日本では長らく遅れているテレビのネット同時配信。総務省の有識者会議で、放送全体をデジタル時代にどう進化させるか議論が続けられている中、NHKが発表したこととは(写真:i-flower/PIXTA)

NHKのネット展開の議論がおかしな流れになってきた。急にやる気をなくしたとしか思えない。またもやこの国のメディアの進化が遅れるのかと、何年も放送通信融合の議論を追ってきた私としては、がっくりきた。こっちまでやる気を失いそうだ。

諸外国では当たり前のテレビのネット同時配信だが、日本では長らく遅れていた。とくにNHKは放送法で活動が規定されており、ネットでの活動には制限があった。時代の流れとして同時配信だけでも認めるべきではとの議論が起き、2015年から総務省の有識者会議が行われてきた。各業界団体の反対などもありなかなか議論が進まなかったがようやく認められ、2020年から「NHK+」というアプリで同時配信が始まった。1週間以内の見逃し視聴もできるようになったが、法的には「補完業務」と扱われ放送が「必須業務」であるのに比べて予算などに制限がある。利用できるのも放送の受信料を払っている人だけだ。

放送全体をどう進化させるか

人々のメディア利用はネットにどんどん傾き、NHKに限らずテレビ放送全体が今後ネットを活用すべきとの議論が出てきた。そこで2021年から「デジタル時代における放送制度の在り方に関する検討会」という総務省の有識者会議が開かれ、放送全体をどう進化させるかの議論が始まった。

その分科会として2022年9月にスタートしたのが「公共放送ワーキンググループ(WG)」だ。ここではいよいよ、NHKがネットでの活動も「必須業務」にすべきかが議論されてきた。とくに若い世代の動画視聴スタイルが変化している中で、NHKが公共的な役割を果たすにはネットでの情報配信も「必須業務化」すべきではないか。議論はその前提で進み、さまざまな分野から参加する有識者たちも必須業務化を後押ししていたように思えた。もちろん要所要所で注意すべき点は有識者からチェックが入り、とくにネット端末を持っているだけで受信料を取るのはありえないことは厳に指摘された。

そしてまたつねに話題に上ったのは、NHKが必須業務化でどのような新たなコミュニケーションをしていくのかだ。「公共放送から公共メディアへ」を掲げるNHKがネット上で何をすることで公共的な役割を示すのかが問われていた。

5月26日の「公共放送WG第8回」ではNHK自身がネットで何をやるかを発表する日だった。通常は理事が出てくることが多いが、この日は井上樹彦副会長がプレゼンした。傍聴する側としては、これまで概念的にしか語られなかった「公共メディア」の姿が、初めて具体的に語られるのだと期待していた。

ところが井上副会長のプレゼンは要領を得ないものだった。サンドイッチマンの定番ギャグをまねて「ちょっと何言ってるかわからない」と言いたくなる。会議はリモートで行われたのだが、モニターの向こうにいる有識者たちの失望とモヤモヤが伝わってきそうに感じた。

「放送と同様の効用」とはどういう意味?

案の定、質疑の時間では有識者からの質問が次々に出た。とくにツッコミが入ったのが、プレゼンの中でぬるっと出てきた「放送と同様の効用」という言葉だ。「NHK+」とテキストでニュースを伝える「NEWS WEB」が基本で、それ以外は「放送と同様の効用が、異なる態様で実現されるものについて実施」と謎の呪文のようなことが書かれており、何のことを言っているのかわからない。

ただなんとなく感じたのは、「放送と同じことしかやらない」と言っているらしいことだ。ものすごく消極的に見える。「必須業務化」を後押しする空気で進んできたこの会議を台無しにしたいのか?

