「全ホモ・サピエンスにエールを送る応援団。その名も──シャイニング!」(写真:skipinof/PIXTA)

定年退職後、所属なし、希望もなし。主人公は全員70歳。かつて応援団員だった3人が、友人の通夜で集まった。そこに、「応援団を再結成してくれ」と遺書が届くが、誰を応援してほしいのかがわからない……!?

熱くて尊い、泣ける老春小説『おかげで、死ぬのが楽しみになった』の第1話「シャイニングスター 引間広志の世間は狭い」の試し読み第6回(全8回)をお届けします。

「人生を負け越してるんだ」

「また勝ち星を逃したー」

ビールをあおった巣立が、苦々しくこぼす。居酒屋の店内の隅に置かれたテレビが、プロ野球のオープン戦の結果を伝えている。今日の逆転負けで、贔屓球団の負け越しが決定したらしい。

「野球ぐらい、いいだろ。こっちなんか、人生を負け越してるんだ」

冗談のつもりだった。でも、見事に私自身を言い表している気がして、苦笑いがこぼれた。

「引間の人生、何勝何敗なの?」

「1勝9敗くらいだな」

「負けすぎでしょ。逆にその一勝は何よ。もしかして、応援団か?」

巣立が身を乗り出し、迫ってくる。

そうだ、と答えようとした。ただあの輝いていた日々も、他の三人が挙げた勝ち星のおこぼれに過ぎない。私は首を振り、「訂正、10敗だ」と言い直した。

「10敗はないだろー」

巣立がつぶらな目を見開いた。ビールの泡を口のまわりにつけたまま、店員におかわりを頼む。

「巣立、世界は断じて不公平なんだ」

「珍しく言い切るね」

「天から二物も三物も与えられる人間がいる分、何も与えられない者もいる。そんな星の下に生まれた人間は、どれだけ努力したところで、報われない」

「引間、努力は裏切らないって」

巣立は、太陽のようにあっけらかんとほほえんだ。

「努力の年末調整がある」

「努力の年末調整?」

「払いすぎてた努力が、人生の節目にがばっと報われるんだ。神様だって、いつかは気づくだろ。『やばい、引間さんから努力をもらいすぎてた』って」

「だったら、努力してた時に報いればいいだろ」

「そりゃ酷じゃん。毎日、人間たちから、膨大な数の『努力申告書』が送られてくるんだ。全部やろうったって無理だから、目についたやつからやるしかない。いくら残業しても終わらない。天国なのに地獄だろうなー」

巣立は眉を寄せ、天井を仰ぎ見た。

「天国の労働環境まで慮るなんて、巣立は心が広い」

「夜空なみに、広いだろー」

「ああ、夜空なみだよ」

自分のことで精一杯の私とは、大違いだ。

横のテーブルの学生たちに、生ビールのおかわりが運ばれてくる。彼らの方が後に注文したはずだが。

努力の年末調整

「求めりゃすぐにご褒美が与えられるわけじゃない。そのほろ苦さこそが人生の味わいよ」

巣立は空のジョッキを手に続ける。

「ただ、必死にがんばってきた分、すげえのを期待していいと思うぞ。遅れた期間の利子とかもバンバンつくだろうし」

「適当に言うな」

「先のことだから適当に言えるんだろー」

巣立は高校時代と変わらず、ニヤニヤと口もとをゆるめた。

ざらざらと心がささくれ立っていく。この歳になっても、人生に期待を抱く巣立を目の当たりにすると、引け目しか感じなかった。私はこぼれそうになった否定の言葉をビールで流し込み、「相変わらず、生きるのが楽しそうだな」と返す。

「そりゃ、死んだような顔で生きるのはもうごめんだよ」

「昔のことも適当に言うな。出会った時からニヤニヤしっぱなしなくせに」

巣立は大げさにかぶりを振って、「今のオレがいるのも、皆様のおかげですから」と見え透いたお世辞を口にした。

「じゃあお返しを期待しておこう」

私の冗談をまともに受け取ったのか、「引間がニヤニヤするためなら、なんだってするさ」と巣立は鼻息を荒くする。

「今更だ」私は首を振る。「情熱は一度冷めると戻らない。特にこの歳になるとな」

最近は、星を観たいとも思わなくなった。

「冷めたら、追い焚きがあるだろ」

食い下がる巣立に、「風呂水じゃないんだから」と苦笑が漏れる。

「年末調整が来世払いにならないように、私はせいぜい生き延びるとするよ」

「じゃあオレが先に死んだら、神様の事務手続きを手伝っておくわ」

巣立は卒業の日と同じように、責任感たっぷりに無責任な発言を放った。

「ごちそうさま」

煮物を食べ終え、箸を置き、ベランダに出た。空の青さに顔をしかめる。巣立も結局は、誰かを応援できず、後悔しながら死んだ。努力の年末調整は間に合わなかったのだ。

私は太陽光の陰に隠れてしまった星たちに対して、「せめて、来世では努力が報われますように」と願う。しかし、ウィスパーボイスの私の願いなど、天には届かないだろう。

「真っ昼間から、やってるな」

板垣の声が弾む。井の頭恩賜公園に併設された野球場では、少年たちが大声を出し、汗を流していた。希さんが、友人のコーチから仕入れた情報を申し送る。

「ミラクルホークスは、ボーイズリーグに所属するチームで、全国大会の常連みたいです。今どき珍しい、勝ちにこだわる厳しい指導で有名なんですって」

「野球で勝負にこだわらなかったら、何にこだわるんだよ。世も末だな」と板垣が嘆く。

フェンスに近づくと、乾いた金属音がグラウンドにこだました。ボールが大きな弧を描き、外野の奥に飛んでいく。バッターボックスの少年はすぐさまボールを要求し、また快音を響かせた。

