阪神、オリックスでプレーした野田浩司氏【写真:山口真司】

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バス運転手の出勤チェックもしていた元オリックス・野田氏

 運命は一気に……。かつて阪神、オリックスで活躍した野球評論家の野田浩司氏は、熊本・多良木高から社会人野球・九州産交に進んだ。プロから誘われながら、敢えてその道を選択した。熊本の2枚看板と言われた八代一(現・秀岳館)の遠山昭治投手が阪神にドラフト1位指名されたなか、社会人で牙を研いだが、なかなか結果を残せず、プロの評価はむしろ下がっていった。それが、社会人2年目の秋に変わった。大逆転の野球人生が始まった。

 多良木高時代、甲子園には行けなかった野田氏だが、プロには注目されていた。だが「自信がなかった」という。「両親も(社会人で)ワンクッション置いてからがいいという考え方でしたね」。ドラフト下位指名候補として、多くのプロ球団から誘われた。特に巨人が熱心だったそうで「『ちょっとでも気持ちがあるなら指名する、1%でも来る気はないか』と言われたけど『ありません』と答えました」。野田氏は巨人ファンだったが、それでもなびかなかった。

 九州産交行きを決めた。「練習に参加させてもらったんですが、すごく楽しくて」。NTT九州入りの可能性もあったが「他の選手と天秤にかけられたこともあって、そちらはやめました」。ライバルの遠山投手が阪神から1位指名されても、「すごいな」と思うだけ。「あの時の僕は、まだ肩の強さだけで勝手に投げていたレベルでしたからね」。プロなんてまだまだ無理。真剣にそう考えていた。

 九州産交では、バスの運転手の出勤データなどの管理が仕事の中心だった。「客のふりをしてバスに乗り込んで、運転手がちゃんとやるべきことをやっているか、チェックもしました。発車オーライとか右、左チェックとか、信号待ちならエンジン停止とか、いろいろあるんですよ。で、バスから降りる時に社員証を見せるんです。でも、練習で疲れていてバスに乗ったら眠たくなって大変でしたね。1回、とんでもないところまで行ったこともありましたよ」。

 野球も成長した。「社会人で初めて技術について、いろいろ教えてもらった感じでしたからね。球も速くなったと思うし、フォークも良くなりました」。ただ、結果がなかなかついてこなかった。「社会人では全然、大した成績を残していません。都市対抗には一度も行けなかったし、補強選手でも出ていません。むちゃくちゃ投げさせてもらいましたけど、よく打たれたんですよ」。

社会人入り後に下がっていた評価が突然アップ

 プロスカウトの評価も今ひとつだった。野田氏は「あの時の僕はどっちかというとスカウトから見捨てられていたんです」と振り返る。社会人選手は高卒の場合、3年目からドラフト対象になるが「2年目、3年目関係なく“無理だよ、あれでプロは”って感じだったと思います」。そんな中、社会人2年目の1987年、九州産交野球部の廃部が決まった。「すごいショックでした」。とはいえ、どうすることもできない。幸い福岡の日産自動車九州から誘われ、翌年からの移籍は内定した。

 そんな野田氏の運命が変わったのは、九州産交として最後の大会、秋の日本選手権予選だった。「大会前に先輩投手に右膝の使い方をアドバイスしてもらった。足を上げて立つ時にポンとワンクッション、タメができたのかわからないけど、それがはまったんです。それから自分のボールが激変したんですよ」。予選では3連続完投をやってのけた。「初戦が完封で、次が完投で2-1だったかな。最後はNTT九州に負けたんですが、これも完投でした」。

 これで、プロスカウトの見る目も変わった。「確かにその時の僕はいい球を投げていたと自分でも思いました。ストレートもフォークも良かったですからね」。さらにはヤクルト・片岡宏雄スカウトが野球協約を調べて、チームが廃部の場合、高卒2年目でもドラフト対象になることが判明した。「片岡さんから(九州産交の)マネジャーに連絡があって、それで『お前、プロに行けるらしいぞ』と言われて……」。

 そこから連日、プロスカウトたちが押し寄せて来るような状況になった。「ウチは3位だよ」「いやウチは2位」「いや外れ1位だよ」……。評価もどんどん上がっていった。「プロに行けるなら行きたい」と、高卒時とは打って変わって野田氏も前向きになった。日産九州には断りを入れた。見捨てられていたような存在からドラ1候補へ。プロへの道が一気に広がった。(山口真司 / Shinji Yamaguchi)