大昔の人類の社会では、どのような人物が高い地位を得ていたのでしょうか(写真:mits/PIXTA)

私たち人類が過酷な環境を生き延び、さまざまな問題を解決し、世界中で繁栄することができたのは、「協力」という能力のおかげだ。

だが、人間のみならず、多くの生物が協力し合って生きている。そもそも多細胞生物は、個々の細胞が協力し合うことから誕生したものであり、生命の歴史は協力の歴史ともいえるのだ。

一方で、協力には詐欺や汚職、身内びいきなどの負の側面もある。それでは、私たちはどうすればより良い形で協力し合うことができるのだろうか?

今回、日本語版が6月に刊行された『「協力」の生命全史』より、一部抜粋、編集のうえ、お届けする。

人間社会の形は千差万別

現代の私たちから見ると、人間社会の特徴を見つけようとする行為は無駄な努力に思えるかもしれない。ヒトの社会は数十人しかいない遊牧民の集団から、人口10億人を超える国家までさまざまで、いくつもの可能性がある。


なかには正式なリーダーのいない社会もあれば、首長や独裁者に支配されている社会、あるいは民主的に選挙で選ばれた政府に統治される社会もある。

自然界を見ると、社会構造は普遍的であることがふつうだ。たとえば、私が研究したシロクロヤブチメドリの集団はすべて南アフリカのノーザンケープ州にすんでいたが、ボツワナやナミビア、さらにはジンバブエに行っても、シロクロヤブチメドリは似たような規模の集団で似たような暮らしを送り、同様の序列関係をもっている。

ヒトの社会の多様性は自然界では珍しいものの、こうした状態になったのはおそらく5000年前であり、その頃に最初の複雑な社会が現れ始めた。
とはいえ、それ以前のヒトの集団がすべて同じだったというわけではない。

最初期のヒトが暮らしていた集団でさえ、現代の平均的なミーアキャットやチメドリ、チンパンジーの集団どうしの違いよりも大きな違いがあっただろう。

とはいえ、最初期のヒトの社会にもかなり重要な共通の特徴があったと考えられている。地球上に出現してからほとんどのあいだ、ヒトは人口密度の低い社会で暮らし、決まった住居をもたず、狩猟や採集が可能な食物に頼って生きていて、食料の栽培や飼育、購入はしていなかった。

ヒトの社会はほかの類人猿の社会といくつか重要な点で異なっていた。その多くはすでに取り上げたもので、ヒトは類人猿より協力的であり、集団の境界を柔軟に変えることができ、家族をもっていた。

ヒトの社会は平等主義だった

しかし、それだけではない。最初期のヒトの社会はもう一つ重要な点で、チンパンジーやゴリラ、ボノボの社会と異なっていた。それは平等主義だったということだ。

ヒトの社会を平等主義に分類するのは少し意外に思えるかもしれない。特に、平等というものをお金と所有物に限った話だと考えた場合はそうだろう。しかし、お金やそれが生み出す富は比較的最近の発明であり、最初期のヒトは自分が自由に使える住居をもっておらず、所有物もたいして多くなかった。

社会の平等性を測るうえでより適切な進化上の指標は繁殖成功率だ。この尺度を用いれば、地球上に出現してからほとんどのあいだ、ヒトの社会は比較的公平だった。大部分の人がもうけられる子の数は似通っていたのだ。これと比べ、序列のある大型類人猿の社会では、アルファ雄が集団内の下位の個体を排除してリソースの使い道を決め、雌を独占することができる。ゴリラなどの種では、繁殖できるのは最上位の個体に限られ、アルファ雄が集団内のほぼすべての子の父親となる。

チンパンジーの場合は、下位の雄も繁殖できるのだが、その成功率はアルファ雄よりはるかに低い。アルファ雄は集団内の子の3分の1をもうけられると予想でき、子の数は直近の競争相手の2倍を上回る。

最初期のヒトの集団における繁殖の平等性に関するデータはないものの、現代の狩猟採集社会から得られたデータを用いて、情報にもとづく推定はできる。狩猟採集社会における男性の地位と繁殖成功率の関係を調べた大規模な研究によると、地位が重要であることは確かだが、序列のある類人猿の社会ほど地位の重要性は高くないという。