「彼が4番バッターの腰塚健斗くんです。小学生なのに、甲子園の常連校にも目をつけられている、逸材です」

「僕らの学年の、弓削くんみたいな感じだね」

「都大会のホームラン王か。プロのスカウトが視察に来てたもんな」

野球部のスターは、今頃どうしているだろうか。

恒星と惑星

快音の余韻が残るバッターボックスに、次の選手が立った。小柄で華奢な男の子だった。真剣な表情とは裏腹に腰が引け、上半身と下半身の連動もぎこちなく、素人目にもセンスがないのがわかる。案の定、バットはボールにかすりもしない。

「榎木周くんですね。健斗くんと同じ6年生ですけど、唯一ベンチにも入ってないみたいです」

「エノキみたいに白くて細い、榎木周くんだ」

宮瀬がおどけた声で言うが、私は笑えなかった。彼の不器用さは、自分を見ているようだった。健斗くんというスターと、才能もなく自力では輝けない周くん。まさに恒星と惑星だ。

周くんが一礼をして、バッターボックスを離れる。結局、一球もバットに当てることができなかった。その後、他の選手が素振りをする中、グラウンドの隅を走り始めた。もう、バットすら与えてもらえないらしい。

「あんな彼だって、努力は報われると思うか?」

天国に問いかけた。しかし返ってきたのは、「きっと最後には努力が実って、奇跡の逆転打を放つのさ。くう、泣けちゃう」という宮瀬の妄言だった。

「映画じゃないんだから、ありえないだろうよ」

黙々と走りつづける周くんを目で追いながら、宮瀬の妄想を否定した。

「バットにボールが当たらないのに、逆転なんて無理に決まってる」

グラウンドの熱気にのぼせたかのように、空が赤く染まり始めた。巣立湯の営業がある希さんは一足先に帰ったが、練習はまだ続いていた。

「小学生だから、もう少しぬるくやってるのかと思ってたけどよ」しわがれた板垣の声に、いくらか張りが戻る。「こいつら熱いな」

「集合」と声がして、グラウンドの中央に選手が駆け寄る。ようやく練習が終わるのかと思ったら、監督が白線を引き始めた。20メートルほどの間隔を空けた2本のラインに、子供たちの顔が曇る。監督は右手をパーに開き、「50本」と短く告げた。片方の白線に沿って、選手全員が横一列に並ぶ。監督が手を叩くと、もう一方の白線めがけて一斉に走り出した。ラインに到達すると、すぐさま折り返し、スタート位置まで走って戻る。休む間もなく、また全速力で走り出す。

「練習の締めにダッシュ50本とは、えげつないね」

宮瀬の眉間に綺麗な縦皺が寄った。

「自分はゆったりブレイクタイムかよ」

監督はベンチに座り、ドリンクを片手にコーチと談笑していた。

「最後までちゃんと見てやれよな。指導者失格だぞ」

板垣のこめかみに血管が浮き出る。元教師としては許せないようだ。

疲れがピークに達しているのか、選手たちの顔は歪み、足取りも重い。監督が見ていないのが、救いにも思えた。

満身創痍のダッシュが続く中、一人が明らかに遅れていた。周くんだ。一本目からまわりについていけず、どんどん離されていく。

談笑を終えた監督が、ベンチから立ち上がった。ふらふらと走る周くんを見つけると、「榎木、手を抜くな」と一喝する。しかしペースは落ちる一方だ。監督は呆れたように冷たい視線を送る。私は心の中で、「限界までがんばったところで、どうせ追いつけない。ほどほどでやり過ごせ」と周くんにエールを送った。