さらに「効用」という言葉は経済学では消費者個人について使う用語で、「放送と同様の効用」という使い方はひどく雑に見える。有識者の中には経済学者もいて、疑問を強く示した。

そのうえ、有識者たちの質問に対する井上副会長の回答が輪をかけて要領を得ないもので、逆に理解が遠のくばかり。進行役を務める座長の早稲田大学大学院・三友仁志教授は「質問への回答になってない部分もありました」と不快感を示した。いつも冷静かつ温和に会議を進める三友座長が怒りをあらわにした言葉で戒めたので驚いた。ところが井上副会長はのらりくらり、有識者たちの不快感をわかっているのかいないのか、最後までモヤモヤした説明に終始した。

さらに翌週、5月29日にダメ押しのような報道があった。「NHK、ネットの文字ニュース縮小を示唆 自民党調査会で」(日本経済新聞、5月29日)の見出しでネットニュースが出たのだ。自民党の情報通信戦略調査会という場でまたもや井上副会長がNHKのネット活用について説明し、「映像や音声がともなったものに純化したい」と述べたという。テキストのみのニュースをネットで配信することに関して「放送と同等と言えるか、意見が分かれる」とも述べたとあり、「放送と同等」が重要でテキストニュースは不要と考えているらしい。

前の週のWGとあわせて考えると、NHKはネットで「NHK+」のような「放送と同等」のもの以外やるつもりがないのかと受け止めてしまう。この記事はNHK内外に大きな波紋を呼んだ。元NHKで現スローニュースの熊田安伸氏はデジタル・ジャーナリズム育成機構の理事も務める影響力の強い人物だが、スローニュースのnoteに「井上副会長様、公共メディアを担う気がないのならば、NHKはもう解体すべきです」と題した文章を載せた。人々の役に立つ報道には映像かテキストかは関係なく、使えるツールは何でも使うべきだし、「公共放送から公共メディアへ」とはまさにそういう意味だったはずだ。井上副会長の姿勢に失望した熊田氏の元同僚たちが彼のところにコメントを寄せたという。「最悪ですね。NHKおわりかな」「転職作業を進め始めています」などなど、底知れぬ絶望感が漂うコメントの数々。読んでるこちらも切ない気持ちになった。

さらにその翌週、6月7日に「公共放送WG第9回」が慌ただしく開催された。私はてっきり井上副会長の前回の説明を何らかフォローするような話が出ると思ったが、意外にも一番最初はこのところ騒動となっている「衛星放送の配信予算」についての謝罪だった。その後で前回出た質問への回答が説明されたものの、井上発言の消極ぶりを補うようなものではなく、やはり必須業務化とは「放送と同等」のことをやっていくことだと受け止めた。

ネット活用を「補完業務」としか捉えていない

昨年9月から半年以上重ねた議論の結果、「NHK+以外あんまりやる気がない」となったも同然でがっかりしている。それに、この状態で必須業務化になると、「テレビを持ってないけどNHK+を使いたい人はそのための受信料を払えば使ってよし」ということにしかならない。そんな奇特な人、何人いるというのだろう。

若者は確かにテレビを持ってなくてもTVerで民放のドラマやバラエティーを見るし、そういう人は増えている。だがテレビはないけどNHKをどうしてもスマホで見たいからNHK+の契約をしたい、と考える若者がいるだろうか。多分日本中でカウントしても数えるほどしかいないと思う。

だったら何も大げさに「必須業務」などとせず、「例外業務」くらいにして、とっととやればよかったのではないか。

こうなったのは結局、稲葉延雄新会長のもとで組まれたいまのNHK上層部が、ネット活用を「補完業務」としか捉えていないからだと思う。放送至上主義から抜け出せていないのだ。だったら「公共放送から公共メディアへ」などとカッコつけて掲げなくてもよかっただろうに。

だが彼らはわかっていない。これから「放送」という形態は転がり落ちるように時代に置いていかれる。2030年に向かって団塊の世代は悲しいことに急激に人数が少なくなり、団塊ジュニアには定年が迫ってくる。放送を支えてきた世代は、この国の中核ではなくなるのだ。若者たちがどんどんチューナーレステレビに逃げたら受信料は激減するのに、どうするのだろうか。

(境 治 : メディアコンサルタント)