的な思いに突き動かされ、人物相互のほんとうの関係性が見えなかった。歴史を動かすダイナミズムが隠れてしまった、ということである。

以下に「どうする家康」の全48回をとおして、ネガティブな意味で気になった場面を5つ挙げたい。設定がいびつだと、俳優が「怪演」するほど違和感は増す。その結果、割を食った俳優の演技を救済したい思いもある。

■「足利義昭=バカ殿」の設定は浅すぎる

ワースト5位は、「キャラクターの輪郭を明瞭にした結果、浅薄に描かれてしまった人物たち」で、例として3人を挙げたい。

最初に室町幕府最後の将軍、足利義昭(古田新太)。上洛した徳川家康(松本潤)が対面する場面ではじめて登場したが、昼間から酒に酔った様子でゲップをしながら千鳥足で現れ、話しながら居眠りをはじめてしまった。絵に描いたような「バカ殿」として描かれたのである。

実際には、義昭が空虚なバカ殿だったとは考えられない。自身の上洛を自身が主導し、信長の助けは借りたが、信長とて当初は義昭に供奉し、天下(当時は京都を中心とした五畿内をそう呼んだ)の再興に協力するという姿勢だった。その後も義昭は、京都やその周辺における争いを裁定し、軍事面も仕切った。信長に担がれただけの人物でないことは、史料からもまちがいない。

足利義昭坐像(等持院霊光殿安置)(写真=目黒書店/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons)

ところが、「どうする家康」では、家康の重臣の石川数正(松重豊)に、義昭に供奉する信長(岡田准一)の胸の内をこう語らせた。「神輿は軽いほうがいいからでは? おだててさえおけば言いなりになるからでは?」。だが、これでは信長と義昭とのあいだの緊迫した駆け引きなどは、みな切り捨てられ、歴史描写が浅くなる。

■歴史を動かすのは私怨ではない

石川数正のセリフを引用したが、このとき数正は、「浅井殿はそのすべてを見抜いたのかもしれません」とも語った。これは、信長の妹の市(北川景子)を娶った近江(滋賀県)の浅井長政(大貫勇輔)は、義昭を担いで覇道を突き進む信長の魂胆を見抜いた、という意味である。長政は、誠実な好青年であるがゆえに信長に違和感を募らせ、自分が信じる正義を優先したように描かれたのだ。

そんな長政像には、義昭像と同様の違和感を覚えた。長政は義兄の信長を裏切って越前(福井県)の朝倉義景の側につき、信長を窮地に陥れた。しかし、「誠実」や「正義」がその動機ではない。

長政は信長と同盟を結んだが、それ以前から朝倉氏に従属していた。織田と朝倉が対立した以上、どちらかを選ばなければないが、こうした場合、戦国大名に求められたのは、領国の存立にとってどちらが有利か、という冷徹な判断であった。義侠心を持ちこむ場面ではないのである。

明智光秀(酒向芳)も残念だった。信長に媚び、ライバルに冷たい小人物として描かれたが、人の目を見るのが厳しい信長が、そんな人物をナンバー2にまで抜擢したはずがあるまい。

光秀は家康の饗応役を務めた際、家康が鯉の臭いを気にしたため、信長の逆鱗(げきりん)に触れて役を外され、信長と家康を深く恨んだ。それが本能寺の変の動機だとされた。

このように「どうする家康」では、歴史が動く動機やきっかけが、いつも私怨など個人の思いだった。しかし、そのために歴史のダイナミズムが、どれだけ矮小(わいしょう)化されたことだろう。

■淀殿が家康を恨んだ動機が小さすぎる

ワースト4には淀殿こと茶々の描かれ方を挙げる。北川景子は好演したが、ドラマに敷かれた伏線が、それをぶち壊してしまった。

第47回「乱世の亡霊」で、茶々の妹の江(マイコ)が姉の心中を家康に語った。茶々は母の市から、家康は「わが身の危険も顧みず、人を助け世に尽くすお方」と聞かされ、家康への憧れを抱いていた。だが、再婚相手の柴田勝家(吉原光夫)とともに北ノ庄城に籠った母が、羽柴秀吉(ムロツヨシ)に攻められた際、家康は助けに来てくれなかった。このため家康に恨みを抱き、抵抗し続けたというのである。

茶々が助けに来ない家康を恨んだことは、彼女が北ノ庄城から救出される場面でも仄めかされた。が、そもそも市が家康の助けを待ったはずがない。天正10年(1582)10月、秀吉が信長の三男の信孝を担ぐ勝家と対立し、信長の次男の信雄に織田家の家督を継がせるクーデターを起こした際、家康は秀吉宛ての書状で祝意を表した。すなわち、家康はこの時点で「勝家=市」と敵対し、助けるうんぬん以前の話だったのである。

ここでも大坂の陣という戦国最後にして最大の合戦に至った原因のうち、大きな部分が個人の思いに帰せられ、もっと大きな思惑や人知を超えた波が見えなくなってしまった。

■築山殿の設定がすべてを狂わせた

ワースト3は家康の正妻で、有村架純が演じた築山殿(ドラマでは瀬名)である。その影響の大きさを考え、ワースト1にすべか迷ったが、後述する理由で3位にとどめた。

家康と築山殿は、少なくとも元亀元年(1570)に家康が岡崎城(愛知県岡崎市)から浜松城(静岡県浜松市)へ居城を移してからは、不仲だったと考えられている。築山殿は岡崎に留まり、死ぬまで家康と別居したからだ。ところが「どうする家康」では、家康と築山殿は最後まで仲睦まじく、家康はあらゆる点で彼女の影響を受けた。

