土居美咲「引退インタビュー」後編

◆土居美咲・前編>>引退ラストゲームに訪れた幸運「これ以上ない、本当に最後のご褒美」

「腰がガタガタ。限界ですわ」

 彼女があっけらかんとそう打ち明けたのは、引退を決意した夏の日だった。

 すでにその時点で、耐えがたい痛みとの戦いは1年近く続いていたという。診断名は「腰椎分離症」。ジャンプや腰の回旋を行なうことで起こる、腰椎後方部の疲労骨折である。


世界で活躍し始めた20歳の頃の土居美咲 photo by Getty Images

 土居美咲を最終的に引退に追いやったこの故障は、彼女のプレースタイルと不可分であり、彼女のアスリートとしての足跡を反映するようでもあった。

 世界ランキング最高位は30位。オリンピックに2度出場し、フェドカップ(国別対抗戦)でも幾度も日の丸を背負うなど、日の当たる道を歩んできた土居。ただ、それにもかかわらず、彼女にはどこか、いい意味での"アウトサイダー"の匂いがあった。

 159cmの小柄な体を目いっぱい使い、飛び跳ね、左腕を全力で振りきり攻めに攻めるのが、土居のスタイル。相手の懐(ふところ)に飛び込み、肉を切らせて骨を断つようなそのプレースタイルも、日本テニス界では異彩を放っていた。

 土居がテニスを始めたのは、千葉県の大網白里市。当時、人口4万人に満たない小さな町で、テニス愛好家の両親についてコートに行った。

 きっかけは、よくある始まりの物語。その地元のテニスクラブで、彼女は存分にラケットを振った。少し大きな大会に出ると、周囲の「あんなプレーでは身体が持たないよ」との声も聞こえたという。だがコーチは、ショートカットのボーイッシュな少女に伸び伸びプレーさせてくれた。

 その雄弁なテニスとは裏腹に、日常生活では引っ込み思案。学校でも、授業中に自ら発言するタイプではまったくなかったという。

 もちろん、彼女がテニスをしていることは、クラスメイトたちも知っていた。だが、14歳以下による国別対抗戦の日本代表メンバーに選ばれることがどれほどの意味を持つかは、むしろ理解されにくかったかもしれない。

「朝礼などで名前を呼ばれると、『すごーい』とはなるけど、別にみんなわかってないと思うんですね、それが何か」と、土居が少女時代を振り返る。

「しかも、すごく変な言い方になりますが、私は中学校の時、部活に入ってないわけですよ。テニスクラブでやっているので。たとえば学校で、垂れ幕とかありますよね。『〇〇部、祝・関東大会出場』というような。私はその頃、ワールドジュニアのアンダー14で、3番手ながら世界で準優勝したチームの一員だったんですが、それは垂れ幕にはならないんです。

 別にそれが不満とかいうのではまったくなくて、『そっか、部活じゃないからか』と思っていました。だから学校のなかでは、私が何をしているのか、みんな今ひとつわかっていなかったと思います。もちろんみんな、『テニス頑張っているよね』っていう認識はあるし、全校生徒の前で表彰されたこともありますが、だからといって、そんなにチヤホヤされた記憶はないですね」

 土居が中学生時代に経験した「部活動ではないため、世界での活躍が理解されにくい」という構図は、そのまま日本におけるテニスの地位の縮図だと言えるかもしれない。

 一方で土居自身は、ラケットで大海を漕ぐかのように、活躍の場を広げていく。

 土居のポテンシャルを見初めた『自由が丘テニスカレッジ』のコーチに誘われ、東京に移り住んだのは15歳の時。グランドスラムジュニアでも2度のダブルス準優勝の戦績を残し、17歳でプロに転向した。

「通信制の高校を選んだ時点で、ある程度は『プロになる』と決めていたと思います。その時点で、『TEAM自由が丘』という、地元の方たちによる一口サポーターシステムにも支援をいただいていました。

 当時は『高校を卒業してからプロ』というのが王道ルートでしたが、私は学校にも通っているわけではないので、実質プロとあまり変わらない生活をしていました。あとは日本テニス協会へのプロ登録をするかしないかだけだったし、たしかジュニアの大会にも、17歳になる年にはほとんど出てなかったのかな。なので、ほかにプロにならない理由がない、という感じでした」

