昭和の名選手が語る、
"闘将"江藤慎一(番外編)
前回を読む>>江藤慎一に弟のようにかわいがられた江夏豊 逮捕後も「おい、やんちゃくれ来いと言ってくれた。実質、兄貴やったかな」

 1960年代から70年代にかけて、野球界をにぎわせた江藤慎一という野球選手がいた(2008年没)。ファイトあふれるプレーで"闘将"と呼ばれ、日本プロ野球史上初のセ・パ両リーグで首位打者を獲得。ベストナインに6回選出されるなど、ONにも劣らない実力がありながら、その野球人生は波乱に満ちたものだった。一体、江藤慎一とは何者だったのか──。ジャーナリストであり、ノンフィクションライターでもある木村元彦が、数々の名選手、関係者の証言をもとに、不世出のプロ野球選手、江藤慎一の人生に迫る。

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日本野球体育学校を創立した江藤慎一(写真・共同通信)

 江藤慎一は存命であれば、今年の10月6日に86歳の誕生日を迎えていた。

 追悼の意味を込めて、江藤が日本野球体育学校を創設以来、最後にプロに送り込んだ人物にその晩年の素顔を訊いた。

 中日ドラゴンズ、西武ライオンズでセットアッパーとして鳴らした岡本真也は、現在、キャリアを終えた楽天イーグルスのホーム=仙台でもつ鍋屋を経営している。手慣れた仕草でボックスに客を案内すると、流ちょうにメニューの説明を始めた。セカンドキャリアに飲食店を選ぶプロ野球選手も少なからずいるが、店はスタッフに任せて顔も出さないケースも多々ある。しかし2004年セ・リーグ最優秀中継ぎ投手は自らも料理の腕をふるう。それは社会人時代の苦労に裏打ちされた常に働くことへの意欲の表れとも言えるだろう。岡本は峰山高校(京都)卒業後、入社した佐藤工務店を振り出しに、会社の野球部が休部、倒産するという苦難に何度もあっている。江藤が率いたヤオハンジャパンに入ったのは、二社目の阿部企業からの移籍だった。岡本のポテンシャルを見抜いたヤオハンの監督、岡嶋博治によるオファーだった。

「岡嶋さんから、(阿部企業から)うちに来いと言われて天城の寮に入ったんですが、最初は本当に何もない場所でびっくりしました」江藤は一緒にあいさつに訪れた岡本の両親に向かって「これからは私が親になります。息子さんはしっかりと預かります」と丁寧に告げた。それは結果的にプロへ導くことを意味していた。

 流通の企業チームであるヤオハンジャパンの選手たちの職場は街中のスーパーマーケットだが、寝に戻る居住空間は伊豆の山の中で、遊びに行く場所もない。言い換えれば、練習に集中できる環境であった。岡本は、夏は缶詰や小麦粉などを扱うドライコーナーで商品を陳列し、冬は女子小学生が買いに来るファンシーショップで販売をしながら、野球に向き合った。                                       

 江藤のパイプから、広岡達朗、江夏豊といった面々が指導に来てくれた。特に広岡は頻繁に訪問してくれては、内野手出身であるにも関わらず投手の技術について詳細に教えてくれた。講義の時間も設けられており、それは江藤自らが教壇に立っていた。「僕が江藤さんの授業で一番覚えているのは、『攻撃の際は、常に1、3塁にして続けていけ』と言われたことです。1、3塁であった場合、ファーストもベースについていますし、1、2塁間が大きく空いている。そこへ左バッターなら引っ張る、右バッターであったら、ボテボテでもライトへゴロを打てば、1塁ランナーが3塁に到達する可能性が一番高い。だから1、3塁でいけば、ピッチャーも精神的に追い詰められる。僕はプロに入ってからも1、3塁というのは、意識的に作らせないようにすごく気をつけていました。」攻撃時は1、3塁を続けろ、守備の際には作らせないようにしろ。これと同じ定石を岡本はプロに入ってからもひとりの監督から聞く。落合博満である。

「その後、中日に入団して落合監督の下でやるんですけど、江藤さんと驚くほど似たような指導を受けました。ヤオハンの講義では『ドジャースの戦法』(アル・カンパニス著)も必読であっという間に全ページ読みました。その本でも守備の大切さが強調されていて、点を取られなかったら絶対負けない。それは、のちに出逢う落合さんも同じ考えだったんですよ。点をやらなけりゃ、勝てる。1勝143分でも優勝なんだよっていう考えで、それって、江藤さんの言っていたこと似ているなと思ったんです」

