58歳で特命部長の彼が失意の中で回顧した青春
気力も体力もとっくに限界を超えていたが、どこかでこう思ったのだ。この困難を乗り越えれば、今更かもしれないが、自ら輝ける恒星になれるのではないか、と――(写真:favor-reef/PIXTA)
定年退職後、所属なし、希望もなし。主人公は全員70歳。かつて応援団員だった3人が、友人の通夜で集まった。そこに、「応援団を再結成してくれ」と遺書が届くが、誰を応援してほしいのかがわからない……!?
熱くて尊い、泣ける老春小説『おかげで、死ぬのが楽しみになった』の第1話「シャイニングスター 引間広志の世間は狭い」の試し読み第5回(全8回)をお届けします。
「笑えない真実です」
市長室を後にし、私は頭を抱えた。矢面に立つのは苦手な性分だ。匿名部長ならまだしも、特命部長だなんて。
自席に戻ると、部下の村下が「顔、真っ青っすよ。横領がバレたんすか」と軽口を叩く。
「違うわ。なんで横領している前提なんだ。ただ、絶体絶命のピンチなのは認める」
「その割に、口もとはニヤけてますけどね」
咄嗟に顔を触る。私は唇を結び直し、半笑いの村下に告げた。「こっちは猫の手も借りたいくらいなんだ。とことん手伝ってもらうぞ」
「犬顔の俺で良ければ、よろこんで」
村下は小さく敬礼をしてデスクに戻った。30代半ばの彼とは、親と子ほど歳が離れているが、馬が合った。色白の犬顔同士で馬が合うというのは、妙な感じもするが。
村下は誰のことも役職ではなく、「さん」付けで呼ぶ。市長ですら「吉峰さん」だ。敬意が足りない、と注意する職員もいるが、私は好感を持っていた。彼は役職ではなく、一人の人間として接してくれる。以前、「引間さんの敬語は、敬意じゃなくて敬遠っすよ」と忠告されて以来、役所内で敬語を使わずに話す、唯一の相手でもある。
それからというもの、特命部長として奔走し、迷走を重ね、逃走したくなるくらい、忙しなく走り回った。予算規模も宇宙のように桁違いに大きく、調整すべきことは星の数ほどあった。毎日残業し、各所に協力を求め、下げられる頭はすべて下げた。プラネタリウムのことを考えすぎて、ベッドで目を閉じても目の前がチカチカして眠れない、「眼球プラネタリウム」も味わった。
私の貧弱な胃腸は、このプレッシャーに耐えられるわけもなく、食事は喉を通らず、そのくせ吐き気は止まらなかった。村下には「プラネタリウムダイエットっていう本を出版しましょうよ」と笑われた。そう言う彼も、目の下にブラックホールみたいなクマが貼りついていた。通常業務もあるため、村下との作業はどうしても夜にずれ込む。子供が生まれたばかりと言っていたのに、家族と過ごす時間も取れていないはずだ。
「申し訳ない、今日も遅くなってしまって」
消灯した市民課に二人で残り、卓上ライトをつけ、資料のホチキス留めをする。明日は駅前ビルのオーナーへのプレゼンだ。
「いいっすよ。なんなら今、夫婦仲が微妙なんで、好都合です」
村下が束ねた資料の角を揃えながら言った。
「私のせいじゃないのか? 毎晩残業ばかりさせて」
「自意識過剰ですって」村下がへらへらと笑う。「俺の人生に、そこまで引間さんの影響力ないですから」
「人の心配を仇で返すな」
「いや、妻が怒ってるのは完全に俺のせいなんすよ。いっそ引間さんのせいにできたらなあ」
「やめてくれよ」
「子供が生まれたら、変われそうな気がしたんですけどね」
村下が指に力を込める。ホチキスのパチンッという乾いた音がフロアに響いた。
「なんの努力もせず、子供に変えてもらおうとしている時点で、父親失格です」
どう返していいかわからず、曖昧に相槌を打つ。
「努力しない選手に、勝利の女神はほほえまないっすから。自分の力で変わろうとしない夫に、妻はほほえまないです」
「それじゃあ、たいていの奥さんはほほえまなくなるな」
「笑えない真実です」
村下は数え終えた資料の束を、私のデスクに置いた。「明日からまた、お願い行脚っすね」
「頭を下げるのには、慣れてるんだ」
「さすが、粘りの引間。納豆、おくら、引間。『世界三大粘り』っすね」
「帰るぞ」
村下の軽口に被せるように、卓上ライトのスイッチを消した。
外に出ると、心地よい夜風が頬を撫でた。
村下が空を見上げる。
「俺、引間さんに結構感謝してるんですよ」
「なんだ急に」
「このプロジェクトをやり遂げたら、今度こそ変われる気がするんですよね」
村下は夜空を見上げたまま、少しだけ口もとをゆるめた。
「息子がプラネタリムを観て、『これパパが作ったの?』って目を輝かせる光景が浮かぶんすよ。一生に一度くらい、我が子に誇れる仕事をしたいじゃないですか」
