箱根駅伝で創価大学を頂点へ導く榎木和貴監督の戦略は? 中大時代は4年連続区間賞
2024年1月2日・3日に第100回大会を迎える箱根駅伝(東京箱根間往復大学駅伝競走)。今企画では、かつて選手として箱根路を沸かせ、第100回大会にはシード校の指揮官として箱根路に立つ3人の監督に、あらためて箱根駅伝に対する思いを語ってもらった。
第3回は、新興校から強豪校の地位を築きつつある創価大学の榎木和貴監督。中大時代には箱根駅伝では史上7人目の4年連続区間賞を獲得した経験を持ち、指導者としても創価大を就任1年目からチーム史上初のシード校、翌年には往路優勝と総合2位に導くなど手腕を発揮。今回まで4年連続シード権獲得と、強豪としての地位を固めてきた。
第97回大会では往路優勝へと導いた創価大学の榎木和貴監督 写真/創価大学提供
【4年連続区間賞と指導者としての礎】
中大の門を叩いたのは、自然の成り行きだった。九州の強豪・小林高時代の恩師・冨永博文先生はかつて箱根路で疾走した中大のランナーで、恩師は教え子たちのモチベーションを上げるため、自らの勇姿を映像で見せる機会が度々あったという。
「白地に赤のCマークっていうのがすごく印象強く、憧れを抱いた」という榎木監督は恩師と同じユニフォームを身にまとい、1年時から箱根駅伝で躍動。その後、4年生まで走った区間では誰にも負けることなく、史上7人目となる4年連続区間賞(区間の最速選手)獲得を達成。3年時には史上最多の14回目の総合優勝も経験した。
――最初の2年間は8区、3、4年時は4区と4年連続で区間賞を獲得。改めて4回の箱根駅伝を振り返っていかがですか。
「当時の中大は力のある選手が多くそろい、常に総合3位以内の争いに絡むチームでしたので、1年生のときはもう無我夢中で取り組んでいました。ポイント練習(レース形式の練習)では1回も外せない状況が続くなか、何とか踏ん張り、先輩のケガ等もあり10番目の選手としてメンバーに滑り込んだ感じです。自分のリズムでしっかりと走り、(襷を)もらった順位を少しでも上げられるように心掛けて走った結果の区間賞でした(チームは総合4位)」
――8区は藤沢(神奈川)のあたりだと思いますが、実際に走った感想は?
「一番(沿道に)人が多いところなので、やっぱり元気をもらえました。走っているうちに、『今、区間で1、2番だよ』と情報を伝えてもらい、さらに頑張れた。当時はまだ携帯用テレビがまだなかった時代で、ラジオ中継を聞きながら声掛けする方が多かったですね」
――2年目も同じ8区で、チームは総合3位でした。
「チームとしては、もう少し重要度の高い区間を私に走ってもらいたかったと思いますが、本戦の直前でも調子が上がらず、それなら前年に好走した区間だろうと8区に起用されました。前年は区間記録まであと11秒くらいだったので、出ると決まったら区間記録更新を目標に走りました(15年ぶりに区間記録を更新)。当時は8区や10区がチームの9番目、10番目の選手が配置される区間で、エースは2区、準エースが4区を任される時代でした」
――上級生の2年間は4区を走りました。
「3年生になってからは関東インカレなどのトラックレースでも5000m13分台、10000m28分台を出していました。また同期には4年間、2区を走った松田(和宏)がいたので、自分も準エースとして4区を志願して、役割を全うしないといけない思いでした」
――松田さんがいたとはいえ、エース区間の2区を走ってみたいという気持ちはなかったのですか。
「あまり上り(基調のコース)が得意でなかったので、2区の上りを見た時に『こんなところを走るのか』と。松田は逆に上りがすごく得意でしたし5区も走れるくらい上りの適性がありました。もしかしたら私が2区を強く志願していたら、松田が5区に回ってくれた可能性もあったかもしれません(笑)」
――3年時はチーム順位も6位から2位に上げ、総合優勝に貢献しました。
「直前の全日本大学駅伝では、アンカーまで1分半近く早稲田大にリードを奪いながら、最後に渡辺さん(康幸、現・住友電工陸上競技部監督)に大逆転を喰らって負けたので、箱根は絶対に勝つぞ、とチームの機運は上がっていました。ただ、箱根では(3連覇を狙っていた)山梨学院大、(初優勝を狙う)神奈川大が同じ4区で途中棄権したので、もし優勝候補の2校が万全だったら自分が区間賞を取れたかは分かりません」
――今もそうですが、常に謙虚な受け止めですね。4年ともそれぞれ異なるアプローチで箱根に臨んだと思いますが、区間賞に対してはどのような意識を持っていたのですか。
「1年目は狙っていたわけではありませんが、箱根に限らず、駅伝におけるチームへの一番の貢献は、区間賞しかないとは思って走っていました」
――選手として、箱根駅伝での思い出や学んだことは?
