1992年の猛虎伝〜阪神タイガース"史上最驚"の2位
証言者:高橋慶彦(後編)

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 1991年4月6日、大洋(現・DeNA)との開幕戦、阪神移籍1年目の高橋慶彦は1番・レフトで出場。中村勝広監督の期待度は高く、前年まで1番だった和田豊が2番で遊撃を守り、4番・岡田彰布の前後にトーマス・オマリー、マーベル・ウインと新外国人が入る上位打線で始動した。だが、投手陣が打ち込まれてチームは開幕5連敗。その間、19打数2安打と不振だった高橋に、当時の状況を聞く。


91年にトレードで阪神に移籍してきた高橋慶彦氏 photo by Sankei Visual

【再び本職のショートに挑戦】

「たぶんその頃は、もう1番を打つような選手じゃなかったね。ただ当時の阪神に、強烈な1番バッターってのもおらんかったもんね。それで開幕から使ってもらったと思うけど、打てなかったのはやっぱり年齢もあると思う。チーム最年長は真弓(明信)さんで、オレよりオカ(岡田)のほうがひとつ若いんだから」

 高橋は東京・城西高から74年のドラフト3位で広島に入団。師と仰ぐ古葉竹識監督に育てられ、5年目に1番・遊撃でレギュラーを獲って以来、俊足の強打者として活躍。4度のリーグ優勝、3度の日本一に貢献している。ロッテでプレーした90年を経て、阪神に移籍した91年はプロ17年目、34歳で迎えたシーズンだった。

 4月14日のヤクルト戦から2番で出ていた高橋だったが、同18日の広島戦、自打球で右足を負傷したあとは代打での出番が増えた。だが結果が出ず、6月半ばには二軍降格。9月に再昇格したものの、同年は57試合に出て26安打、2打点、6盗塁、本塁打ゼロの打率.206という成績。「阪神を変える男」と期待されながら活躍できず、チームは2年連続の最下位に終わった。

 明けて92年、高橋は本職だった遊撃での復活を期して始動。ロッテ時代から外野守備が難しくなり、ポジション争いへの参戦を決断した。同年の遊撃候補は実績ある平田勝男、即戦力ルーキーの久慈照嘉、ユーティリティータイプの山口重幸、若手有望株の新庄剛志という面々。記者が「熾烈なショート戦争」と称するほどの状況に、当時の高橋はこう答えている。

「競争になる? そりゃそうでしょう。でも何も言わずやるだけですよ。ただ、昨年のレフトよりはずいぶんラクですね」

 1月の自主トレは岡田らとともに沖縄・石垣島で行なう予定だったが、現地で打撃練習ができないことがわかると直前に変更し、甲子園でスタート。その初日に「結果を出すまでは何も言わない」とコメントしていた。「結果を出そう出そうと思って空回りしてしまった」という移籍1年目を踏まえ、2月のキャンプでは変わらぬ練習量。意気込み十分で充実の毎日だった。

【二軍に落としてくれ】

 開幕戦から遊撃は久慈だったが、高橋は4月12日の中日戦、7試合目に7番・遊撃で先発出場。同15日の大洋戦からは5試合連続で先発したが、結果的にそれが最後になった。以降は代打、代走要員となり、5月22日には二軍降格。この時、オマリーが右手骨折で離脱して新庄が一軍に昇格したと報じられたが、実際にはそれ以前、高橋がコーチに進言していたという。

「自分で『二軍に落としてくれ』って言ったの。『もういいから、新庄と代えて』って。新庄はいい選手だと思っていたし、若かったしね。もう幕を引くのは自分やけんね。で、その年に辞めたろ? オレ」

 降格後は一度も一軍に上がれず、高橋は同年限りで現役を退くことになる。代わりに上がった新庄がブレイクし、亀山努とともに人気となり、"亀新フィーバー"と称されたことは高橋も覚えがあるという。そうした若い力の台頭もあって最後は2位になったが、優勝争いしたチームをどう見ていたのか。

「2位? 快進撃した? 二軍にいたら全然関係ないからね。昭和50(1975)年のカープ初優勝の時だって、二軍にいたから関係なかったし。で、その年でやめるのは自分のなかで決めて。しがみついてまでやる気はなかったから。あっさりしてたよね」

