70歳3人組が応援団を再結成して痛感した現実
「ガンバレって言うおまえがガンバレよ」70歳の応援団が応援するものとは――(写真:タッチ/PIXTA)
定年退職後、所属なし、希望もなし。主人公は全員70歳。かつて応援団員だった3人が、友人の通夜で集まった。そこに、「応援団を再結成してくれ」と遺書が届くが、誰を応援してほしいのかがわからない……!?
熱くて尊い、泣ける老春小説『おかげで、死ぬのが楽しみになった』の第1話「シャイニングスター 引間広志の世間は狭い」の試し読み第4回(全8回)をお届けします。
「いざ決まると、不安しかない」
7月に開催される6年生最後の大会で応援する約束を取りつけ、巣立湯を出ると、すっかり日が暮れていた。
「俺はバスだから」
板垣が右手を振り、「また、明日な」と念を押すように言った。明日が来るのが当然ではないことを、この歳になると思い知る。
宮瀬と並び三鷹駅へ歩く。途中、洋菓子屋の横を通りかかった。懐かしい匂いが鼻腔をくすぐる。
「ここのシュークリーム好きだったよな。買ってくか?」
「僕、もうシュークリームは食べないからさ」
糖尿気味だと言っていたから、禁止されているのだろうか。
「そんなことより、少年野球の応援、楽しみだね」
「いざ決まると、不安しかない」
身を縮め、夜空を見上げた。
「引間って、昔から星が好きだよね。練習帰りに巣立と観に行ってたじゃん」
「そうだったな」
巣立が流れ星を見たがり、私のお気に入りの場所に連れて行ったこともある。
「夜空を見ていると安心するんだ」
太陽が圧倒的な存在感を放つ昼間に比べ、控えめに瞬く光たちが私は好きだった。
「じゃあ、今から天体観測しようよ」
「データを残すわけじゃないから、天体観望だな」
「引間は真面目だねえ」
「悪かったな。生まれてこのかたずっと真面目で」
「えっ、真面目は長所でしょ」
宮瀬の瞳がこちらに向き、言葉に詰まる。「真面目」を否定の言葉だと感じるようになったのはいつからだろう。
「ぼやっとしてないで、観望スポットにレッツゴー」
「それなら」と駅前のロータリーを左に曲がる。線路沿いを進むと陸橋が見えてきた。線路をまたぐように南北を繋いでいる。三十段近くもある階段を、息を切らし上った。
「わお、いい眺め」
宮瀬がフェンスを掴み、のけぞるようにして夜空を見上げた。
「好きな星とかあるの?」
私は迷いながらも、「しいて言うなら、木星」と返事をした。
「なんでまた?」
いつもなら、望遠鏡を覗いて初めて見つけた星だから、と答える。ただなぜか本音が口をついて出た。
「私に似てるから」
「へえ」
宮瀬は訝しがるどころか、目を輝かせた。私は、「天文学者の間で、木星がなんと言われているか知ってるか?」ともったいぶったように間を取る。
「太陽になり損ねた星」
「なり損ねた?」
「木星は太陽とほぼ同じ物質でできてるんだ。もっと大きければ、太陽のような恒星になっていたという説もある」
「それのどこが、引間なのさ」
「宮瀬と板垣と巣立は太陽と同類。自ら輝ける恒星だ」
華麗なルックスと身のこなしで観客席を魅了する宮瀬、まっすぐな背筋と言葉で選手を鼓舞する板垣、数々の迷言で皆を笑顔に変える巣立。なんの取り柄もない私とは対照的に、光り輝く才能を持っていた。
「皆と同じ練習をして、同じ風呂に入り、同じ時間を過ごせば、自分も輝けるんじゃないかと思ってた。実際、応援団での3年間は最高に輝いていたと思う」
宮瀬は頷き、小さく笑みを浮かべた。
「でも卒業して気づいた。あれは、私が輝いていたんじゃない。皆のおこぼれを浴びていただけだ。凡人の私一人では、ろくな成果も上げられなかった」
12年前の失態を思い出し、夜空に向かってため息をついた。
「私は、恒星になれると勘違いした木星なんだよ」
だから高望みをせず、身の程をわきまえて生きてきた。
「ふうん」宮瀬は唇を尖らせた。「引間にとっては、恒星と惑星は違うんだろうけどさ。僕には、夜空の星は全部輝いて見えるけどね」
一瞬、星たちの輝きが増したように見えた。
「僕ね、高校3年間で一番印象に残ってる応援があるんだ」
宮瀬がにっこりと笑い「都大会の三回戦」と告げた。
「三回戦? なんでまた」
