元オリックス・葛城育郎氏【写真:山口真司】

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2年目に14発の葛城育郎氏は翌年1発…バント指令に憤激し2軍落ちした

 何ともむなしい結果だった。2002年シーズン、プロ3年目のオリックス・葛城育郎外野手(現、株式会社葛城代表取締役、報徳学園コーチ)は成績が大幅にダウンにした。2年目に14本塁打を放ち、順調にプロの階段を上がったのが一転、3年目はわずか1本塁打に終わった。この年に監督に就任した石毛宏典氏から打撃フォームの変更を命じられ、うまくいかなかった。合わなかった。あまりの急降下ぶりに大先輩からも心配されたという。

 2年目に14本塁打をマークし、さらなる飛躍を期していた葛城氏の“流れ”が変わったのは2002年宮古島キャンプ終盤だった。「キャンプもラスト2クールになった頃、石毛さんに『今のお前の打ち方は駄目だ。打ち方を変えろ』って言われたんです」。2年目に結果を出したオープンスタンスなどに駄目出しされたという。指示に従ったが、結果が出なかった。「オープン戦は1割くらいしか打てなかった。これではやばいと思った」。

 自分の感覚を取り戻すためにフォームを少しずつ戻していったが、石毛監督からは再び「今のままじゃお前の先はない」と言われ、迷走状態に。「1軍にいながらミニキャンプをすると言われて『また打てなくなると思います。それで結果が出なくて2軍に落とされるのは嫌です』と伝えたら『絶対落とさん、そんなことはせん』って。それで『わかりました、やります』となったんですけどね……」。

 予想通り、うまくいかなかった。「で、打てないからバントのサインが出たんです。なんでやねんって思いました。僕、それまでバント練習をしてなかったんです。それならちゃんとやらせてほしいと思いながら、失敗して、ヘルメットをガーンって投げて、ベンチをガーンと蹴って、その態度に『何やお前は』ってなって次の日からファームです。『落とさないって言いましたよね』って言いにいったんですけど『態度が気に食わん』って言われて……」。

倉敷商の大先輩、星野仙一監督から「お前、今年は何でアカンのや」

 悔しかったが、どうすることもできなかった。その後、2軍でフォームを戻し調子も取り戻した時期もあったが、狂った歯車など、すべてを元に戻すことはできなかった。3年目は打率.221、1本塁打、12打点で終わった。打率.268、14本塁打、53打点だった2年目からさらなるジャンプアップを目指すはずが、完全に逆になった。そして、そんな葛城氏を心配したのが阪神・星野仙一監督だった。「『お前、今年は何でアカンのや』って連絡を入れてくれたんです」。

 星野氏は葛城氏にとって倉敷商の大先輩。「プロに入る時から気にかけていただいていた。倉敷での星野さんの激励会にも呼ばれたり、すごく面倒をみてくれて……」。葛城氏は1999年のドラフト2位(逆指名)でオリックス入りしたが、その際も当時、中日監督だった星野氏に「獲れなくてすまんな」と言われたという。闘将は倉敷商の後輩の状態を頻繁にチェックしていたのだろう。3年目の成績急降下についても親身になって相談に乗ってくれたそうだ。

 葛城氏にはこの星野氏の存在が大きな支えにもなった。4年目の2003年シーズン、打撃フォームに関しては「ちょっとずつ、ちょっとずつ戻しながら、バットの出やすいところでっていうのはやって、最後は元に戻しました」。1軍で結果を残すためだった。「僕の状況を知って星野さんは『わかった、何とかしたるわ』と言ってくれた。『でもちゃんと成績を残さないと阪神は獲らないから、ちゃんとやっておけよ』って」。

 2003年3月28日の近鉄との開幕戦(大阪ドーム)で葛城氏は代打ホームランを放った。「怒りしかありませんでしたね。オープン戦でも打っていたのに、やっぱりスタメンちゃうんやって。絶対に違うところにアピールしようと思ってやりました」。気迫は十分。苛立ちしかなかったプロ3年目を乗り越えての新たな目標が、4年目・葛城氏を突き動かした。(山口真司 / Shinji Yamaguchi)