「最低賃金1000円到達」で満足していてはいけないといいます(撮影:尾形文繁)

オックスフォード大学で日本学を専攻、ゴールドマン・サックスで日本経済の「伝説のアナリスト」として名をはせたデービッド・アトキンソン氏。

退職後も日本経済の研究を続け、日本を救う数々の提言を行ってきた彼の新刊『給料の上げ方――日本人みんなで豊かになる』が上梓された。

「いまの日本の給料は、日本人のまじめさや能力にふさわしい水準ではありません。そんな低水準の給料でもガマンして働いている、その『ガマン』によって、いまの日本経済のシステムは成り立っています。でも、そんなのは絶対におかしい」

そう語るアトキンソン氏に、日本人「みんな」の給料を上げるために必要なことを解説してもらう。

最低賃金引き上げは失業も倒産も増やさなかった

岸田首相は、政府と経済界、そして労働団体の代表者による「政労使」の会議の場で、最低賃金の全国加重平均を2022年の961円から、2023年は1000円へ上げる目標を明示し、協力を求めました。


この最低賃金1000円という目標は、もともとは安倍政権下の2015年11月24日に開かれた経済財政諮問会議で、安倍首相から提起されたものです。

当時の最低賃金の全国平均は798円だったのですが、毎年約3%ずつ引き上げ、将来的に1000円にするよう要請されました。

この要請に応えるかのように、コロナ禍に見舞われた2020年を除き、最低賃金は年々約3%ずつ上昇してきました。仮に、今年2023年に1000円になると、前年比の引き上げ幅は4.1%になります。

2023年に1000円になると、安倍政権以降、最低賃金は金額にして251円、1.34倍に上昇することになります。1990年と比べると、最低賃金は484円も上がって、1.9倍になります。


最低賃金の引き上げに関しては、以前から日本商工会議所を中心に「失業者が増える」「倒産が増える」などの懸念が示されてきました。しかし最低賃金が1.34倍に上昇したにもかかわらず、倒産件数は増えておらず、失業率は上昇するどころか逆に下がっています。

事実、2012年度に比べて、企業数は15万社、5.5%も増えています。また、生産年齢人口が減っているのにもかかわらず、雇用は57万人も増えて、労働参加率は最高水準を更新しています(法人企業統計)。

このような現象が起きているのは、最低賃金を適切に引き上げることで労働参加率が上昇し、失業率が逆に低下するというモノプソニー理論が示唆するとおりです(参考:日本人の「給料安すぎ問題」はこの理論で解ける)。日本においても、まさに理論どおりの結果が表れているのです。

最低賃金の引き上げに対する「失業者が増える」「倒産が増える」といった反対意見は、まったくデタラメだったのがハッキリしたわけです。日本商工会議所などの引き上げ反対派の人たちには、過去の発言とその後の統計データを検証し、最低賃金に関する考え方を真剣に見直して、今後の発言や見解に関しては、事実に反する感情的な主張や反対意見を控えていただきたいと考えています。

全国一律最低賃金への収束も進んでいる

日本では都道府県ごとに最低賃金が定められていますが、私は2019年から「全国一律の最低賃金に収束させるべきだ」と主張し続けています。また、同年の2月には自由民主党内で「最低賃金一元化推進議員連盟」が設立されました。

最低賃金を導入している国の中で、全国一律の最低賃金を採用しているのは83カ国にのぼります(Pew Research)。アメリカ、中国、インドなど、地域ごとに異なる最低賃金を採用している国もないわけではありませんが、それらの国は国土が広いという共通の特徴があります。日本は国土面積が決して大きいほうではないので、これらの国と同様に地域ごとに異なる最低賃金を設ける必要性は見当たりません。

2006年以降に広がった地方と都心の最低賃金の差は、2019年に最も高い東京と最も低い県との差が、過去最大の223円にまで広がりました。それが2022年には、219円まで縮小しています。また、いちばん高い東京の最低賃金に対するいちばん低い県の最低賃金の比率も、2014年以降、改善し続けています。


地方と都心の最低賃金の差が大きくなるほど、地方の人口減少が進むと分析されているので、人口バランスの観点からも、地方と都心の最低賃金の差は、さらに縮小させる必要があると考えています。