 岡本の学びは大きかった。

「僕はヤオハンで野球に対する見方が変わりました。それ以前は練習をやらされているというイメージだったんですけど、プロに行くにはやれるだけやらないと後悔すると心に決めて、冬場の(スーパーマーケットで)一日勤務のときとかでも寮に帰ってご飯を食べた後にそこから2時間、3時間、普通にトレーニングしていたんですよ」

 モチベーションを上げたのは江藤だった。「プロはいいぞ」とことあるごとに自分の体験を岡本に語って聞かせた。熊本で赤貧洗うが如しの生活を体験していた江藤はバット一本で家族を養い、弟(江藤省三)を大学まで出している。企業スポーツでも実力が給料に反映されるべきと考え、ヤオハンに掛け合って、選手には年功序列ではなく野球の技量で給料が支払われるようになっていた。結果を出して20代でも月に50万もらっている野手もいた。これらの環境整備もまたプロ志向の考えからであった。

 冬場もストイックに練習に打ち込んだ岡本の投げるボールは見違えるように球速が上がり、エースに上り詰めていく。1994年にチームを都市対抗大会に導いた中心選手の大西崇之はすでに中日にドラフト指名されて去っていたが、入れ替わるように入団した岡本の活躍でヤオハンは社会人野球の激戦地区である静岡で勝利を重ねていった。そして97年についに2度目の都市対抗出場を決めた。岡本の貢献度は大きかった。

 体罰やパワハラで学校の部活動から挫折した野球少年たちを救い上げるために開校した野球体育学校に端を発し、クラブチームの天城ベースボールクラブ、そしてヤオハンジャパンと、江藤がゼロから立ち上げて来たチームはついに日本のアマチュア野球のトップカテゴリーでも確固たるプレゼンスを示すまでに至った。順風満帆にすべてが回るかと思われた。しかし、晴天の霹靂がチームを襲う。2度目の都市対抗出場を決めたこの年の9月18日、親会社の倒産が発表されたのである。選手たちが晴れの舞台、東京ドームを行進したちょうど2カ月後であった。                                     

 ヤオハン野球部は休部という名の廃部を余儀なくされた。江藤はチームの存続のためにスポンサー探しに奔走し始めた。選手たちは約6割の休業補償を受け取りながら、独自の冬季練習に入っていった。とはいえ、先行きはまだまったく見えない。

 都市対抗出場の立役者、岡本の元には神奈川や愛知のチームからの移籍の誘いが10社以上も届いた。特に同じ静岡を拠点にする名門ヤマハからは、500万円の支度金まで提示されていた。

 それでも岡本はチームに残ることを選んだ。

「僕は江藤さんを信じていました。そしてこのメンバーでまた野球がやりたかったんです。抜けた人もいなくてほとんどの選手が残りましたし、自分だけが出ていくのはどうかと考えたんです」

 岡本はオファーをくれた会社に丁寧に断りを入れた。江藤はアムウェイとのスポンサー契約を結び、チームはアムウェイ・レッドソックスとしてクラブチームとしての再起がはかられた。選手たちはアルバイトをしながら、野球を続けた。

 再開にあたり、江藤はユニークなことを言い出した。

「女子野球を始めようと思ってるんだ。俺らはクラブチームになったんだし、メンバーの中に女子選手も入れて大会に出場できる。女子選手を募って一緒にやろうと思うけど、お前らどうだ?」

 岡本たちは異存もなく「別にいいですよ」と答えた。女子の野球選手が募集され、3人の選手が採用になった。この年、アムウェイ・レッドソックスは岩手県で行なわれた全日本クラブ野球選手権大会で優勝を飾る。岡本はエースとして投げ抜き、決勝戦で完封を成し遂げる。彼は二遊間のどちらかのポジションには女子選手がついていたと記憶している。相手チームは9人全員が男子である。素直な疑問であるが、投手として女子選手が内野守備にいることに抵抗はなかったのだろうか。

「いえ、確かに動く範囲は狭くて男子のスピードにはついて来られないのはわかっていましたけど、彼女たちも一生懸命に野球に取り組んでいましたし、その姿を僕らも見ていましたから。例えそれで失点してもチームに女子選手がいることには何の不満もなかったです。ただそれで思い出したことがあります」