 では、広島で優勝経験も豊富な高橋から見て、92年の阪神が最終的に勝てなかった要因はどこにあったのだろう。

「当時のメンバーをいま見れば......という話やけど、弱いよね。軸がおらんもんね。マイク(仲田幸司)が14勝で勝ち頭といっても、負けも多いやろ。打線も『(ランディ・)バース、掛布(雅之)、岡田』って言われたようなしっかりした中軸じゃないし。92年はオマリー、ジム・パチョレックがよく打ったけど、オカはあんま出てなかったんやね」

 開幕5番の岡田は足の負傷もあって不振だったなか、4月25日の中日戦で7番に降格。チャンスの打席で代打に亀山が起用された。岡田本人の証言によれば、代打を出す可能性について、中村監督からの事前説明はなかった。プロ入り初の屈辱を味わわされ、試合後は「宿舎で荒れた」。以来、「やる気をなくして」シーズン後半は代打要員となった。

 それでも、終盤の優勝争いのさなか、岡田はパチョレックの故障でスタメンに復帰。4番として本塁打を放つなど結果を出した。ところが、パチョレックの復帰に伴い、コーチから中途半端な起用方針を示されて憤慨。優勝争いをするチームに貢献したい気持ちも消え失せ、「そんなんで優勝できへんわ。もう一切、試合に出えへん」とコーチに告げたという。

「そりゃ、オカはそうなるわな。若かったら別やけど、オカぐらい実績があって年齢もいってたら、ヘソ曲げるよな。その点、古葉さんはキヌ(衣笠祥雄)さん外すんでも、ちゃんと話し合って外してたからね。連続フルイニング出場の時がそうだったし。キヌさん、本当はどう思ってたかわからんよ。でも、ずっと最後までチームを引っ張ってたからね。

 監督業って、最終的には将棋の差し手なんよ。ただ、将棋の駒に心はないけど、選手には心があるから。人間やけんね。心がついてくれば、1+1は2じゃない。無限大になる。そのかわり、心がついてこないと、1+1がマイナスになることもある。92年はそこの失敗じゃないかな。最初からオカをうまく使って、最後に一枚岩になってたら、優勝していた可能性はあると思うよ」

【92年の経験が今に生きてる】

 2023年、岡田が監督として率いる阪神が18年ぶりにリーグ優勝を果たした。高橋によれば、1992年の阪神と切り離せないという。

「オカもね、あの時の苦い経験があるから、それが今に生きてるんじゃないの? 自分が選手として嫌な思いをしてるから。もちろん、阪神の監督で前(2005年)に1回優勝してるし、オリックスの監督もやったし、今回だけじゃないよね。だから、集大成じゃないかな」

 高橋自身、引退後はダイエー(現・ソフトバンク)、ロッテ、オリックスでコーチ、二軍監督を歴任している。阪神では不本意なことに二軍で過ごす時間が長かったわけだが、その経験が指導に生かされた面もあるのではないか。

「ないな。指導って、現場で選手のなかに入ってみて、勉強していくことやから。そういう面では、指導者になると、逆に選手に勉強させられる。頭が変わっていかないとダメやからね。『オレたちの時はこうだった』というのは通用しないから」
 
 とすると、高橋にとって阪神時代は、結果的に18年間の現役生活における最後の2年間でしかなかったということだろうか。

「そうやね。だから、『阪神ファンのみなさん、ごめんなさい!』。今でもすごく心が痛いです。真面目な話、心残りです......。もうちょっと早くカープから行っときゃあね、何とかなったけど、球団が出さんからね。出したら大事件やったな(笑)」

(=敬称略)

高橋慶彦(たかはし・よしひこ)/1957年3月14日、東京都生まれ。城西高から74年にドラフト3位で広島に指名され入団。78年に遊撃手のレギュラーとなり、79年に盗塁王、33試合連続安打などの活躍でリーグ優勝、日本一に貢献。80年にも2年連続盗塁王に輝き、85年には自己最多の73盗塁で自身3度目の盗塁王を獲得した。90年にロッテに移籍、91年に阪神に移籍し、92年限りで現役を引退した。引退後はダイエー、ロッテ、オリックスでコーチ、二軍監督を歴任した