「50% - 60%ルール」という世界標準

さて、めでたく1000円の最低賃金が達成されたとしても、手放しで喜んではいられません。そもそも日本の最低賃金の水準は国際的に見て、異常とも言えるほど低かったので、それがようやく正常化しつつあるだけです。最低賃金1000円が達成された後についても、今からキチンと考えておく必要があります。

世界的には、最低賃金の設定は独立機関を設け、経済学者や統計学者を中心にビッグデータを活用し、企業の統計を徹底的に分析したうえで、商工会議所などの意見を聞くなど、多角的なエビデンスに基づいた提言が行われるのが一般的です。その提言を政府に提出し、最終的な決定を首相など国のリーダーが行います。

しかし、日本はいまだに中央最低賃金審議会で、厚生労働省のホームページに「最低賃金は、公益代表、労働者代表、使用者代表の各同数の委員で構成される最低賃金審議会において議論の上、都道府県労働局長が決定しています」とあるように、経営者と労働者がぶつかり合い、声の大きいほうの主張が通って決定されているという印象を受けます。明らかにエビデンスに欠ける古いやり方で、先進的な手法とはかけ離れています。

そもそも1000円という最低賃金の目標も、経済学的な根拠に基づくものではないので、これが達成されたからといって十分ではないのです。

最低賃金を決める際に世界的に使われている基準があります。それが「50%・60%ルール」です。このルールでは、最低賃金は所得の全国平均に対して50%、所得の中央値に対して60%という割合になるべきだとされています。

OECDが発表した2021年の38カ国のデータでは、最低賃金を導入している30カ国における最低賃金の中央値に対する単純平均は、2015年の48%から55%まで上昇しています。

この基準で見ると、日本は30カ国の中で22位に位置しています。


「50%・60%ルール」は、次第に世界の標準となりつつあります。

2022年9月、EU議会ではこのルールを明確に規定した法律が可決されました。

イギリスではブレア政権の後に誕生したキャメロン政権下の2015年に、最低賃金の大幅な引き上げが行われました。その際、2020年までに、中央値に対して60%の最低賃金を目指すと宣言し、2020年にその目標は達成されました。

このように、中央値に対する最低賃金の比率を5年先までに達成する目標として明示するのには、意味があります。中央値に対する比率を目標にすることで、5年先までの最低賃金の予測を立てられるようになるので、この目標をクリアするべく、経営者に対して経営戦略の練り直しを暗に促すことができるのです。

景気が好転し賃金が上昇すると、最低賃金の目標値も上がりますが、逆に景気が悪化すると目標値も下がりますので、労使のどちらかに負担が偏ることもありません。

岸田政権も1000円の最低賃金目標を達成した後には、「50%・60%ルール」の導入を真剣に検討するべきです。

ちなみに、そのルールに沿って計算をすると、日本の最低賃金の次の目標は「2030年までに1372円」となります。

国税庁のデータによると、日本の平均年収は443万円なので、平均労働時間を1607時間(OECD)で割って、50%をかけると、最低賃金は1378円となります。中央値は366万円ですから、1607時間で割り、60%をかけると、1367円となります。

その2つを平均すると、1372円となるのです。

残念ながら、日本の統計の整備はあまりにも遅れているので、計算に用いた数値は精査する必要がありますが、諸外国との比較してみても、大まかには合っていると感じます。

これを2030年までの目標とした場合、今後の最低賃金の引き上げ率は「毎年4.6%」となります。インフレ率を考慮し、毎年修正するべきであることは言うまでもありません。

最低賃金は「福祉」ではなく「経済政策」

最低賃金はしばしば福祉政策の一環と見なされがちで、商工会議所をはじめとする反対派の主張にも、その影響が色濃く見られます。

確かに、最低賃金が導入された大昔は、その役割が大きかったのかもしれません。しかし、時を経て最低賃金にまつわる状況も大きく変わってしまったので、役割も変更してしかるべきです。

最低賃金が導入されたとき、日本では人口が大きく増加していました。国の経済成長は人口の増加と賃金の上昇という、2つの要素から成り立っています。人口が大きく増加している時代なら、賃金を上げなくても、経済は成長できます。そんな時代では、最低賃金は福祉の面が相対的に強かったかと思います。

しかし、現在のような人口減少の時代では、賃金が上がらないと、経済は成長しません。賃金政策は経済政策の中核をなすべきで、福祉政策の一環にとどめるべきではないのです。