「そうだな」
私も夜空を見上げる。プラネタリウムを観た子供たちの目が、まるで満天の星のように輝いている。そんな幸せな場面が広がっていた。彼ら彼女らの瞳の輝きこそが、この社会の希望となる。個人的な妄想から始まったプロジェクトが、未来に繋がった気がした。
「あっ、流れ星」
村下が声を上げる。
指された方角へ顔を向けるも、すでに流れ星は消えていた。
「うわー、願いごとするの忘れたー」
頭を抱える村下に、巣立の姿が重なった。
「高校時代の親友も、そのおまじないを本気で信じてたよ。練習帰りに陸橋の上で空を眺めていたら、ちょうど星が流れてな」
「その人、何を願ったんすか」
「流れ星が見たい」
「マジすか」
巣立の迷言に、村下は目を丸くした。
「本人曰く、流れ星を見たいあまり、肝心の願いごとを考えるのを忘れてたらしい」
「最高っすね」
村下の見開いた目が、三日月みたいになった。
「最高の仲間だよ」
村下と別れ、駅に向かうバスに乗り込む。バスの揺れに合わせ、疲れが全身に覆い被さる。気力も体力も、とっくに限界を超えていた。それでもこの任務から降りなかったのは、もちろん降りられる立場ではないことが大きいのだけれど、どこかでこう思ったのだ。定年まで2年、最後に1つくらいは成し遂げてみたい。この困難を乗り越えれば、今更かもしれないが、自ら輝ける恒星になれるのではないか、と。
「こっちには会社を儲けさす義務があるんですよ」
社長室と記されたドアを開けると、革張りの椅子に男が座っていた。歳は40代半ばくらい。皺一つないグレーのスーツを着て、銀縁眼鏡の奥の瞳には、神経質さをにじませている。
「あなたが役所の担当者?」
彼は、値踏みするように一瞥した。答えようとした私を手で制し、続ける。
「通知のとおり、屋上の賃貸契約の話は白紙ということで」
「そこをなんとか」
なぜこんなことに。私は混乱したまま、頭を下げた。
計画は順調だった。しかし土壇場になり、資材高騰のため工事費用が概算より大幅に上回る、という一方的な通達が業者から届いた。1年がかりの予算調整は水の泡となった。そのため、各所との再調整に手こずり、工事の開始が大幅に延期された。
誤算は、延期している間に、駅前ビルのオーナーが亡くなったことだ。しかも先代に代わり社長に就任した息子が、「倍の賃料が払えないなら、屋上は他に貸し出す」という到底無理な条件を突きつけてきた。
「プロジェクトは、屋上であることにも意味があるんです。先代も、『このビルが皆さんを笑顔にできるなら』と快諾してくださいました。その約束を果たす義務が、私にはあります」
もう一度、頭を下げた。
「こっちには会社を儲けさす義務があるんですよ」
苛立った声が室内に反響する。
「ですが、空いていた屋上を有効利用するというのは、私共のアイディアなのでは」
「誰のアイディアかなんて、どうでもいいでしょう」
社長はバツが悪そうに口の端を歪めた後、「公園にプラネタリウム? そんな子供騙しのために、大事な屋上を貸そうとするなんて。親父も呆けちまったんだろな」と吐き捨てた。
「そんな言い方……」
「だいたい、夜空なんか価値ないでしょ。星が代わりに金を稼いでくれるんですか?」
彼は鼻で笑い、プロジェクトの資料をゴミ箱に放り込んだ。
「ほんと役所がやることなんてろくなものがない。あんたらの思い出作りに付き合うほど、こっちは暇じゃないんだ」
「そこをなんとか」
私は膝を折り、額を絨毯につけ、土下座の姿勢をとった。
「私からもお願いします」
声がして後ろを見上げる。村下がいた。
「なんでここに……」
「犬顔の手でも借りたいかなと思って」
私に倣い、地面に膝をつき、絨毯に額を食い込ませる。慕ってくれる部下にまで頭を下げさせてしまうことに、どうしようもなく胸が痛んだ。
「迷惑なんですよ。そういうの」
頭上から舌打ちが降ってくる。
「役所の仕事ってのは、頭を下げればなんでも通るんですか? 上司が上司なら、部下も部下だ。こんな話、進めなくてよかった。さあ、帰ってください」
どのくらいそうしていただろうか。「もう行きましょう」と村下の声がしても、私は顔を上げられなかった。
眼前にある絨毯の灰色が、のっぺりと世界を覆っていた。
ビルを出たところで、村下が立ち止まった。
「今度こそ、変われると思ったんですけどね」
明るさを装った声が、かすかに震えている。
映画の主人公だったら、悔しさに奮起して、奇跡のひとつでも起こすのだろう。しかし私は、「ああ」となんの足しにもならない反応しか返せなかった。
屋上ありきで進めていたプロジェクトは、凍結され、なかったこととなった。
