メジャーリーガーを真似て打撃開眼も… 早すぎた見切りへの後悔「続ければよかった」
正岡真二氏は“ミヤーン打法”を取り入れた1975年、キャリアハイの打率.267をマーク
1979年シーズン、セ・リーグ首位打者には打率.346で大洋のフェリックス・ミヤーン内野手が輝いた。メジャーリーグではブレーブスとメッツで活躍し、大洋には1978年から1980年まで在籍。前屈みでバットを水平に寝かせる独特な構えで安打を量産した。この“ミヤーン打法”をまねしていたのが中日の正岡真二内野手(現・名古屋北リトルリーグ総監督)だ。“本家”が来日する前の1975年頃から取り入れ、結果も出していたが……。
“ミヤーン打法”について正岡氏は「アメリカにキャンプに行った時に見たんだったかなぁ。俺もやってみようって。それが当たったんだよねぇ…」と懐かしそうに話した。実際、プロ8年目の1975年シーズンは打撃好調だった。ショートの控えの立場ながら、4月終了時点での打率は.423、6月終了時点でも.318。7月に3割を切り、最終的には.267だったが、内野守備のスペシャリストがバットでも魅せた年で「ミヤーン打法の正岡」とも言われた。
1975年オフにはレギュラーショートだった広瀬宰内野手が太平洋クラブ(現・西武)に移籍し、正岡氏のチャンスが拡大。1976年4月3日の大洋との開幕戦(ナゴヤ球場)では、9番ショートでスタメン出場した。5月3日のヤクルト戦(ナゴヤ球場)では会田照夫投手からプロ初本塁打も放った。だが、打撃の状態は決して良くなかった。ミヤーン打法も「その頃だったかなぁ、やるのをやめたんだよね。1、2年くらいしかやっていないんだよ」。
なぜ1975年シーズンに結果を出したのに、やめてしまったのか。「かっこ悪いとかさ、そういう単純なものだったと思う。自分で、もっとかっこよくやった方がいいんじゃないかって思ってさ」と正岡氏は言う。独特な構えについては周囲からもいろいろ言われていたそうで「続ければよかったのになぁ……。バカだから、やめてしまった。やめなかったら、レギュラーも取れていたかもしれないのにね」と笑みを浮かべながら、自虐気味に話した。
1976年ドラ3入団の宇野勝が3年目に台頭…遊撃のレギュラーを掴んだ
“本家”のミヤーン内野手が大洋入りした1978年には、もはや「ミヤーン打法の正岡」ではなくなっていたという。「もうやっていなかったから、そんなに覚えてない。ミヤーン(の打法)を見ても、ああ、やっているなくらいだったと思う」というが、本当にやめずにずっと続けていたら、どうなっていただろうか。
正岡氏は9年目の1976年から12年目の1979年まで4年連続で開幕スタメンショートを務めた。1976年は115試合、1977年は120試合、1978年は119試合に出場した。立場はショートの1番手ながら、梅田邦三内野手、田野倉利男内野手らライバルも多く、レギュラーとして安定はしていなかった。守備は文句なしナンバーワンだったが、やはり課題は打撃だった。そんな中、1979年シーズンにはチーム内に打てるショートが頭角を現してきた。
1976年ドラフト3位で銚子商から入団した宇野勝内野手が、3年目にして素質を開花させた。「宇野が出てきて、最終的にあいつがショートのレギュラーになったんだよなぁ」。当時、宇野内野手は21歳で正岡氏は30歳になる年で「そこから俺はセカンドやサードを守ることがだんだん増えていった」。大事な場面で、どのポジションの守りもきっちりこなす。「ミヤーン打法」の正岡ではなく、やはり「内野守備のスペシャリスト」として首脳陣の期待に応え続けた。(山口真司 / Shinji Yamaguchi)