岸田政権にとって、政府が経済成長を促進し、国民の生活を向上させるためには、賃金政策が最も重要な役割を果たしています。しかも、日本では今後数十年にわたって人口が減少するので、賃金政策が日本に残された数少ない経済政策の中心とならざるを得ないのです。

一方、この期に及んでも、企業の経営者が賃上げに対して前向きな姿勢を見せているとは言えないのが現実です。

例えば、日本商工会議所が2023年3月28日に発表した「最低賃金および中小企業の賃金・雇用に関する調査」によると、2023年に4%以上の賃上げを実施する企業は、全体の18.7%にすぎません。また、3%以上の賃上げを行う企業も33.5%にとどまります。

驚くべきことに、46.8%の企業は2%台以下の賃上げしか行っておらず、従業員の実質的な可処分所得は大幅に減少しています。

今年の4月に上梓した書籍『給料の上げ方』でも説明しましたが、本当の昇給は定期昇給ではなく、ベースアップです。商工会議所によれば、今年の賃上げの76.1%が定期昇給であり、ベースアップを行う会社は40.8%にすぎません。

つまり、この物価高の中でも、本当に賃金を上げている企業は全体の40.8%にすぎないのです。最低賃金に対する経営者の考え方は冷淡なので、当然と言えば当然なのが極めて残念です。

政府は賃上げをうながしているのに、経営者は賛同していないという決定的なデータがあります。1990年以降、同一属性の大卒男子の初任給はほとんど上がっていないのに、最低賃金は大きく上がっているので、最低賃金は大卒男子の初任給に迫っています。経営者がいかにコスト削減ばかりやっているかがわかります。


2023年の最低賃金の引き上げに関しても、33.7%の経営者は最低賃金を「引き下げるべき」または「現状維持するべき」と答えています。一方で、「引き上げるべき」と答えた経営者は全体の42.4%を占めていますが、そのうち1%から3%までの引き上げを支持する経営者が18.5%で、3%以上の引き上げに賛同する経営者はわずか12.3%です。

このデータからも、企業の経営者は相も変わらず、付加価値の向上や賃金の引き上げに消極的な姿勢を示していることがわかります。

最低賃金で働く人が多い業種はどこ?

2016年に最低賃金の引き上げにより影響を受けた企業は、全体の15.8%でしたが、2023年には38.8%まで増加しています。

ここで言う「影響を受けた企業」とは、最低賃金が上がったために賃金を引き上げた企業を指しています。つまり、自発的に賃上げを行ったのではなく、国が最低賃金を引き上げたために、賃上げを強制された企業のことです。

日本の企業経営者は一般的に賃上げにはまったく消極的なので、最低賃金を上げるなどの強制力を行使しないと、平気で何十年も賃金を上げようとしません。日本でその傾向が極めて顕著なのは、『給料の上げ方』でも詳しく説明したとおりです。

最低賃金の引き上げは、格差社会の是正にもつながるので、日本の社会にとってもプラスに働くにもかかわらず、経営者が後ろ向きなのは、日本にとってとても不幸なことです。

最低賃金の引き上げにより、最も影響を受けた業種は宿泊・飲食業と小売業です。宿泊・飲食業では60.3%、小売業では52.1%の企業が、最低賃金の引き上げの影響を受けました。

ここで、業種ごとの生産性に目を向けてみましょう。宿泊・飲食業の生産性が194万円と最も低く、全産業の546万円の平均に対して、35.5%しかありません。従業員数は4番目に多いので、宿泊・飲食業が最も日本全体の生産性を低下させている業種だと言えます(図表の「寄与度」とは、各業種がどれだけ生産性の平均値を上げている/下げているかを示しています)。


これらの業種の生産性が低いため、この業種で働く人が増えるほど、その影響は大きくなります。日本では製造業が生産性を最も引き上げているのですが、その引き上げ分が宿泊・飲食業の低い生産性のおかげで、ほぼ完全に相殺されてしまっていると言えます。

宿泊・飲食業や小売業では非正規雇用者が多く、最低賃金で雇用されている人の割合も最も大きいので、最低賃金の引き上げによって、当然ながら最も大きな影響を受けたのです。