 少し笑って続けた。

「中日から西武に移籍したときです。二遊間の打球が妙に抜けていくなと思ったことがあって...。アライバ(荒木雅博&井端弘和)なら捕ってくれていたものが、あのころの西武は片岡(易之/現・保幸)と中島(宏之)がまだ出始めで二遊間の守備範囲が狭くて(笑)。これ書いてもらって良いですよ、仲が良いですから(笑)。そのときにレッドソックス時代を少し思い出していました」

 1998年、アムウェイ・レッドソックスはクラブチーム日本一に輝いた。しかし、秋の支部大会が始まるころ、岡本は江藤に呼ばれた。「これまでよく投げてくれた。ただ今のこの環境のままではプロにはいけないだろう。だから、お前を取ってくれるところがあれば、もう遠慮なく移籍していいからな」と告げられた。

「女子も入ってきましたけど、クラブチームの日本一になるのは当たり前だと思っていましたし、僕はクラブチームからプロに行くつもりでした。でも江藤のおやじにもうお前の将来のために移籍しなとダメだと言われて腹を決めました」

 江藤は最終的に野球がアムウェイのネットワークビジネスの広告塔にされることを嫌い、スポンサー契約を外すことを決断し、チームは解散した。岡本はヤマハに移籍した。名門ヤマハは結果的に一年待ってくれていたことになるが、移籍金はもう出ず、経費で認められたのは引っ越しで使った高速料金だけだった。

 ヤマハで研鑽を積んだ岡本は2000年にドラフト4位で中日に入団する。2月にキャンプインすると江藤は大西と岡本、ヤオハン時代二人の教え子を訪ねにホテルに現れた。

「ランチの時間に来られたんですけど、メシ食おうと言っておやじは、バーッとビールを飲むんです。けど、僕は1年目でビールはさすがに飲めないじゃないですか。大西さんも遠慮していいですって。昼間にホテルの1階の選手みんなが通るところで、いきなりビール大ジョッキですから(笑)。星野(仙一)監督の時代ですけど、ああ中日はやっぱりこの人のホームなんだなと思いました」

 江藤の訃報を岡本はオープン戦の最中に聞いた。2008年、西武に移籍した一年目だった。

「病気で倒れられたときも大西さんから聞いていて見舞いに行きたかったんですけど、誰とも会わないって、おやじが言っていると。自分の弱っている姿を見せたくないから病院には来るなと。それで行けなかったんです。葬儀は行きました。そこで大西さんに『岡本、俺らは、まだまだプロでやっていかなあかんのや。だからそんなふうに強がりを言っていたおやじの言葉を尊重して死に顔は敢えて見んとこ』って言われたんです」

 弱っているところを見せたくないと言っていた江藤へのリスペクトから、岡本も大西も棺の中の顔にお別れは言っていない。
 
 今、岡本はこう回顧する。「プロに入ってからもいろんな指導者の方に会いましたけど、二軍の熱血コーチでもああいう人がいたかなって、思います。稀有な人ですよ。僕は内川(聖一)がソフトバンクで首位打者を取りかけたときに『止めてくれ、打たないでくれ、おやじの記録(セ・パ両リーグでの首位打者)は唯一のものとしといてくれ』と念じていました」
 
 江藤の大きなこだわりに岡本は気がついていた。

「おやじが最初に作ったのが、野球体育学校。学校っていうだけあって、講義の時間は絶対おやじが作っていました。技術論や野球論をみっちりやりました。それからチームがヤオハンになってアムウェイになっても、『天城ベースボールスクール』っていう墨で記した
木製の手作り感満載の看板は、寮の入り口から絶対外さなかったですね」

――そこはこだわってたんでしょうね。

「はい。チームの母体やスポンサーは変わってもここは天城ベースボールスクール、学校だっていうポリシーですね」

 最後に岡本から逆質問を受けた。

「何でおやじが静岡の天城で野球学校を開いたか、知ってます?」

――それは知らないです。

「日本一の富士山が見えるんですよ。日本一の富士山の下で日本一になるって決めたらしいんです。ちょっと山を登れば、富士山が見えますので」

――お墓もあそこの近くに入られたのも、そういうことですかね。

「そうですね。僕、まだ1回しか、墓参りに行けてないんですけど」

 プレーヤーズファーストの精神、根性論を排した育成、体罰の否定、女子へ野球の普及...「早すぎたスラッガー」江藤は日本一の山が見える天城の地で静かに眠っている。

(おわり)