元中日で活躍した上原晃氏【写真:山口真司】

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1986年夏の甲子園…エース・上原晃氏を擁する沖縄水産は松山商に敗れた

 2年連続屈辱の夏だった。元中日投手の上原晃氏は沖縄水産の2年生エースとして、1986年の夏の甲子園のマウンドに上がった。1年の夏はサヨナラ暴投で涙したが「スライダーもしっかり覚えたし、これまでとは違って、いけるぞと思って、自信を持っていった大会だった」。しかし、待っていたのは、またも悪夢だった。準々決勝の松山商(愛媛)戦にサヨナラ負け。「今も自分の中ではふがいなかったという気持ちが残っています」と唇をかんだ。

 1985年の1年夏の甲子園は背番号「11」でリリーフ登板し、サヨナラ暴投で鹿児島商工(鹿児島=現・樟南)に3回戦で敗れた。1986年、エースとして臨んだ2年春の選抜は上宮(大阪)打線から10三振を奪ったものの1-3で1回戦負け。悔しい結果が続いたが、3度目の甲子園となる2年夏は手応えがあったという。春からの自身の成長もあったし、味方打線が好調だったこともあった。「優勝旗を取りに行く大会と思っていた」ほどだ。

 実際、沖縄水産は聖地で強さを見せつけた。初戦の帯広三条(北北海道)との2回戦は12-1。3回戦も京都商(京都)に6安打完封の14-0。沖縄では悲願の甲子園初優勝への期待感も高まった。だが、甘くはなかった。準々決勝で松山商に3-4で敗れた。8回表終了時点では沖縄水産が3-1でリードしていたが、8回裏に上原氏の暴投もあって、追いつかれ、9回裏にサヨナラ負けを喫した。

「勝っていたのに最後まで抑え切れなかったというのがちょっとねぇ。松山商には水口(栄二)さん(元近鉄、オリックス、現阪神打撃コーチ)がいて、いいバッターが多かったんですが……」。同点に追いつかれた8回裏は、その水口氏に左翼線二塁打を許したのがきっかけ。続く打者にバントヒットを決められ、無死一、三塁。ここで上原氏の暴投で1点差。さらに守備にミスが出て3-3。9回裏は1死満塁のピンチを招き、サヨナラ打を浴びた。

準決勝と決勝のダブルヘッダーで2試合連続完投勝利

「またサヨナラかって感じでしたね」と今でも悔しそうに話す上原氏。再度、屈辱をバネにするしかなかった。2年秋の沖縄大会は決勝で興南を6-1で下して優勝した。「そこまで自分の代は練習試合も含めて負けていなかったんですよ」。だが、選抜出場権がかかる秋の九州大会は、2回戦で西日本短大付(福岡)に2-3で敗れてしまった。左腕・石貫宏臣投手(元広島、ダイエー、ロッテ)にやられた。1年夏から3季連続で出場していた甲子園が遠のく、ショックも大きい負けだった。

 その九州大会は西日本短大付が優勝。「西短にコールド負けしたチームもあったし、一番接戦したのがウチじゃないかと思って、選抜出場も、もしかしたら脈があるんじゃないかってちょっと淡い期待みたいなものがあったんですけど、駄目でしたね」。同時にこのままでは終われない気持ちになった。1987年春の九州大会では、準決勝で西日本短大付に6-4で勝ってリベンジ。決勝も佐賀工(佐賀)を6-3で下して優勝した。

「その春の九州大会は沖縄で行われたと思いますが、準決勝と決勝はダブルヘッダーで2試合連続完投。あの頃は精神的なものも含めて元気でしたからね。まぁ時代じゃないですか。僕もよく覚えているなと思うくらい充実感はありましたよ。でも今思うとねぇ……」。プロでは故障に泣かされた上原氏だけに、振り返ると、やはり考えさせられる投げ方にはなるだろう。

 現在、上原氏は整体師として、東海学園大学の投手コーチとして大学生に接しているが「球数とか登板間隔とか、その間の治療とかをしっかりとね」と話す。聖地での2年連続サヨナラ負けも含めて、経験できたことはすべて財産。それを踏まえて、今の世代に指導&治療を行っているが、負けた悔しさだけはいつまでも忘れられない。(山口真司 / Shinji Yamaguchi)