「あの試合、引間が初めてエールのリーダーを任されたでしょ。でも声は上ずるし、手は震えてるし、ぐだぐだで。観客もバカにしたように笑っててさ。最高だった」
「人の失敗を喜ぶとは、いい趣味だな」
「違うよ。最高だったのは、その後」宮瀬が目を細める。「普通、失敗したら、自分は悪くないって言い張るんだよ。誰かのせいにしたり、物にあたったり、環境に文句を並べたりさ。でも引間は大勢の観客に向かって、ただ頭を下げたの。『緊張して頭が真っ白になってしまいました。すみませんでした』って。僕が逆の立場だったら、あんな風にはできない。見栄っ張りだからね」
「すぐ謝ってしまうのは、私が弱いだけだ」
「ううん。弱い人ほど、謝れないんだよ。強がることで自分を保ってる」
宮瀬の眉間に皺が寄る。心当たりがあるような口ぶりだった。
「素直に頭を下げられる方が、よっぽど強いのさ」
あまりにはっきりと言うので、思わず「そうか」と返事をする。
「昔から、引間は輝いてるよ」
心臓の脈打つ音が、どっどっどっと鼓膜の内側を揺らす。
満天の星の下、敷かれたレールの上を駆け抜ける列車を、ぼんやりと見つめた。
「で、練習は何からやるんだ」
翌日、午前10時。私たちは巣立湯の裏手にある児童公園に集合した。
ジャージの襟元に顔を埋め、あくびを噛み殺す。久しぶりの練習に緊張してしまい、夜中まで眠れなかった。
「稽古場も変わらないねえ」
宮瀬のはしゃいだ声が、眠気を押し出す。
住宅街の奥まった一角にあり、滑り台と砂場のみといういささか魅力に欠ける公園ゆえ、常に空いていて、練習に重宝した場所だった。今日も私たち以外は誰もいない。
「じゃじゃーん。強力な手ぶれ補正機能付きの最新機種を買っちゃった」宮瀬がビデオカメラを希さんに渡す。「記念すべき再始動の瞬間を残さなきゃね。さあ、練習スタート」
威勢よく始まった練習も、準備体操を終えただけで皆の息が上がる。宮瀬が「ちょっと一服」と砂場の脇にある木製ベンチに腰を下ろした。バッグからタバコを取り出すのかと思ったら、注射器だった。
「なんだそれ」
「インスリン」
宮瀬はシャツをめくり、慣れた手つきで腹部に針を刺した。「一日4回も打つんだよ」と顔をしかめる。
私も横に座り、「こっちは一日3回だ」とポケットから出した目薬を両目にさした。白内障を悪化させないため、と医者には念を押されている。この歳になると、薬は治すためではなく、現状を維持するために使う。
「おい、休憩じゃねえぞ」
板垣に促され、中央の広いスペースに移動する。
「もうバテたのかと思ったら、調子良さそうじゃねえか。ブルー」
私の顔を見て、板垣が悪戯な笑みを浮かべた。
「ブルー?」と希さんが首を傾げる。
「高校時代の、引間のあだ名だよ」
「汚名です」と訂正する。「大事な時ほど緊張してしまって、顔色が悪くなるもので」
「ブルーはほめ言葉なのに」宮瀬が頬を膨らませた。「緊張するってことは、強い気持ちで臨んでる証拠でしょ。どうでもよかったら、緊張しないから」
「炎だって、熱いほど青くなるって言うじゃねえか」
板垣が無理矢理なフォローを挟む。
「納得できるかっ。フォロー役としては、青二才ならぬ、青七十歳だな」
「青い顔の時ほど、ツッコミの調子も良いじゃない」
宮瀬が肘で突いてくる。それをかわし、「で、練習は何からやるんだ」と本題へ戻した。
「そうだな……」板垣が言い淀み、杖を握りしめる。「エンドレスエールでもやるか」
「いつものガンバレコールから始めないの?」
宮瀬が不思議そうに言う。
「いや、エールで」
板垣が言葉少なに返す。ずいぶん素っ気ない反応だ。52年ぶりの練習に、団長も緊張しているのだろうか。
「エンドレスエールってなんですか?」
「希、応援団にとって一番の武器は何だと思う?」
板垣が答えではなく、質問で返す。元教師の顔がちらりと見える。
「えっと、力強い動きとか?」
撒いた餌に生徒が食いついたとばかりに、板垣が答えを明かす。
「一番は──声だ」
「声?」
「想像してみろ。野球の試合中、選手はどこを見てる?」
「ボール」
「そう、全員ボールに集中してる。間違っても、俺のことなんて見てない。目が合う選手がいたら、試合に集中しろって叱り飛ばすぜ」
「はあ」
希さんが首を傾げる。
