「プロ野球で1億円稼いだ男のお金の話」 西川慎一(前編)

 昭和のプロ野球では、一流の基準として「1000万円プレーヤー」という言葉があった。現在、一軍選手の最低年俸が1600万円に設定されていることを考えれば、そのハードルは5000万円、いや、1億円くらいまで上がっているかもしれない。NPBで年俸ランキング50位に入るためには、1億5000万円を稼がなければいけない。

 3〜5年活躍すれば年俸が1億円の大台に乗る、そんな選手も珍しくなくなった。しかし、プロ野球選手には寿命がある。どんなにすばらしいスターも衰えとは無縁ではない。もう戦力にならないと判断された時は、すぐに働き場所を奪われる。そうなれば年俸はゼロ、無収入になってしまうのだ。「天国と地獄」を経験した元プロ野球選手に登場してもらい、お金にまつわるさまざまな話を聞いていこう。

 今回ご登場いただくのは、近鉄、阪神、広島で左の中継ぎ投手として活躍した西川慎一氏。中学時代は帰宅部という異色の経歴を持つ西川氏は、いかにしてプロの世界へとたどり着き、中継ぎとして地位を確立したのか。


93年、ドラフト2位で近鉄に入団した西川慎一氏 photo by Kyodo News

【26歳でプロ入り】

── 試合中盤に登板するセットアッパーの評価が今ほど高くなかった1990年代。先発投手、抑えの切り札と比べれば、中継ぎ投手の年俸は低く抑えられていましたね。

西川 セットアッパーとして初めて1億円プレーヤーになった佐野慈紀(元近鉄バファローズほか)などと、「もっともらえるようになろうと」と頑張っていました。でも、先発投手に比べれば評価は低かったですね。「3年連続で50試合以上投げたら上げてやる」という感じでした。

── 西川さんは1993年ドラフト2位(逆指名)で近鉄バファローズに入団しました。

西川 プロ野球選手になるのが、子どもの頃の夢でした。26歳になってもあきらめてなかったのでうれしかったですね。嫁さんには泣かれましたけど(笑)。私が所属していたNTTは安定した会社ですし、野球をやめてからもそのまま勤めることができる。生まれたばかりの子どももいて、幼い子を連れて知らない土地で生活することに不安があったと思います。嫁さんには「5年間だけやらせてくれ」と言って、プロ野球の世界に飛び込みました。

── 大洲農業(愛媛)を卒業後、西川さんは社会人野球のNTT四国でプレーしました。ここで、渡辺智男(元西武ライオンズ)、西山一宇(元読売ジャイアンツ)、山部太(元ヤクルトスワローズ)などのちにプロ野球に進む投手たちとしのぎを削りました。プロ入りまでに9年もかかったのはなぜですか。

西川 中学では帰宅部でしたからね。小学生の時に1年間だけ、リトルリーグでやりましたけど、中学時代は毎日、河原で石を投げて遊んでいました。中学を卒業する時には身長が160センチくらいしかなかったんですよ。本格的に野球をしたのが高校に入ってからです。高校時代に愛媛県でベスト8に入りましたが、練習はそれほどしていませんでした。NTT四国で鍛えられたおかげでプロに入れたものの、やっぱり時間はかかりましたね。

── プロ入りする際の契約金は7000万円、1年目の年俸は1000万円でした。

西川 9年間、社会人を経験しているので、お金のありがたみはよくわかっていました。そういうことを知らずにプロで大金を手にしたら、どうなっていたかわかりません。

【50試合以上の登板を続けて年俸2000万円に】

── プロ1年目、1994年の一軍登板は3試合。1995年は登板なし、1996年は12試合しか投げませんでした。

西川 私は即戦力のつもりだったんですけど、近鉄にはすごいピッチャーがたくさんいて......阿波野秀幸さんのボールは糸を引くようにキャッチャーミットに入っていくし、野茂英雄は存在自体が別格で、小池秀郎のコントロールは見事でした。みんながえげつないボールを投げるので、「こんなところでやっていけるのか」と思いました。

── 中継ぎ投手として頭角を現すのは1997年から。51試合に登板して、防御率3.00という成績を残しました。

西川 その頃はまだ、中継ぎ投手の役割も評価も確立されていませんでした。試合の展開によっては、まだ準備ができていなくても「さあ、投げろ」と言われることもありました。

── 最近でこそ、セットアッパーがイニングをまたいで登板することが減りましたし、登板間隔の調整が行なわれるようになりました。当時はまだスペシャリストとして扱われてはいませんでしたね。

西川 そうですね。起用のパターンも決まっていなくて、「投げろ」と言われるところで投げるのが当たり前。そこでいい結果を残せなければ登板機会が減ることになります。だから、投球練習をしていなかったとしても、文句を言わずに投げる。「やらないと使ってもらえない」と思っていました。

── 気をつけていたことは何ですか。

西川 大事なのは初球ですね。自分の勝負球をどんどん使っていかないと苦しくなります。初球がすべてと言ってもいいと思います。中継ぎでお手本になる左ピッチャーもいなかったので、手探りでやっていきました。同じ左ピッチャーの大野豊さん(元広島)に憧れていましたが、マネできるような方ではなかったので。

【浮上のきっかけは小林繁コーチ】

── 西川さんが浮上したきっかけは?

西川 近鉄のピッチングコーチだった小林繁さんに気に入ってもらって、登板が増えました。1998年には61試合も投げました(防御率2.87)。

── 西川さんの1999年の推定年俸は2300万円。30歳を過ぎてから、やっと一軍で働き場所を与えられたんですね。

西川 もちろん、年俸をたくさんもらうにこしたことはないけど、やっぱり野球が好きなので、お金のことはあまり気にしませんでした。もちろん、上がるほうがいいですけど。

── 西川さんはよくオリックスのイチロー選手の打席でマウンドに上がりました。

西川 コーチからは「当ててもいいから、際どいところを攻めろ」と言われていました。当時のイチローは調子が悪い時がない。だから、足元に厳しいボールを投げて、調子を崩そうという狙いだったと思います。

 オリックスの監督だった仰木彬さんには「わざとじゃないやろうな!」と怒られました。おそらく、3個くらいデッドボールを当てたと思います。イチローがメジャーリーグに行く時、『おまえも一緒にアメリカに行け』と小林コーチに言われたことを覚えています。

後編につづく>>


西川慎一(にしかわ・しんいち)/1967年2月26日、愛媛県生まれ。大洲農業高からNTT四国を経て、93年ドラフト2位(逆指名)で近鉄に入団。中継ぎの柱として、97年は51試合、98年にはチーム最多の61試合に登板した。2000年シーズン途中に阪神にトレード。02年に自由契約となり、広島にテスト入団を果たしたが成績を残せず、04年シーズン後に退団。引退後は実家の家業を継ぎ、現在は経営者として多忙な日々を送っている