「4年目ですね。周りからは3年目まで区間賞で順調にきて、4年目も確実だろうと思われていましたが、実は夏以降ずっと不調だったんです。コンディション面も含めてうまくかみ合わなくなり、区間賞どころか箱根出場すら大丈夫なのかという状況がずっと続いていたので、そういった不安との戦いもありました。春先はトラックで自己ベストを出して順調だったのですが、その反動からか突然落とし穴にはまった感じで。ただ最後は、大志田コーチ(秀次、現・Hondaエグゼクティブアドバイザー)から『4区はお前しかいないだろう』と背中を押してもらい、何とか走ることができました」
――東京国際大を箱根駅伝の常連校に育て上げた大志田さんは、当時からその手腕が光っていたのですね。
「練習の組み立てから精神面のアドバイスまで、細部に至るまでいろいろ指導していただきました。選手それぞれに、違うアプローチをしていたのが特徴で、それぞれの目的意識に合わせた形でコミュニケーションを取っていた。そういったところは自分が指導者になった今も、参考にさせてもらっています。
また、当時は今の指導スタイルと違って、強豪校でも指導者が週2回か3回練習に来るくらいのスタイルでしたので、基本的に学生が自分たちで考えて、練習を組み立てていたことも貴重な経験でした。自ら考え、自ら実践していくことができないと目的である優勝を達成できないことを、身をもって感じることができたからです。
私は今、40名近い選手を見ていますが、選手の数だけ実力も考え方も違いますし、目指す試合も変わりますので、選手の希望や適性をしっかり見極めながら、一人ひとりメニューをしっかりと考えていくことを心がけています」
【真のトップチームを目指して】榎木監督は中大卒業後、実業団の旭化成で競技を継続。29歳の時にチームを離れ、女子の沖電気をコーチという立場で指導しながら選手として走り続け、その後は男子のトヨタ紡織でコーチから監督として指導に当たった。しかし、実業団の指導では思うような成果を挙げることができなかったと言う。監督を辞した後は故郷・宮崎に戻り、トップレベルの競技とは距離を置く生活を送っていた。
この時、陸上イベントで一般の市民ランナーやジュニア選手を指導することが主な業務になっていたが、「なぜ自分が実業団の指導者でうまくいかなかったのか、ものを伝える時は分かりやすい言葉でないと伝わらない」と、新たな発見もあり、その経験が創価大での指導の礎になったという。宮崎では2、3年過ごすつもりだったが、帰郷して1年経たない頃、箱根予選会で落選したばかりの創価大から声が掛かり、2019年2月から指導を開始することになった。
――創価大を引き受けた1年目からシード権を獲得中ですが、当初から高い目標を掲げて指導にあたっていたのでしょうか。
「前年の予選会が15位ですからシード権獲得も見えなかったですが、目標として掲げることはいいとは思っていました。監督を引き受けた時、学校側からは『5年くらいかけて強いチームに』と言われていましたが、引き受けたからには、1年目から学生たちを箱根に連れて行かなければという気持ちは強かったです。今年からコーチとしてチームに戻ってきた築舘(陽介)が主将を務めていた時で、選手たちの意思を確認すると『付いていくので(本戦に)連れていってください、お願いします』という熱い思いを感じ、それまでの取り組みで足りないもの、課題を洗い出して、ひとつのことをクリアしたら上方修正することを繰り返していきました。元々意識の高い選手が多いことは知っていたので、その点は1年目でもやりやすかったです」
――1年目から予選会突破、そして本戦では10区でシード圏外の11位からふたつ順位を上げてチーム史上初のシード権を獲得しました。
「学生時代、私自身は予選会を一度も経験していなかったので、手探りでチームづくりを進めながら結果が出たという感じでした。予選会は暑い条件下でのレースでしたが、条件が悪くなることも想定して夏から準備を進めていきました。ただ、予選会を突破して満足したらそれ以上は望めないので、改めて選手に問うと、『シード権(10位以内)を取りたい』と。それならチャレンジしようと、予選会が終わってからシード権獲得を新たな目標として設定しました」
――コロナ禍で迎えた2年目は往路優勝、最終10区の残り2kmまでトップを走り続け、駒澤大に次ぐ総合2位。周囲をあっと言わせる快走でした。
「簡単には勝たせてくれないと思っていましたが、本戦までのチームの仕上がりはすごく良かったです。コロナ禍であまり試合がなかったのですが、学内で行った10000mトライアルでは28分40秒台で走った選手が5人ぐらいいましたし(記録は非公認)、うまく適材適所でかみ合えば、往路優勝もいけるんじゃないかという手応えはありました。ただ、レース自体は青学さんなどの強いチームの取りこぼし(区間によって選手が持ちタイムどおりの力を発揮できないこと)も多かったので、あそこまでいけた部分はあります。
もちろん、悔しさはありました。ただ、駒澤さんみたいに優勝を狙った上でレースに臨んだわけではないですし、目標も3位以内だったので、よく戦えたという気持ちの方が強かったです」
――その後2年間も含め、監督就任からシード校として地位を築いています。現役時代と今で、箱根駅伝に対する考え方は変わりましたか?