「俺がどれだけ力強く腕を振ろうと、試合中の選手の目には届かねえ」
板垣は空いている方の手で、自分の右耳をつまんだ。
「でもな、こっちは拝借できるだろ」
「ほえ」
希さんが大きな目を、さらに見開いた。
「声だけはいつ何時でも選手に届けることができる。応援団にとって最高の武器だ」
「エンドレスエールは、僕らのスペシャル発声練習なの」宮瀬が付け加えた。
「エールに合わせてひたすら声を出すだけですけど」私はさらに付け加えた。
現役時代は最低でも30分、長いと1時間以上も叫びつづけた。その甲斐あって、どの高校の応援団よりも声は通り、球場でもひときわ注目を集めた。
「やってみようぜ。あの頃みたいに」
板垣を頂点に三角形を作る。私は右、宮瀬は左、各々背中で両拳を合わせ、肩幅より一足だけ広く足を開いた。自然と顎が引かれ、背筋が伸び、骨盤が締まっていく。52年たっても、体が基本姿勢を覚えていることに驚いた。
緊張が、期待に変わる。
本当に高校時代に戻れるんだ
軽く息を吸ってみる。肺が一回り大きくなったようで、意のままに空気を取り込めた。酸素が脳に行き渡り、老眼鏡を新調したみたいに、視界が引き締まる。己の体感覚に頼もしさを感じたのは、ずいぶん久しぶりだった。
期待が、予感に変わる。
板垣が胸元に右拳をつけ、エールの構えを取った。左手で握る杖が地面にめり込む。公園中の空気が張り詰める。希さんがカメラを向けた。
「ミラクルホークスのおおお、勝利をねがってえええ、エールを送るううう」
板垣が右拳を斜め45度の方向へ、ゆっくりと広げた。
「よいしょおおお」
唸り声が地面から突き上がり、脳天を貫いた。一瞬で体中が熱くなる。大きく息を吸い、それを全て音に変えた。
「フレッ。フレッ。ミラクルホークス! フレッ。フレッ。ミラクルホークス!」
腰を反り、全身のバネを使い、声を張る。
酸欠で脳みそがじんじんと痺れる。
苦しすぎて気持ちがいい。
息継ぎのタイミングが徐々に重なり出す。
それぞれの声の輪郭が混ざり合う。
一人の巨大な人間となり叫んでいるかのような、圧倒的な力強さに包まれていく。
曲がっているはずの板垣の背筋が、雄々しく直立して見えた。
──本当に高校時代に戻れるんだ。
予感が、確信に変わる。
どのくらい叫びつづけていたのだろうか。
ようやく板垣が右手を下ろした。
まわりの雑音は消え、ひゅうひゅうと乾いた呼吸音だけが聞こえる。
朦朧とする中で、宮瀬と目が合った。私は無言で笑い返した。
「なんなら現役時代を超えちまったかもな」
板垣がベンチに浅く腰掛ける。
私は背もたれに体を預け、唾を飲み込む。喉の奥がひりひりと痛んだ。痛みを嬉しいと思えるのも久しぶりだった。「声はかれても、情熱はかれてなかった」と気障な言葉が浮かぶも、さすがに呑み込む。
「さっそくプレイバックしてみよう」
宮瀬が華麗なステップを踏むように脚を組み替えた。けれど希さんは、「いや……」と後ずさる。撮影に失敗したのだろうか。
「少しぐらいアングルが変でも、声は録れてるでしょ」
宮瀬がカメラを受け取り、再生ボタンを押した。しかし映像は映っているのに、小鳥がさえずる音しか聞こえない。
「ボリューム上げろよ」
板垣が顎をしゃくり、宮瀬が音量ボタンを連打する。
「あれ? これ以上大きくならないや」
すると希さんが気まずそうに返す。
「皆さん、思っているより声が出てなくて……。なんなら、ウィスパーボイスです」
「ウィスパーボイス!」
全員がベンチから立ち上がった。板垣と宮瀬は眉間に皺を寄せつつも、若干、惚けている。横文字め。
「そんなわけあるかっ」
正気に戻った板垣が、杖で地面を叩いた。私は喉をさする。喉の痛みと動画の現実が繋がらず、混乱していた。
「あっ、終わっちゃった。エールの途中は撮らなかったの?」
宮瀬が引きつった笑顔で訊いた。
「これで全部です」希さんが肩をすぼめた。「エンドレスエール、3分も続きませんでした」
「嘘だろ」
板垣があえぐように言った。
「それじゃあカップ麺も作れないよ」
宮瀬が冗談めかして言うものの、頬が痙攣している。
ガンバレって言うおまえがガンバレよ。
久しぶりに感じた希望が、いつもの失望に塗り替えられていく。
