斎藤佑樹が決死の覚悟でつかんだバースデー勝利「6月もダメなら野球人生が終わる」
斎藤佑樹、24歳の誕生日──2012年6月6日、斎藤は札幌でのカープとの試合に先発した。5月に函館でライオンズを相手に2回途中で9点を失って以来、いいピッチングをしても勝ちがつかないとか、試合を壊したわけでもないのに早々の交代を命じられたりとか、リズムに乗りきれない日々が続いていた。
2012年6月6日、24歳の誕生日を白星で飾った斎藤佑樹 photo by Kyodo News
函館でメッタ打ちを喰らってから、僕はいろんなことを考え過ぎてしまいました。あの時期は「いっそのこと、考えない力がほしい」と思ってしまったほどです。それなりにいいピッチングをしても勝ちがつかなかった5月を終えて、6月6日の先発は「月が変わったんだから何とか勝ちたい」という気持ちが強かった。誕生日だという意識はほとんどなかったと思います。
あの頃の僕はパワーピッチャーにこだわっていました。理想としていたのは、真っすぐでファウル、真っすぐでファウル、追い込んでから最後にスライダーが来るなと思わせておいて、そこでも真っすぐを投げて、見逃し三振、みたいなピッチャーです。ところが5月の頭に函館で打たれたのはことごとく真っすぐで、それでも僕はパワーピッチャーになりたくて、そうなるためにどうしたらいいのかと、そんなことばかりを考えていた気がします。
4月にポンポンと勝てて、5月に勝てなくて自信をなくしかけて、6月は勝負の月だと思っていました。もっと長いスパンで起こっていることをとらえなくちゃいけなかったのに、4月はよくて、5月がダメで、これはヤバいヤバいヤバい......もし6月もダメなら野球人生が終わる、6月最初の登板は何が何でも勝たなくちゃいけない、みたいな変な焦りがありました。
だから6月6日の広島戦は、そういう気持ちが僕のピッチングをものすごく慎重にしたという記憶があります。慎重になると思いきってストライクゾーンに投げ込めないイメージがありますが、あの日は慎重になったことがいい方向に出ました。
甘く、中に入ってもダメだし、外にズレちゃうとフォアボールになってしまうからダメ、気を張って丁寧に投げ続けることができました。初回にニック(・スタビノア)にタイムリーを打たれて1点を先制されましたが、その裏、すぐに追いついて、1−1のまま、試合は進みました。
あの日に投げ合った相手はカープのルーキー、野村祐輔です。野村は一つ下ですが、早実が優勝した翌夏、甲子園で準優勝した広陵高校のエースでした。神宮では明治大学のエースとして投げ合った、僕にとってはライバルと言っていい存在です。5月に広島で先発した時もカープの先発は野村で、その時は0−1で負けていました。プロではこの日が2度目の投げ合いです。ルーキーながら野村は防御率でリーグトップを争うほどの数字を残していて、手強い相手でした。
【1カ月ぶりの勝ち星】1−1のまま迎えた8回表、僕はカープの攻撃を10球で終わらせました。慎重になりながらも、ずっとストライクゾーンで勝負することができていました。三振はとれませんでしたが(奪三振ゼロ、被安打5)、早いカウントでポップフライや内野ゴロを打たせて(29人のバッターのうち16人を3球以内で終わらせていた)、球数も少なく8回まで来ることができました。
ただ内容は野村のほうが目立っていて(奪三振7、被安打2)、真っすぐでの見逃し三振が多かった(5つ)からか、圧巻のパワーピッチングをしているイメージがありました。
ただ、野村に何かしらのアクシデントがあって8回にカープのピッチャーが代わります。そこで(金子)誠さんが三遊間を抜くヒットを打って、その後、ツーアウト1、3塁から田中賢介さんがライト前へタイムリーを打ちます。8回裏に2−1と勝ち越して、9回はクローザーの武田久さんに代わることになりました。
これがファイターズの勝ちパターンでしたから当然だと思いましたが、同時に、まだ僕の球数にも余裕がありましたし(8回を終えた時点で88球)、最後まで投げたいという気持ちがなかったといえばウソになりますね。
