沖縄水産時代の上原晃氏(右)【写真:本人提供】

写真拡大 (全2枚)

甲子園に3年連続4度出場、最後は監督指令を受けて三振フィニッシュ

 あのピッチャーがライバル校にいたら……。東海学園大投手コーチであり、整体師でもある上原晃氏(元中日、広島、ヤクルト)は沖縄水産時代に4度甲子園に出場した。最高は2年夏の8強入りだったが、大舞台を何度も経験できたことは野球人生において大きなプラスになった。だが、上原氏はこんなことも言う。「もし彼が興南に入っていたら、こんなに甲子園には行けなかったと思う」。その選手とはロッテ、ヤンキース、阪神などで活躍した伊良部秀輝氏のことだった。

 1987年夏、沖縄水産は沖縄大会を勝ち上がり、4年連続4回目の夏の甲子園出場を決めた。上原氏は1年夏、2年夏、3年夏と3年連続の夏の甲子園。過去2年はいずれもサヨナラ負けの屈辱だっただけに、その分もやり返したい夏でもあった。1回戦は函館有斗(南北海道)のエース・盛田幸妃投手(元横浜、近鉄)との投げ合いを制して3-2。上原氏は12三振を奪う力投だった。しかし、2回戦で常総学院(茨城)に0-7で完敗を喫した。

 立ち上がりから常総学院のバント攻撃にリズムを狂わされた。「セーフティスクイズとかやられて……。間に合わないのに投げたり、そういった慌てた守備もした記憶があります。何か余裕がなかったですね。常総には1年生で仁志(敏久=元巨人、横浜)もいましたよね。1年ですごいなって思いましたよ」。

 0-7の9回表は最後の力を振り絞るようにストレートをガンガン投げ込み、最後の打者は三振に仕留めた。「(監督の)栽(弘義)先生に他の投手を投げさせてやってくださいって言ったら『お前が投げろ、三振でしめくくってこい』って言われて最後、マウンドに上がりました。あの時は、そんないきさつがあったんです。負けた時はやっと終わったなって感じだったと思います」。

ライバル校の興南に入る可能性があった伊良部氏

 優勝旗こそつかめなかったが、思い出がいっぱい詰まった甲子園だった。1年夏のサヨナラ暴投で「悲劇のヒーロー」と言われた。魅力いっぱいのストレートが武器で「沖縄の星」とも呼ばれた。すべては高校3年間で4度も聖地のマウンドを踏めたからこそだが、それを振り返る時に上原氏は、同学年で尽誠学園(香川)のエースだった伊良部氏の名前を口にした。

「あとあと、いろいろ聞いたんですけど、伊良部が興南に来るという話が一時期あったらしいんですよ。それが尽誠の方にいったということで……。もし彼が興南に入っていたら、僕は4回も甲子園に出られなかったと思います。だってすごい戦力だったと思いますよ。興南には1年上にデニー(友利)さん(元横浜、西武、中日)もいたし、そこに伊良部が加わっていたら……」。当時の沖縄水産にとって興南は最大のライバルだっただけに、というわけだ。

 剛速球で知られた伊良部氏は兵庫県尼崎市で育ったが、生まれはコザ市(現在の沖縄市)。そんな縁もあってのことだったのだろうか。伊良部氏は尽誠学園時代の2年夏と3年夏に甲子園に出場した。1987年のドラフト1位でロッテに入団したように、その実力は高校時代から折り紙付きだった。

 上原氏は中日1年目の1988年のジュニアオールスターに出場したが、ロッテ1年目の伊良部氏もその試合に登板していた。ウエスタン・リーグの上原氏が148キロ、イースタン・リーグの伊良部氏は147キロを計測。ともにストレートの球速で注目を集めた投手だった。

「特に彼を意識したことはなかったし、話もしたことはなかったんですけど、その後(1993年に)伊良部は158キロとかを出してすごいなと思って見てはいましたよ。逆にその頃の僕は怪我でどんどん下降線って感じでしたけどね」。結果はどうあれ、高校時代に上原氏vs伊良部氏の剛速球対決が何度も実現していれば、さらに話題になっていたことだろう。(山口真司 / Shinji Yamaguchi)