他の選手からかなり遅れて、周くんは50本を走り終えた。最後の一往復は、歩いていると言った方がいいくらいだった。

青白い顔で倒れ込む周くんを、チームメイトがあざ笑う。

「アフレコするなら、『ちんたら走ってたくせに、苦しそうな顔するなよ』ってとこね」

宮瀬の声に彼らへの嫌悪感がにじむ。

「周くんは野球を諦めた方がいい。彼とチーム、お互いのためだ」

「本当にそう思ってる?」と宮瀬が顔を覗き込んでくる。

私は黙ってグラウンドを眺めつづけた。

「杖をついてちゃ無理だろうよ」

ようやく練習が終わり、少年たちが球場を後にする。私たちも帰ろうとしたが、グラウンドの隅に人影を見つけた。近づくと、周くんがスパイクの紐を結び直していた。

「何をしてるんですか」

思わず声をかける。彼の目に警戒の色が浮かんだ。近くで見ると、その顔はより幼く、頼りなさを感じた。

すると板垣が、周くんの前に一歩出て、「俺らは」と名乗りを上げた。

「全ホモ・サピエンスにエールを送る応援団。その名も──シャイニング!」

警戒が恐怖に塗り替わる。無理もない。シャイニングと名乗る、怪しい高齢者に囲まれたのだ。

「練習は終わったんじゃないの?」

宮瀬がフォローする。

周くんは戸惑いながらも、「少しだけ残ってやろうかと」と答えた。

「もう5時半だよ。ご両親が心配するでしょ」

「母さんはまだ仕事だし、父さんは一緒に暮らしてないんで」

周くんの顔に暗い影が落ちた。

「そっか……」

「もう練習やってもいいですか」

地面のバットを拾う彼からは、特別な気概は感じない。居残り自主練は、日課のようなものなのだろう。

「バッティング練習、俺らが付き合ってやろうか?」板垣が言った。

「いいんですか!」

予想外の即答が返ってくる。猫の手ならぬ、老人の手も借りたかったらしい。

「俺が投げてやる」

「杖をついてちゃ無理だろうよ」

私は板垣の代わりにボールを受け取る。

「僕、キャッチャー」

宮瀬が周くんのグラブを拾う。

「それ、キャッチャー用のミットじゃないんですけど、大丈夫ですか?」

「もう鋏は置いたからね。手を痛めたって大丈夫さ」

球審の位置に入った板垣が、「引間の球なんか、ミットもなくたってへっちゃらだっての」と顔の右半分だけを歪めて笑った。ピッチャー交代を根に持っているのか。高校時代に「歩くアルファルファ」と言われた怒りの根深さも、健在のようだ。

観客席からは見慣れていたマウンドだが、立つのは初めてだった。思ったより高さがある。バッターボックスの周くんが、さらに小さく見えた。とにかく真ん中に。それだけを意識してボールを放った。

勢いのないボールが、バットにかすることなく、グラブへ収まった。私でさえ、まったく打たれる気がしない。しかし周くんは、丁寧にグリップを確かめ、「次、お願いします」とバットを構える。

「なんで、そんなにがんばるんですか」

私は言葉を投げかけた。

周くんはバットを握ったまま身を固くする。

「努力したって、無駄になるだけでしょう」

昼間は大声が飛び交っていたグラウンドに沈黙が流れる。才能もなく、試合に出られる希望もない。身の程をわきまえない努力は、惨めさを生むだけだ。

彼は構えたバットをゆっくり下ろした。顔を上げ、私の目をまっすぐに見る。

「父さんと約束したんです。『笑われても、歩いてでも、走れ』って」

「なんですか、それは?」

「口癖です。父さんの」周くんの目に力が宿る。「速く走れるかは人によって違う。でも走るかどうかは自分次第。だから、笑われても、歩いてでも、走れ」

──走るかどうかは自分次第。

みぞおちが圧迫されるように、息が詰まる。

「くわー。痺れるぜ」板垣が唸る。「オヤジは教師に転職すべきだな」

「どうかな。今の仕事好きみたいだし」

周くんは自分が褒められたかのように、照れた様子で頭をかいた。

「父さんは、きっと今日も走ってるから。僕だけが約束を破るわけにはいかないんだ」

強く、芯の通った声だった。

もう一度、周くんがバットを構える。

私はボールを投げた。なおも走ろうとする彼を止める権利など、私にはない。

バットは勢いよく空を切る。

それでも彼は懸命にバットを振りつづけ、私は応えるようにボールを投げた。

「おまえが生きてる証拠だな」

「ありがとうございました。僕、トンボがけしてから帰るんで」

練習が終わり、周くんは用具倉庫に向かう。

「一人でグラウンド整備するんですか」

この広さだ、ずいぶん時間がかかるだろう。

「周、抜け駆けはよくないぞ」

板垣は周くんの後を追って用具倉庫に向かう。

「鋏は置いたけど、トンボはまだ置いてないよ」

宮瀬も軽やかなステップを踏み、板垣の後に続く。

途中、ダッシュで使っていた白線の横で、板垣が立ち止まった。

「周、ダッシュ、一番端っこでやってたよな」

「そうですけど」


「きつかったか?」

「死にそうでした」

「死にそうだったってことは、おまえが生きてる証拠だな」

「なにを当たり前のこと」

私が横槍を入れても、板垣は「まあな」と含み笑いを返すだけだった。

四人で一列になりトンボを引く。地面に刻まれたスパイクの跡が、綺麗に均されていく。流れた汗や努力はリセットされ、全てなかったことになる。

隣では、板垣が「下を向いて歩こう。涙がこぼれて何が悪い」とあの名曲への逆上ソングを口ずさんでいる。先ほどから妙に機嫌がいい。

トンボをかけ終わり、グラウンドを出た。本日の業務はすべて終了しましたと言わんばかりに、太陽が粛々と沈んでいく。

(7月20日配信の次回に続く)

(遠未 真幸 : 小説家)