築山殿の肖像(図版=西来院蔵/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)

その最たるものは、第24回「築山に集え」で描かれたファンタジーだった。築山殿は家康の嫡男で彼女が生んだ信康(細田佳央太)とともに、彼女が暮らす岡崎の築山に、宿敵である武田氏の重臣ほか複数の要人を呼び寄せていると家臣が察知。妻子が宿敵とつながっているのが信長に知られたら大変だと、家康たちは築山に踏み込んだ。

そこで築山殿は、戦の虚しさ語ったうえで、「奪い合うのではなく与え合うのです」と説いた。隣国同士で足りないものを補填し合い、武力ではなく慈愛の心で結びつけば戦は起きない、というのだ。それは現代の視点では理想でも、領国の境界が常に脅威にさらされ、戦わなければ敵の侵攻を許し、戦う意志を示さなければ、傘下の領主たちはすぐに離反してしまう戦国の世においては、ファンタジーにすぎない。

ところが、あろうことか家康も重臣たちも築山殿のファンタジーに共感し、受け入れるのである。だが、結局は、築山殿と信康が武田に通じていることが信長に知られ、信長は2人に死を強いる、という展開だった。

■ワースト2位は「家康と信長の関係性」

たしかに、築山殿は天正7年(1579)8月、死に追い込まれ、翌月には信康も自刃した。しかし、その原因は築山殿自身に帰せられている。天正3年(1575)に宿敵の武田氏を岡崎城に迎え入れようとして発覚した大岡弥四郎事件では、築山殿が主導的な役割を果たしたとみられ、その後も信康を巻き込み武田氏と内通した形跡があった。

そうであれば、家康は2人を処断するほかなかった。家康はみずから妻子を殺す決断をしたのである。

しかし、脚本家にとっては、妻子は信長に殺されたのでなければ都合が悪かったようだ。なにしろドラマでは、妻子を殺された家康が「信長を殺す」と発言。信長の宿所を確認すると、「本能寺で信長を討つ」と決意し、家臣に準備までさせた。

さきほど明智光秀に触れた箇所で、家康が「鯉の臭いを気にした」と書いた。じつは、家康は臭わない鯉が臭ったことにし、わざと信長を激高させて光秀を遠ざけ、信長を討ちやすい状況を整えた、というストーリーだったのである。そして、重臣の酒井忠次(大森南朋)にこういわせた。「殿はお心が壊れた。信長を討つ。この3年、その一事のみを支えに、かろうじてお心を保ってこられたのだろう」

史実の家康に、信長を討つ動機は見当たらない。だが、「どうする家康」では、最愛の妻子を信長に殺されたという設定にして、その動機を創出。家康と信長の関係性を、史実とかけ離れた異常なものにした。このことをワースト2に挙げるほかない。

■1位は「妻の遺言に振り回される家康」という虚構

この家康と信長の関係も、築山殿のファンタジーに端を発している。だが、築山殿は主役の造形がいびつになった原因であり、ここでは結果として描かれた主役のあり方のほうを、上位に挙げることにした。原因がなんであれ主役の描写がゆがんでいれば、それ自体が問題だと考えるからである。

ワースト1も同様に、起源は築山殿のファンタジーにある。すなわち、家康がことあることに「戦なき世」を強調したことである。

家康が260年わたる泰平の世を築いたのは疑いようのない史実だが、結果としての「泰平」が「目的」だったかどうかは別の話だ。家康が能力の高い武将であったことは疑いないとして、天下を獲ることができたのは、種々の偶然が折り重なり、複雑に絡み合った結果である。

戦国最多かと思われるほど多数の戦闘を経験し、絶体絶命の危機を何度も克服した末に獲得した天下。幼少期の人質経験をはじめ、その人生は一筋縄ではいかなかった。「思い」だけで天下が獲得できたのではない。

ところが「どうする家康」では、家康は築山殿のファンタジーから強烈な影響を受け、「戦なき世」をめざした。これだけの大人物が妻の空想を後生大事にし、一生かけて平和を希求する。あまりに安っぽくはないか。そんなに薄っぺらなら、天下を獲れたはずも、忠臣に恵まれたはずもなかろう。

家康の家臣たちは、酒井忠次、本多忠勝(山田裕貴)以下の徳川四天王も、石川数正も本多正信(松山ケンイチ)も、俳優たちはよく演じた。家康も回を追って演技が深まった。だが、軽い言葉で語られすぎた結果、人物の奥行きに光が当たらなかった。家康の家康たる根拠が希薄なので、家臣団の結束が強い理由も伝わらなかった。それらはひとえに脚本の責任である。

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香原 斗志(かはら・とし)
歴史評論家、音楽評論家
神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。日本中世史、近世史が中心だが守備範囲は広い。著書に 『カラー版 東京で見つける江戸』(平凡社新書)。ヨーロッパの音楽、美術、建築にも精通し、オペラをはじめとするクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』、『魅惑のオペラ歌手50 歌声のカタログ』(ともにアルテスパブリッシング)など。
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(歴史評論家、音楽評論家 香原 斗志)