久さんが最後をゼロに抑えて、僕に1カ月ぶりの勝ち星(5勝目)がつきます。試合後、札幌ドームのお立ち台に上がって、僕は「最強の24歳になります」と言いました。この年の開幕投手を任せてもらってからずっと、そうあるべきだと思っていました。
開幕を投げるピッチャーへの期待値というのはいちばん高いはずです。僕にとっての「最強」の定義は、パワーピッチャーに通じていました。強い、イコール、ストレートで三振をとれる、空振りをとれる......それが僕にとっての「最強」のピッチャーです。
ところが誕生日だったあの日は、奪三振ゼロという、いわば最強とは対極のピッチングで勝ったわけで、だからこそ次からは最強のピッチャーを目指します、と言いたかったんだと思います。
交流戦を終えた時点で5勝5敗(5勝はリーグ8位タイ)。チームのなかでは吉川(光夫)の7勝がトップでした。それでも開幕から一度も外れることなくローテーションを守って、ファイターズも首位のマリーンズに次ぐ2位につけていました。
2年目になって、プロとしての毎日に慣れてきた感じもありました。1年目は負けたらすごく落ち込みましたし、同点の試合とか、自分に勝ち負けがつかない試合に対して、納得がいかない時もありました。
でも、プロではそうじゃないことに気づきました。同点だったとしても6、7回まで投げたら、その分、イニング数も稼いでいるわけで、自分のしたいことがちゃんとできていれば経験値としてそれが積み重なっていく......そう思えるようになったことがプロとしての成長だったのかもしれません。
【きっかけをつかんだ中村紀洋への投球】僕はプロ2年目、初めてファン投票でオールスターゲームに選んでもらいました。6月6日の誕生日に勝って以来、ローテーションどおりに投げてきましたが、勝ち星を増やすことはできていません。それでも僕は京セラドーム大阪での第1戦、オール・パシフィックの先発ピッチャーとしてマウンドへ上がらせていただきました。
まず、先頭の長野(久義)さんを3球三振に斬ってとります。真っすぐ2球で追い込んで、3球目、ボールゾーンへ曲がっていくスライダーで空振り三振。2番の鳥谷(敬)さんはバックドアのカットボールでセカンドゴロ。3番の(アレックス・)ラミレスも打ちとって(セカンドゴロ)、三者凡退です。
じつはあの日、僕はあることを胸に秘めてオールスターに臨んでいました。それは、大胆に、でも力を抜いて、ストレートをストライクゾーンへ投げよう、ということ......結果、(6番の)中村紀洋さんに初球、真っすぐを投げたら、レフト上段まで届く特大の2ランホームランを打たれてしまいました。
それでも次の打席、中村さんにはまたストレートで勝負を挑みます。とくにその初球、アウトローに決まった時のパチッとはまった感覚がすごくよかったんです。さらに前の打席でホームランを打たれた高めの真っすぐを投げて、今度はキャッチャーへのファウルフライに打ちとります。あの時、気づいたことがありました。
まだ圧倒的な力があるわけじゃなかった僕の真っすぐをストライクゾーンへ投げれば、打たれるリスクは高くなります。函館でもそうでしたし、オールスターの時もそうだった。でも、じゃあ、真っすぐをストライクゾーンに投げたら絶対に打たれるのかと言われたら、そんなはずはない。当たり前のことなんですけど、それをマウンドで実感できていなかったんです。
初球がボールになって、2球目もきわどいところを狙いすぎてストライクがとれない。初回からコーナーへきれいに変化球を決めようとすると、後半になって緩いボールが効かなくなってきます。もっとシンプルに、立ち上がりはどんどん真っすぐで攻めればよかったんですけど、それができなかった。何とかきっかけをつかみたいと思っていたところ、オールスターでの中村紀洋さんへのピッチングでつかんだ気がしていました。
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後半戦のスタート、斎藤はオールスターゲームと同じ京セラドームのマウンドへ上がった。バファローズを相手に斎藤が意識したのは、大胆さを意識しながらストライクゾーンへ投げ込むこと──しかしこの試合の結果が、斎藤の野球人生における重大なボタンのかけ違いを生むことになってしまう。
次回へ続く