宿泊・飲食、小売業、サービス業は最低賃金依存型業種

最低賃金とは、人を雇用する以上、必ず保証しなくてはいけない、本当の意味での賃金の最低水準を意味しています。

法律で決まった賃金の最低水準ということは、この賃金を払えない企業は人を雇ってはならないということですから、国が定めた企業の生産性の最低レベルを示しているとも言えます。実際、最低賃金を引き上げると付加価値が増えるという分析もされています。

ある意味では、宿泊・飲食、サービス業、小売業は、最低賃金依存型の業界です。宿泊・飲食業や小売業は賃金が低いため、生産性が低いビジネスモデルが成り立ってしまっているのです。

業界内では、付加価値を高めるのではなく、賃金を抑えて価格を引き下げることで競争が行われ、ダンピングが生じやすくなっています。

また、付加価値が低いので大きな儲けを生み出せず、結果として設備投資をする余力は生まれません。しかし、賃金を低く抑え込んでいても、これまでは働いてくれる人が確保できていたので、経営者は設備投資を行う緊急性を感じられなくなっているのです。

つまり、賃金が安いために価格が低くなり、価格が低いため賃金が安いという、絵に描いたような悪循環が生じてしまっているのです。生産性が低いから賃金は上げられない、賃金を上げないから生産性を上げる必要もない、出口の見えない悪循環です。

こんなことを続けていると、企業も労働者も疲弊し、いずれは立ち行かなくなるのは火を見るより明らかです。

この悪循環を抜け出すためには、最低賃金を適切に引き上げて負の循環を修正し、付加価値を向上させる必要があります。

もちろん、こうした提案に対しては、ビジネスモデルの改善や投資を嫌がる一部の経営者からは「淘汰政策だ!」「失業者が激増するぞ!」と感情的な反対の声があがります。

しかし、すでに述べたとおり、最低賃金の引き上げは、企業の淘汰を意図して行うものではありませんし、もちろん失業者を増やすことを狙っているわけではありません。最低賃金を適切かつ継続的に上げていくことの効用は、各企業が投資を行い、付加価値を向上させるように促すことにあります。

「淘汰だ」「失業者増加だ」と脅迫めいた反対の声を上げるのであれば、安倍政権以降に最低賃金が1.3倍にも引き上げられているにもかかわらず、なぜ淘汰や失業者の増加が確認できないのか、納得のいく説明をしてほしいと思います。

事実、すでに説明したとおり、第2次安倍政権以降、最低賃金は大幅に上昇し、宿泊・飲食業や小売業の経営者はさまざまな対応をしてきましたので、それが日本の雇用に悪影響を与えたという事実はありません。

「宿泊・飲食業や小売業の受ける影響が大きいから、最低賃金の引き上げを避けてほしい」という経営者たちの身勝手な主張に耳を傾けていては、日本の賃金はいつまで経っても上がりません。

このことは、統計を見れば誰の目にも明らかになるので、根拠なき反論を口にする前にぜひ確認してほしいものです。

賃金はイノベーションによってのみ上がる

今後の日本では、一層高齢化が進み、年金や医療費の負担が増える一方、納税者の数が減少するので、増税が必要になるのは避けようがありません。

すでに相当重くなっている現役世代の負担は、限界を迎えています。事態打開の策は、もはや賃金の引き上げ以外にはあり得ません。

賃金の引き上げには、経営者がこれまでのビジネスモデルを見直し、新たな戦略を展開して、付加価値を増やす必要があります。イノベーションが不可欠なのです。

イノベーションなしに賃金の上昇はあり得ません。人口減少が進む日本の経済はイノベーションによってのみ成長することができます。

政府の担うべき役割は、民間企業にイノベーションを促すことなので、ぜひ真剣に取り組んでほしいと思います。特に、生産性の最も低い宿泊・飲食業、サービス業、小売業のイノベーションは死活問題です。

最低賃金のさらなる継続的な引き上げが必要なのは、言うまでもありません。すでに述べたように1000円という経済的な根拠に欠けた目標に代わって、「50%・60%ルール」の導入が将来にわたる適切な最低賃金の引き上げに大いに役に立つでしょう。

「50%・60%ルール」であれば、経営者に対して将来の最低賃金の明確な推移を示すことが可能になるため、経営者も賃金の引き上げに向けた具体的な計画を立てやすくなることでしょう。

最低賃金を引き上げつつ、イノベーションを促進して、経済を成長させる。これこそ、岸田政権に求められている「新しい資本主義」です。

(デービッド・アトキンソン : 小西美術工藝社社長)