試合中にまさかの“座り込み”「しんどくて…」 元虎戦士が「燃え尽きた」高3の夏
葛城育郎氏は倉敷商で甲子園出場はならず…県大会ベスト4が最高成績だった
涙、試練、ライバル……。元オリックス、阪神の強打者・葛城育郎氏は岡山・倉敷商時代、目標の甲子園にたどり着くことはできなかった。最高が1年(1993年)秋と2年(1994年)春の岡山大会ベスト4。最後の夏(1995年)も準々決勝で倉敷工に逆転サヨナラ負けを喫した。「もう燃え尽きましたね。ああ、終わったなって感じでした」と言うが、その過程においても、いろんな印象深い出来事があった。
葛城氏がメンバー入りした1年秋、倉敷商は岡山大会準決勝で岡山城東に0-4で敗れた。「クリーンアップで出て、僕が打てなかったのを覚えています」。その頃にルール破りをして部長先生に目を付けられていたという。「テスト期間中にご飯屋さんに食べに行ったら駄目だったし、野球部は帽子をかぶらなければいけないのに、それをとって、違う帽子をかぶって皮のコートを着て変装して飯食いに行ったらバレて。ペナルティとして草むしりとか……」。
そんな中での敗戦。厳しい声も浴びたそうで「それも覚えてます。そういう時代でしたね」と振り返る。1994年、2年春の岡山大会は準決勝で岡山理大付に5-18で大敗。葛城氏が先発したが、打ち込まれた。「2年の時はピッチャーの記憶があまりないんですよ。その頃は打つ方がメイン。いつもはファーストで4番だったと思います。ピッチャーは先輩が2、3人いましたからね。投げるのはしんどかったし、自分をいいピッチャーと思っていなかったので」。
準決勝はチーム事情で先発した模様だが「ピッチャーは何か嫌でしたね。四球とか出したら、すごく言われましたし……」。打撃では4番で奮闘したものの、勝利はつかめずじまい。「岡山理大付はその年の春の選抜に出たチームだった。岡山理大付と関西が強くて、そんな私立に勝てるのはウチかなって言われた時もあったんですけどね」。2年夏の岡山大会は3回戦敗退。再び、岡山理大付が立ちはだかり、2-3で負けた。
泣いた。号泣した。試合後は涙が止まらなかった。「僕は4番ファーストだったと思いますが、チャンスで僕が打てなくて負けたんです。1個下で主力だったのに打てなくて、とにかく先輩に申し訳なくて、悔しくて、その時はちょっとすごい自分でも覚えているくらい涙しましたねぇ……」。試合に負けて、そこまで泣いたのは初めてのことだった。忘れられるわけがない。葛城氏は当時を振り返りながら、悔しさもまたよみがえってきたようだった。
葛城氏らの代になった2年の秋はさらに試練だった。「確か県大会1回戦で夏の甲子園に出場した関西に当たって負けたんです。僕が先発して、打たれて負けました。1-8か2-8くらいだったかな。完全に力負けだなと思いました」。当時の関西のエースは葛城氏と同学年の左腕・吉年滝徳投手(1995年の広島ドラフト2位、現広島スコアラー統括)。翌1995年の選抜大会でベスト4入りする強豪が最大のライバルとなった。
高3夏は準々決勝で倉敷工に敗退「暑かった…バテバテでした」
「打倒関西になりましたね。自分の場合はレベルアップしなければいけない部分と精神面の弱さもあった。(長谷川登)監督と話をした時も『お前は精神的にムラがあるから』と言われたので、その辺を……」。そこでやり始めたのが学校近くの足高山山上にある足高神社まで走ることだった。「神社でも階段を上がって降りて、往復500メートルくらいを20本とか、冬の間は毎日続けました」。苦しい日々だったが、へこたれなかった。
打倒関西はならなかった。「春の岡山大会も関西に当たって負けました。なんせ強すぎて、太刀打ちできなかったなって覚えています」。ラストチャンスの3年(1995年)夏は、関西と対戦する前に準々決勝で倉敷工に負けた。5回を終えて6-0で勝っていながら終盤に追い上げられ、9回裏に追いつかれた。延長10回に倉敷商が1点勝ち越したものの、その裏に2点を奪われての逆転サヨナラ負けだった。
「僕は背番号3。3番ファーストでした。投げる方は基本的にストッパー。ひと冬越えて、球速は130後半から140くらい出るようになったんですが、コントールはあまり良くなかったんですよねぇ」。ただし、倉敷工戦は終盤にもつれる展開になりながら葛城氏は登板していない。「自分は投げられる状態とは思ったんですけどね。監督らにはそう見えなかったみたい。最後は違うピッチャーが投げて……」。
この試合、葛城氏は打つ方では活躍していた。「ホームランも打ったし、犠牲フライも。完全にこっちのペースだったんですけどね」。ただし、思い出したようにこう付け加えた。「その日、すごく暑かったのも覚えています。僕はバテバテでした。試合中、マウンドにみんなが集まっているのに、僕はしんどくてファーストベースに座っていた時がありましたから」。そんな状況も登板回避に関係したのだろうか。
「真意は分からなかったですけど、もっと僕が強く投げさせてほしいと言えば良かったかなというのはありましたね。ファーストでグラブを外して交代させてくれって意思表示はしたつもりだったんですけどね。今でも(当時の)仲間が集まった時には、あそこで僕がいって、打たれて負けたらみんな納得できると思ったとは言ってくれるんですよ」。葛城氏はそう話したが、だからといって不完全燃焼という気分でもなかったという。
「もう燃え尽きましたね。3年の夏は涙も出ませんでした。これで高校野球が終わったってホッとした部分もあったんです」。甲子園には行けなかったが、濃密な高校時代。葛城氏はこれで野球をやめるつもりだった。(山口真司 / Shinji Yamaguchi)