落ちたら野球人生終了…決死の覚悟で“全力投球” 見事合格も上がらなくなった肩
葛城育郎氏は就職から大学進学へ方針転換…立命大を目指した
オリックスと阪神で活躍した葛城育郎氏は、岡山・倉敷商から立命館大に進学した。当初は野球をやめて、就職するつもりだったが「親と進路の話をした時に大学に行ってくれってなった」。しかしながら学力だけでは大学に行けそうになく、野球でチャンスをつかむしか道はなし。そこで倉敷商の恩師・長谷川登監督が立命館大出身ということもあってセレクションを受けることに。ここで落ちたら野球は終わりの覚悟で臨んだ。
就職しか頭になかった葛城氏にとっては思わぬ展開だった。「学校の職員室の横に貼ってあった求人票を見て、何をしようかなって考えていましたからね」。社会人野球に進むことも自身の選択肢にはなかった。「自分の力をそこまで過信していなかった。自分なんてと思っていたんです」。それが家族会議で急転、大学進学プランが浮上。「その方が、後の就職のためにも、ってことだったんですけどね」。
葛城氏が野球をやめて就職するつもりだったのは「ずっと親に迷惑をかけているなって思っていた」のが大きな理由のひとつだった。「道具、移動も全部そうですけど、お金がかかっているのはわかっていたんでね」。そもそも学力の問題もあった。「1回、模試を受けたんですけど、全部E評価だったんです。これじゃ、やっぱり無理だろって話も親にもしましたよ。それで推薦しかないとなったんですけど……」。
そこにも“障害”があった。「どこの大学のパンフレットを見ても入学金とか高かったんですよ。そこまでして親に迷惑をかけたくないと思った」。そんな時だった。「(長谷川)監督から立命を受けてみないかと言われたんです。監督が立命大卒業だったんでね。授業料とかも、よそよりちょっと安かったんで、受けてみようかとなった。それまで立命館ってあまり知らなくて、関関同立って言葉も知らないくらいだったんですけどね」。
セレクションに投手で挑戦し合格も…肩を痛めて手術を勧告
腹を括っての“挑戦”だった。「落ちたら、もう大学はいかない。就職する」。そう決めていた。「(立命大の)セレクションは甲子園に行かなかった組のが先にあった。8月10日くらいに。僕はピッチャーで受けました。高校の監督にそれで行けって言われたのでね。これが最後になると思って、もう全力で投げましたよ。そうしたら140キロくらい出たんです。それで実技は受かっちゃって……」。うれしかったが、やることはまだ残っていた。というより、ここからさらに大変だった。
「野球部の推薦でも英語と国語はいるということで、そこから勉強することになりました。筆記試験の10月まで、みっちりと。実技が受かった次の日から毎日学校に行きましたね。夏休み中に僕だけでしたよ。顧問の先生が国語の先生だったので、毎日教えてもらいました。9月に学校が始まっても一番前の席で英語と国語だけずっとやりましたね」。それだけ勉強しても「自信は全然なかった」というが、結果、勉強でも合格を勝ち取った。
「(試験後の自己採点で)英語は15点か16点くらいだったと思います。でも国語が80点くらいあったんですよ。2教科を足して100点くらいはとってくれって言われていた。まぁ、ギリギリ100に近かったから受かったのかなぁって感じでしたね」。短い期間でも一生懸命、努力した成果だった。「実技を受かっても勉強で落ちた子が何人かいましたからね。勉強したかいがあったのかなと思いますね」。
しかし、この裏側でまた別の問題が発生していた。「受からないと思ってセレクションで思い切り投げたので、肩を痛めていたんです。次の日から肩が上がらなくなっていたんですよ。でも、ただ痛いだけかな、疲れかなと思って勉強していたんですが……」。病院に行ったところ「『手術しないといけない』と言われた」。これが葛城氏の野球人生に大きな影響を与える怪我だった。(山口真司 / Shinji Yamaguchi)