 かくして17歳でプロとなった土居は、19歳の時に全仏オープンで予選を突破し、グランドスラム本戦に初出場。この年の11月には、全日本選手権も制した。

 翌2011年にはウインブルドンで、予選から本戦3回戦へと勝ち上がる。同年には国別対抗戦フェドカップの代表メンバーにも選出され、日本に勝利をもたらした。テニス協会からの支援も全面的に受け、用意されたエリート街道を歩み始める。

 あの時までは......。

「報告ですが、フェドのメンバーから外れる事になりました。」

 2012年、1月末──。土居は自らのブログに、そう書き込んだ。

 この直前の全豪オープン予選で、土居は初戦で競りながらも敗戦。それから日を置かず、しかもすでにメンバー発表もしていたなかでの本人発信だっただけに、舞台裏については様々な憶測を呼びもした。

 その原因や理由には、双方の道理と言い分があり、真相は藪の中の側面もある。小さな理解のすれ違いや感情のボタンの掛け違いが、気づけば大きな亀裂となっていた......というのが、実際のところだろう。

 ただひとつ、現然たる事実として残ったのは、土居の名がこの時の日本代表メンバーから消えたこと。そして、当時20歳の将来を嘱望されていた若手が心に負った、日本テニス界から見放され、すべての人に背を向けられたかのような、深い傷だった。

「もう、日本のコーチについてもらうことはできない。日本には居場所がない」

 そのような土居の認識が、果たして事実だったかはわからない。ただ、テニスに一途に打ち込んできた20歳のアスリートが、そう思い詰めたのは不思議ではない。

 だから彼女は、海外に指導者と自分の生きる道を求める。

 同年の3月から、オーストラリアのサイモン・ウィルシュに師事し始めた。2013年には、当時中国のテニススクールで一般会員にテニスを教えていた尾崎文哉をツアーコーチにつける。そして2015年からは、ツアーコーチの経験豊富なクリス・ザハルカを雇った。

 いずれも、日本テニス界との縁故は皆無と言える指導者たち。その間に土居はWTAツアーでシングルス初優勝を手にし、2016年10月にはキャリア最高位の30位に到達した。

 それら海外のコーチたちから得たものや、恩恵とはなんだったか? その問いに、土居はこう応じる。

「たぶん一番の利点は、信じる力が本当に強くなるっていうところ。やっぱり日本人の性格上というか、コーチもちょっと不安だったり、本当にできると選手に信じさせられるか......言葉が難しいけれど、選手に不安を悟られてしまうところがあると思うんです。それを外国のコーチは、 自分以上に信じてくれるという力がかなりあって。それは今まで、私が教えてもらったコーチに共通していることです。

 もちろん、ツアーを経験している上位の選手を教えた経験も大きいとは思いますが、選手の可能性を信じてくれるっていうのがすごく大きい。技術的な面では、日本人のコーチのほうが教えるのはうまい方が多いとは思うんです。でも、上に行くうえで壁を破るためには、外国人コーチはおすすめかなと。

 ただ、もちろん相性もありますし、文化の違いで挫折する選手も正直、数多く見ている。それでもコーチに限定しなくても、海外を拠点にしてみるとか、トレーナーさんなど選択肢はあると思うんです。海外の人と関わりを持つことで視野も広がると思いますし、一回ぐらいは挑戦してみるといいんじゃないかなとは個人的には思います」

 そのような「視野が広がる」ことの効能を誰よりも体現しているのが、かつては自他ともに認める「人見知り」だった土居自身だ。

 コロナ禍中には、若手選手たちに声をかけ、クラウドファンディングで資金を集めてイベントを実現した。一昨年からは「アスリート委員会」の理事として、テニス界の改革のために会議の場でも意見する。最近ではテレビ解説にも挑戦。アスリートとしては第一線を退いても、選択肢は数多くあるだろう。

 小さな町からラケットを手に世界へ飛び出した少女は、自らの手で道を切り開き、後進に進路を示し、そしてこれからも、自分の足で歩んでいく。

<了>


【profile】
土居美咲(どい・みさき)
1991年4月29日生まれ、千葉県大網白里市出身。6歳からテニスを始め、2008年12月に17歳8カ月でプロ転向を表明。2015年10月のBGLルクセンブルク・オープンでWTAツアーシングルス初優勝を果たす。2016年のウインブルドンでは初のグランドスラム4回戦進出。オリンピックには2016年リオと2021年東京の2大会に出場。2023年8月に現役引退を発表。WTAランキング最高30位。身長159cm。