大学が決まるも深刻な事態 「勝手に手術しやがって」怒る監督…まさかの野球人生危機
葛城育郎氏は高3の10月に左肩を手術も…大学1年の5月に痛みが再発した
大試練だった。元オリックス、阪神の葛城育郎氏は立命館大入学前に左肩を手術した。岡山・倉敷商3年だった1995年8月に立命大のセレクションを投手として受け、思い切り投げて痛めていた。「岡山の病院で診てもらったら、肩の関節唇がめくれちゃって、投げられる状況じゃないと言われた」。大学合格発表後の10月末にメスを入れたが、リハビリは予想以上に長くかかった。その上に新たな問題まで。野球ができなくなる可能性が浮上した。
左肩はセレクションでピッチングした翌日からおかしくなっていた。「次の日から肩が上がらなくなって、痛いなとは思っていた、実技に受かったので練習したかったけど、投げられなかったんです。でも、その時はただ痛いだけかな、疲れかなとも思っていた」。そのまま立命大の国語と英語の試験に備えて勉強を続けた。「確か9月になってから病院に行ったのかな。監督に行ってこいって言われて。そしたら関節唇が投げられる状況じゃないとなったんですよ」。
それでも葛城氏は悲観していなかった。「関節唇と言われても治るだろうくらいに思っていた」という。だが、別の岡山の病院で診てもらったら「『これは手術しないといけない』って。それで手術したんです」。これを倉敷商の長谷川登監督は知っていたが、立命大サイドには伝えていなかった。「立命大の(松岡憲次)監督からは『勝手に手術しやがって』って怒られました」。松岡監督の立命大の先輩でもある長谷川監督が間に入って何とか丸く収めてくれたそうだ。
リハビリは想像以上に時間がかかった。「10月末に手術したので、3か月くらいリハビリすればキャッチボールくらいできるかなと計算していたんですけど、長引きましたね。(1996年)1月途中から京都に行って、スポーツ推薦の子だけが集まって先に練習して、2月中旬からキャンプだったけど、その頃、僕は全く投げられなかったので整備だったり、裏方の仕事をしていました」。投げられるようになったのは「4月」。大幅に出遅れた。
追い打ちをかけることも起きた。「立ち投げだったり、ピッチングもできだして、やっとと思った5月くらいにまた痛みがパッと走り出したんです。嫌な痛みだなと思った」。大阪市内の病院に行くと衝撃的なことを告げられた。「手術した時に、はがれていたものをピンでとめていたんですが、レントゲンを撮ったら、そのピンが抜けて反対側に刺さっていた。ピンは一生抜けないものだと聞いていたんですけどね」。
祈るしかなかった2度目手術「ギリギリでピンが止まっていた」
それだけではない。「精密検査して、手術して開けてみないとわからないけど、もしピンが腱板まで行って、傷をつけていると投げられなくなるし、野球ができなくなるから覚悟しておくようにって言われたんです」。
思ってもいなかった事態にショックは大きかった。病院から大学の寮に戻る途中で父・哲夫さんに電話を入れた。「もしかしたら野球ができなくなるかもしれないという話を、泣きながらしたのを覚えています。寮の前で泣けないので、大阪くらいで電話して……」。
もはや祈るしかなかった手術当日。「手術して開けたら、ホントギリギリのところでピンが止まっていたんですよ。『腱板までいってなくてよかったなぁ』って言われて『助かりましたぁ』と言って……。取ったピンは小さい針金のピンですけど、見せてもらいました」。もう1度、リハビリが始まった。「大学1年(1996年)の春は何にもしていないです。肩もつってましたし、筋肉を切っていたので……」。
あの時、最悪の状態だったら「大学もやめていたかもしれませんね」と葛城氏は言う。「裏方に回ることはしなかったと思います。野球するために入ったので、親元離れてお金もかかっていたし、親には迷惑をかけたくないと思っていましたから」。それくらい追い込まれた状況から、1度は野球を諦めることも覚悟したところから、何とか踏みとどまった。葛城氏は今もこのことを“奇跡”のように思っている。(山口真司 / Shinji Yamaguchi)