出番は専門学校との試合だけ、練習は「自分でやって」 5月に“戦力外”…屈辱の最終年
葛城育郎さんは真弓体制2年目の2010年6月に2軍落ち「急展開というか急激…」
悔しい幕切れだった。2011年シーズン限りで葛城育郎氏(元オリックス、阪神)は現役引退した。2010年6月に2軍落ちし、そこから1軍の舞台に戻ることはなかった。「まだまだやれると思っていた」。だが、チャンスをもらえなかった。正式に戦力外通告を受ける前には覚悟せざるを得なかったという。歯がゆい思い、屈辱の日々だったラストイヤー。34歳で決断した裏にはいったい何があったのか。
2006年の1軍出場機会なしから、復活を遂げた2007年シーズン以降、状態は上向いた。プロ9年目の2008年は112試合に出場し、打率.261、1本塁打、29打点。代打では打率.368と力を発揮。一塁、外野守備ともに安定感があり、お立ち台での「ウォーーー」雄叫びパフォーマンスも大人気だった。「阪神では守備固めでも出たりしましたからね。パ・リーグの人たちからしたら、あいつ、なんでって思われていたかもですよね」。
オリックス時代に外野で1試合に2度落球した苦い思い出もあったからだが「あれがあって練習した。いろんなことを経験したことがつながったと思います」。当時も阪神指揮官だった岡田彰布氏にも感謝している。「真っ直ぐが好きなバッターがいるってことで獲ってもらったし、とてもお世話になりました」。2023年、その岡田監督率いる阪神はリーグを優勝を成し遂げた。2008年に巨人に大逆転優勝を許して辞任しただけに、葛城氏にも感慨深いものがあった。
真弓明信監督、木戸克彦ヘッドコーチ体制になった2009年。葛城氏は4月25日の広島戦(マツダ)に「6番・右翼」で出場し、6打数4安打3打点と活躍した。3打席目までに右本塁打、右2塁打、中前打。三塁打は打てずサイクル安打はならなかったが、この年も活躍が続きそうなムードもあった。「阪神の選手がマツダスタジアムで初めて打ったホームランにもなったし、覚えてますね。長谷川(昌幸)投手から打ちました」。
だが、この頃から徐々に……。2010年はオープン戦で打率5割と大当たりだったが、開幕以降は不振。5月21日のオリックス戦(京セラドーム大阪)で金子千尋投手から1号アーチを放つなど、調子を取り戻してきたが、代打で三振した6月5日のオリックス戦(甲子園)を最後に2軍落ちとなった。「急展開というか、急激だったんで、なんでこんなになったのかなと思った」。その後、1軍の舞台に戻ることはなかった。
2011年オフに戦力外通告…トライアウト参加も声は掛からなかった
2011年は屈辱まみれだったという。「2軍の試合にも出なくなった。5月の時点で(2軍監督の)吉竹(春樹)さんに『お前は(2軍の)遠征には行かないからな』と言われたんです」と表情を曇らせた。「もうクビってことだと思った。遠征に行かないメンバーで専門学校とかと試合するんですけど、そういうのは出ろっていわれましたけどね。最終的には練習メニューからも僕は外れたんです。別の欄にあって、自分でやってくれって感じで……」。
何とか道はないか。葛城氏は倉敷商の大先輩で、当時、楽天監督だった星野仙一氏に電話したという。「こういう状態ですって言ったら『すまん、楽天は今、左はいらんのや』って言われて……」。ほかにも、いろんなツテを頼ったが、いい返事はなかった。「金本(知憲)さんもいろいろ聞いてくれたんですよ。でも本当に駄目で。あとはトライアウトとなった」。阪神から正式に戦力外通告を受けた時も「トライアウトを受けます」と答えたそうだ。
「球団からは何か(仕事を)用意すると言われましたが『いや、いいです』と断りました。選手と別れるのはつらかったし、残りたい気持ちもありましたよ。次の仕事も何もなかったわけですから。でも、その時はよそに行って見返してやろうという気持ちの方が強かったですね」。それほどまでに、このままで終わりたくなかった。まだやれる自信もあったわけだが、トライアウトでも状況を好転させることはできなかった。
通算成績は750試合、35本塁打、171打点、打率.248。「千葉マリンでのトライアウトが終わって、全力で走って、全力で投げて、全力で振ることは、これでなくなるんだろうなって思いました」と葛城氏は振り返る。立命館大時代は「伝説のキャプテン」と呼ばれ、オリックスには逆指名で入団した。阪神へのトレード移籍も経験し、代名詞はヒーローインタビューでの「ウォーーー」。数字以上に強いインパクトを残した葛城氏は、無念の思いでユニホームを脱いだ。(山口真司 / Shinji Yamaguchi)