繁殖の機会は、ヒトの男性のほうが、現存する近縁のどの類人猿よりもはるかに平等に与えられる傾向にある。

名声や尊敬が地位を高める

チンパンジーのアルファ雄は地位を乱用して自分のほしいものを手に入れ、ライバルを力ずくで脅したりいじめたりする。

しかし、最初期のヒトの集団(および現代の多くの狩猟採集社会)では、トップをめざすという大型類人猿の典型的な行動は実質的に封印された。

多くの狩猟採集社会では、威張った行動をとっても権力や栄光を手にすることはなく、たいていは嘲笑と追放の憂き目に遭うのがオチだ。

集団生活では個人の自主性が何よりも重んじられ、他者を傷つけたりいじめたりしない限り、人々はだいたい自分の好きなことができる。

ジュホアンシ族のある男性は、彼らに首長がいない理由を人類学者に聞かれたとき、こう答えた。「もちろん首長はいるさ。一人一人が自分の首長なんだ」

平等主義の社会では、権力や脅しを使うのではなく、名声や尊敬を集めることによって地位を高めていく。地位は権力を行使した結果ではなく、人々を納得させた結果だ。地位の高い人物はたいてい尊敬され、気前がよく、集団の利益を最大にするように行動する。

良好な地位を維持するためには、その地位を気にかけていないように見せ、威張ったり威圧的に振る舞ったりしていると非難されるような行動を避けなければならない。この暗黙のルールに従わない者は、集団の仲間の怒りを買うおそれがある。

ジュホアンシ族のあいだでは、うぬぼれの度が過ぎる者やいばり散らす者は「お偉いさん」と呼ばれることがある。これは小ばかにした非難の言葉で、態度を変えなければ、さらなる制裁が待ち受けているとの意味を含んでいる。

人類学者による数々の報告には、権力を乱用する男性、あるいは集団内の女性やリソースを独占しようとした男性は仲間はずれにされるか、集団から排除されるおそれがあるだけでなく、殺されることさえある。

尊大な人物は集団から排除される

次に引用する一節には、カリナ(南米ガイアナの部族社会)が弱い者いじめをする人物や偉ぶった人物にどのように対処しているかが描写されている。

こうした手法は工業化されていない社会によく見られ、おそらく初期のヒトの集団でより広く見られた特徴だろう。

集落の男性たちは彼と話をする。しかし、彼が自分の立場を改善する努力を何もしていないように見えたら、集落を去るように忠告され、さもなければきわめて不快な生活を送ることになると言われる。

それでも集落にとどまっていたら、彼とその家族は社会からのけ者にされる。飲み会にも誘われず、何も借りることができないようになり、狩りや魚捕り、作物の刈り取り、カヌー造りなどの活動を誰も助けてくれなくなる。

ほかの男性たちはこうした活動で助け合っているにもかかわらずだ。彼の妻も仕事で支援を受けられず、彼の家族は水くみや水浴びをする場所にも入れない。

つまり、彼は集団生活のあらゆる利点を失ってしまうということだ。この仕打ちに気づかず、さらに関係が悪化すると、ほかの男性たちに叩かれたり、最悪の場合は殺されたりするおそれもある。

ここで重要なのは、最初期のヒトと現代の狩猟採集民の社会で威圧的な支配がない理由は、序列を避ける性質がもともとヒトに備わっていたからではないことだ。

交尾相手や食料、その他のリソースをめぐって他者と争う衝動は、すべての大型類人猿をはじめ、ほとんどの動物の脳に備わっている一般的な特徴である。ヒトも例外ではない。

このように考えるのではなく、ヒトの社会における権力分散を大規模な綱引きとして考えるのが最も理にかなっているというのが私の見解だ。

綱の一端には個人が他者を支配したいという衝動がある(これは大なり小なりすべての人に存在する)。才能や技能、能力、あるいは幸運な状況を利用して、ほかの人々より少しだけ高い地位を手に入れたいという衝動だ。

綱の反対側で引っ張るのは、要約すれば他者の集団的利益の力である。綱引きの例にもれず、たいていはどちらか一方の側が優勢になる。

一部の社会や、歴史上の一時期には、「集団的利益」チームが優勢のように見えることもあるだろうが、時期によっては「個人の利益」チームのほうが強く引いているように見えることもある。そのとき、エリート(専制君主、皇帝、独裁者)の小さな派閥が、はるかに大きな集団を征服し、厳しく支配するのだ。

ヒトの社会の2つの重要な原理

この綱引きのたとえは、2つの重要な原理を示している。

1つ目は、ヒトはもともと権力の追求や保持に反対しているわけではない点。実際、ほとんどの人は地位や富を気にするし、なかには社会を支配することによって得られる機会から大きな恩恵を受ける人もいる。

そして2つ目の原則は、社会における権力の不在は欠落ではなく、機会を逸した結果でもないし、誰も得ようとしなかったからそうなったわけでもない点だ。

権力の空白は、絶えず緊張状態が続いた結果であり、多数の人が少数の人に対抗しようとする努力を通じて能動的に維持されるものである。

(翻訳:藤原多伽夫)

(ニコラ・ライハニ : 進化生物学者)