重力が倍になってのしかかってくるようで、立っていられず、ふらふらとベンチにもたれた。
「本当に高校時代に戻れるわけないか……」
確信が、幻に変わる。
天を仰ぐも、刺すような太陽光が目に染みて、また下を向いた。
「団室に戻るぞ」
うつろな目をした板垣が一人で歩き出す。
さらに昇らんとする太陽とは対照的に、心は沈む一方だった。
団室は、窓は開けてあるのに、風は流れず、ため息が沈澱していく。
「カメラに思い出補正機能があればよかったけどな」
皮肉が口をつく。自分たちは70歳で、高齢者で、老人だということは十分に理解していたつもりだ。でもどこかで、まだやれるのではないかという淡い希望を抱いていたことも事実だった。これでは木星に合わせる顔もない。
──ガンバレって言うおまえがガンバレよ。
テレビから、甲高い声が飛んできた。板垣が顔を上げ、画面を睨みつける。バラエティ番組だろうか、学ラン姿の二人組がコントを披露している。応援団を揶揄したこのギャグは、一昔前に流行語にもなった。当時は応援団OBとして、物申したい気持ちにもなった。ただ、今は反論もできない。私たちの応援を見たら、誰だってそう言うはずだ。
気まずそうな顔でチャンネルを変える希さんに、「少年野球の応援って、キャンセルできたりするかな?」と宮瀬が尋ねる。
「妥当だな」私も同意する。「こんな声じゃ、この先いくら努力したところで厳しい」
顔を上げると、番台上の壁に飾られた巣立の遺影と目が合った。いつだったか、巣立が言った「努力は裏切らないって」という甲高い声が脳内で再生される。
「巣立、努力は人を裏切るよ」
また脳裏に、のっぺりとした灰色が広がった。12年前、定年まであと2年の時の話だ。
「市民課の引間さん、市長室にお願いします」
始業前のフロアに、市長の秘書の声が響き渡った。同僚が一斉に私を見る。呼び出されるようなことをしただろうか。記憶を探るが、身に覚えはなかった。
ドアをノックして入ると、吉峰市長は満面の笑みで出迎えてくれた。一回りも年齢が上なのに、肌の血色も良く、私よりよっぽど若々しく見える。
「引間君、すっばらしいよ」
差し出されたのは、私が応募した「天空の市民公園」の企画書だった。
3ヶ月ほど前だったろうか。市長肝いりの新規事業のアイディアを募る、という案内が職員に配られた。普段は企画など求められる立場にない私には、魅力的だった。
業務の合間を縫い、アイディアを練りつづけた。しかし、提出期限間近になってもまとまらない。途方に暮れていた私に、部下の村下が言った。
「好きに書いたらいいんすよ。引間さんのアイディアなんて、当てにされてないですから」
この適当かつ適切なアドバイスが光明となった。私の好きなこと──天体観望だ。そして出来上がったのが、駅前ビルの空いている屋上を、市民公園として活用する企画だった。忙しなく人が行き交う駅前に、誰もが一息つける場所があったらいい。「天空の市民公園」の目玉は、広場中央に設置した大型テントで見るプラネタリウム。営業は夜まで。仕事帰りにもプラネタリウムが観たい、という個人的な妄想を書き連ねた。
「夜空は、誰にでも平等に広がっている──。このキャッチコピーも秀逸だよ。屋上に作ることで、夜にプラネタリウムから出ると本物の星空が広がるってのも、ロマンチックだね。天文台がある我が市のイメージにもぴったりだ。さすが天体観望が趣味なだけはあるなあ」
「産んだ子の責任は取らなきゃね」
吉峰市長は、ウンウンと頷き、恰幅の良い体を揺らす。私のような目立たない職員の趣味まで覚えてくれていたことに、感動を覚えた。
「最近、目の前の現実ばかりに追われていてね。人間には、ぼけーっと立ち止まって、夜空を見上げることも必要だよな」
吉峰市長はにこやかな笑みを収め、ふと遠い目をした。
「きっと私たちは、夜空に自分自身を映して観てるんだろうな」
「そうですね」
昼間では埋もれてしまう小さな光も、夜空なら見つけることができる。
「というわけで、君を特命部長に任命する。新規事業の責任者としてがんばってくれたまえ」
「私がですか?」
「君の企画だ。産んだ子の責任は取らなきゃね」
吉峰市長はガハハと笑った。
(7月18日配信の次回に続く)
(遠未 真幸 : 小説家)