「非常に注目される舞台なので、どの大学も優勝したいという気持ちは変わらないと思いますし、それは私の現役時代も今も変わっていないと思います。指導者としては、選手たちがそこを目指す以上、自分の最大限のネットワークと能力を使って、うまく導いてあげたいと思います。
ただし、現在最も強い駒澤大は大八木(弘明)総監督と藤田(敦史)監督と二頭体制で指導にあたり、そこに日本代表クラスの選手たちが集まってしっかりとスペシャルグループを作って取り組んでいます。そういった一歩先の取り組みをしているので、これから我々もその領域にしっかりと踏み込んでいかないといけないと感じています」
――駒大は昨季、田澤廉選手(当時4年、現・トヨタ自動車)が世界選手権代表(10000m)になりましたが、やはり代表クラスの選手も育成していきたい。
「箱根で勝っている大学がそこを目指しているのに、それより下の取り組みをしていては一生箱根では勝てないということです。トップチームがそこを目指している以上、やっぱり我々もそこに追いつくような取り組みをしないと、総合優勝なんて言えないと思っています」
――一方で箱根駅伝がなかなかオリンピックや世界選手権の長距離種目で日本が戦えない現状の一因になっているという意見も一部にありますが、その点はどう捉えていますか。
「箱根駅伝があるから、(個人種目で)海外に後れを取っているというのはちょっと視点が違うと思います。実際、10000m27分の自己ベストを持った留学生に対しても最初から攻めて押し切る駅伝仕様の走りをすれば、普通の5kmや10kmのロードレースと違い、タスキを持つことで能力以上の力を出すこともあるわけです。そういう力を個人にもつなげていくことが大切なのではないかと考えています」
――なぜ、これだけ人々が箱根駅伝に魅了されると思われますか。
「箱根は一つひとつの区間が、20km以上ありますし、コースにも特徴があるところが、まず一つ魅力としてあると思います。出雲駅伝や全日本大学駅伝と違って、1〜2カ月準備して出られる試合ではない。4年かけて、そこを目指す選手もいます。昨年、キャプテンを務めた緒方貴典は箱根駅伝に出るために創価大に入って、3年生まで出られなかったけど、最後に華開いた。そういう姿を報道の方が広く、多くの方々に伝え、これだけの思いを持って、箱根に賭ける選手の姿を通じて魅力が高まっているのではないかと感じます」
●プロフィール
榎木和貴(えのき・かずたか)/1974年6月生まれ。宮崎県出身。中大時代は主力として活躍し、1年時(1994年)から4年連続で出場した箱根駅伝では8区、8区、4区、4区に出走し全て区間賞(区間内で最速記録)を獲得。3年時の1996年には中大の32年ぶり14回目の総合優勝に貢献した。卒業後も実業団で現役を続け、現役引退後は実業団チームで指導。2019年2月に創価大学駅伝部監督に就任すると、1年目のシーズンの箱根駅伝(2020年)で9位となり、チーム史上初のシード権(9位)を獲得すると、翌年には往路優勝、総合でも残り2kmまでトップを走る2位に入った。監督就任から4年連続でシード権を獲得中。常に謙虚でありつつ、常に現実的な視点で選手育成を行う指導方針は高い評価を得ている。