限界まで努力をした。奇跡が起きる予感もあった。しかし努力は報われず、すり減らした精神の代わりに得たのは、眼科の診療券だけ。眼球プラネタリウムは、白内障の前兆だった。結局、私は恒星にはなれず、いつもの自分のままだった。
「こっちが力をもらってたのかもな」
「じゃあなんで、高校時代はがんばれたんですか?」
希さんの声に、意識を団室に戻す。たれた金髪の間から、すがるような視線が向いている。その瞳に、「若かったから」とありきたりに答えてはいけない気がして、口をつぐんだ。
「高校時代は全部のがんばりが報われた気がしてたけどさ、よく考えたら、裏切られた努力だってあったはずなのにね」
宮瀬が顎をさすりながら視線を宙に彷徨わせる。
「あの頃は」板垣が薄く目を開いた。「へばりそうになると、選手たちの顔が浮かんだんだ。泥まみれになって必死に練習する、あいつらの顔が」
窓から一筋の風が流れ込み、沈んでいた空気が動き出す。
「そうだね」宮瀬の同意が力強く場を満たした。「ボールが見えなくなるまでノックを受けて、手のマメから血を流しながら素振りするのを間近で見てたもん。応援団が先に音を上げるわけにはいかないよ」
彼らの存在が、私たちが声を出しつづける理由だった。
「選手を後押ししてるつもりだったけど、こっちが力をもらってたのかもな」
板垣のつぶやきに、長年解けなかった方程式の解が降りてきたかのように、はっとした。応援は、する側からされる側への、一方通行の行為ではない。
私たちは支えることで、すでに受け取っていたのだ。
「だったら、ミラクルホークスのがんばりも見に行きましょうよ」
希さんの提案に、宮瀬と板垣の目に輝きが戻る。
「明日、土曜でしょ。さっそく練習を見に行こうよ」
「宮瀬、さすがに急じゃないか」
「いいじゃねえか。善は急げ。いや、後先短い老人は、全部急げだ」
板垣が右の口角だけを上げる。
「上手いだろ? じゃないわ。ただ、『老いるほど何事も早めにやるべし』という主張には、同意する」
「おっ、調子が上がってきたな。ブルー」
「ブルーって言うな。かっとして、血圧が上がってしまう」
板垣は「血圧でも高みを目指すとは、いい心がけよのう」とご機嫌に杖を鳴らし、宮瀬と浴場へ行ってしまった。
一人になった私は、希さんに向き直り、頭を下げる。
「色々振り回してしまってすみません」
「そんな。急に謝らないでくださいよ」希さんがブンブンと右手を振る。
「なんか引間さんって、みんなにツッコミまくってる時と、一人の時の印象が変わりますよね」
一瞬、言葉に詰まる。団の仲間といると、売り言葉に買い言葉で、別人のように熱くなってしまう。
「小心者のブルー。こっちが本当の私です」
「いいじゃないですか。わたし、ブルー、好きですよ」
希さんは声を弾ませた。
「私にまで、気を遣わなくていいですよ」
「違いますって。水、空、それに熱い炎まで表現できる。そんな色、他にはないですから」
彼女の必死のフォローに対して、「気持ちもですね」と言いかけて、やめた。
椅子から立ち上がる。
明日か――。正直、少年野球の練習を見たぐらいで、あの頃の熱い気持ちに戻るのは難しいだろう。
「心のピントが鈍ってるのよ」
家に帰ると、妻の和代が「あら、早かったじゃない。お昼は食べる? 昨日の残り物の煮物の余り物だけど」と訊いてきた。
「物々しい料理が出てきそうだな」私は苦笑する。「ありがたくいただくよ。一晩寝かせた煮物は、味が染みてて好きなんだ」
食器をテーブルに運び、椅子に座った。リビングの壁にかけたカレンダーに目を向ける。遠目でも、予定欄が真っ白なのはわかった。定年退職して以来、余白が主役みたいな毎日だ。
テレビで昼の情報番組が始まった。画面にたくさんの顔が並んでいる。今をときめくアイドルや芸人なのだろう。
「最近の若者は、皆、同じ顔に見えるな」
「それ、精神的老眼じゃない?」と和代が笑う。「心のピントが鈍ってるのよ。若い子だってよく見たら、全員違う顔してるのに」
「ああ」
同意とも反対ともつかない相槌がこぼれる。和代は近頃、娘たちより一回りも若いアイドルグループにぞっこんだ。
「最近の若者は、なんて言ったら、最近の老人は、って括り返されちゃうわよ」
「ああ」
今度は完全なる同意だった。
画面がニュースに切り替わった。アナウンサーが溌剌とした表情で速報を読み上げる。肘の手術から2年ぶりに復帰した日本人投手が、海の向こうで勝ち星を挙げたらしい。「勝ち星」という響きに、こめかみの奥で記憶が立ち上がる。
市役所を定年退職した数日後、巣立と最後に会った時のことだ。
(7月19日配信の次回に続く)
(遠未 真幸 : 小説家)