1988年の日本シリーズ第4戦、西武・清原和博に本塁打を打たれた中日・上原晃(左)【写真:共同通信社】

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上原晃氏は1988年、高卒1年目で鮮烈デビューも徐々に下降線をたどった

 悔しくて泣いた……。元中日投手の上原晃氏は1988年、入団1年目の後半に1軍昇格。セットアッパー的な存在で、ドラゴンズのセ・リーグ制覇に大きく貢献したが、西武に1勝4敗で敗れた日本シリーズは苦い思い出しか残っていない。西武球場(現ベルーナドーム)での第4戦で清原和博内野手にホームランを浴びたことは「よく覚えています」。試合後のミーティングが終わり、宿舎の部屋に戻った途端、涙が止まらなかったという。

 プロ1年目の上原氏の成績は24登板、3勝2敗1セーブ、防御率2.35だったが、残した数字以上に、その活躍ぶりは際立っていた。全身をフルに使った躍動感満点のフォームで150キロのストレートをバンバン投げ込み、相手打者に向かっていく。チームにいい流れも与えていたのだろう。ビハインドで上原氏がリリーフ登板すると、打線がひっくり返すシーンも目立ち“上原が投げると負けない”と言われた時期もあった。

 後半戦からの上原氏の加入が中日にさらなる勢いをもたらし、リーグ優勝したことで「Vへの使者」とも言われたわけだが、シーズン終盤の9月中旬頃から状態は決して良くなかったという。「疲れは関係ないんですけど、それとは別に、ずっと勢いで行っていた中で、徐々に思い通りにいかなくなっているなって感じがあって」。ずっと0点台だった防御率は、17登板目の9月15日の大洋戦(ナゴヤ球場)に1/3回を2失点で1点台に。22登板目では2点台になった。

 それでも十分な成績のはずだが、上原氏にとっては何かしら納得いかないものがあったようだ。防御率が2点台になった22登板目は10月7日のヤクルト戦(ナゴヤ球場)。中日が11-3で大勝してリーグ優勝を決めた試合だったが、その3失点は上原氏が小川淳司外野手(現ヤクルトGM)に許した3ランだった。「親父、おふくろが見に来ていたのに打たれちゃったんです。その時もだんだん打ち取れなくなってきたな、捉えられてきたなとは思っていましたね」。

日本S第4戦で清原和博氏に被弾…宿舎で涙を流した

 そのままの状態で日本シリーズに入っていった。ナゴヤ球場での第1戦は1-4の9回に登板したが、1死から辻発彦内野手に三塁打を浴び、東尾修投手のライトへ犠牲フライで1点を失った。「ピッチャーに犠牲フライを打たれてふがいなかったというか……」。そして、シリーズ2試合目の登板が第4戦だった。0-3の4回途中からマウンドに上がり、2イニング目の5回2死一塁で清原内野手に痛恨の被弾だ。

「事前のミーティングで清原さんには対角線の攻め方で、ということだった。インハイ真っ直ぐ、外スライダー。これがもう頭になくてカウントを取りにいったスライダー。それが甘く入った。清原さんは半速球の甘い球が一番好きだって、これが一番飛ぶんだってわかっていたのに、投げちゃって、バックスクリーンの横くらいまで……。試合後のミーティングでも怒られました。悔しくて部屋に戻って泣いていた覚えがあります」

 とにかく自分が許せなかったという。「怒られた悔しさよりも、自分の中で、ちゃんと投げられなかったという、そういうところですよね」。中日が敗退した第5戦は出番なし、日本シリーズは苦い思い出だけで終わった。もちろん、この時は「次こそは」と思ったが、上原氏の現役時代に中日が優勝したのはその1度だけでリベンジの機会はなかった。

「(シーズン終盤に)調子が落ちていった時に、冷静になってその原因は何だって考えていれば、また吹き返していったと思うんですけどね。でも1年目はとにかく勢いで行っていましたから、そこまで自分を分析できなかった」と上原氏は無念そうに振り返った。大活躍しながらも、最後は涙のプロ1年目だった。(山口真司 / Shinji Yamaguchi)