フランス、1968年の「5月革命」。パリのカルチェ・ラタンでのデモ(写真・Roger-Viollet via AFP)

フランスは1871年と1968年の過去2回、5月に大きな社会変動を体験している。いずれも、フランスの人民による大きな異議申し立てによる体制変換であった。その結果がよかったか、悪かったか、それはその後の歴史の判断によって意見が分かれるであろう。

1つ目の5月は1871年、同年3月18日から続いたパリ市の自治政権「パリ・コミュ―ン」がフランス国家によって壊滅させられた戦いの日であり、もう1つは1968年、シャルル・ドゴール大統領(任期1959〜1969年)を辞職に追い込んだ学生と労働者による5月革命の5月である。

では、さらなる「5月」はありうるのか。もし歴史に100年周期説というものがあれば、今回はその対象ではないかもしれない。カール・マルクスは「歴史は2度繰り返す、1度目は悲劇、2度目は茶番劇として」と述べた。では3つ目は何か。

名曲「サクランボの実る頃」の真の意味

シャンソンの曲として日本でもかつて人気を博し、よく歌われた「サクランボの実る頃」という歌がある。歌詞の内容を一言で要約すれば、「恋の季節はほんのつかの間だ」というものだ。これが、パリ・コミューンの後に流行った。そこには、そこにもっと深い意味が込められていた。

短くも美しく燃えたパリ・コミューンは、わずか数カ月しかもたなかった。夢はすぐ終わる、そして悲恋で終わる。パリ・コミューンもうたかたの夢のように終わり、心に刺さった失恋の思い出と同じように、人々を苦しめるというものだ。

筆者と同年代にとっての「サクランボの実る頃」は、1968年5月革命であろう。1968年という年は、歴史の転機となる年であった。プラハの春とソ連のチェコ侵入、ジョン・F・ケネディ大統領の実弟のロバート・ケネディとマーティン・ルーサー・キング牧師の暗殺があった。「何かが変わる」という予感が生じるに足る事件が多かった。

日本でも、ベトナム戦争への反対運動が盛り上がり、大学では授業料値上げ反対闘争と学園封鎖が行われた。欧米諸国においても、学生や労働者たちは熱く燃え、戦後生まれた体制への異議申し立てを行っていた。その申し立てが国際的連鎖を生み出していた。

もっとも世界は、どこに向かっているかということは、実は誰にもよくわかっていなかったのだ。プラハの春に対するソ連侵攻をみてもわかるように、世界はソ連・東欧のような社会主義体制に向かっているとも思えなかった。また、ベトナム戦争の激化と反対運動の盛り上がりからすれば、西欧資本主義礼賛へと向かっているとも思えなかった。

学生たちの行動を見ても、戦後のベビーブーマーが大学の体制に対して、ベトナム戦争に対して抗議していたが、その目標はと聞かれて、すぐに答えられる者はどこにもいなかったはずだ。 

それは世界中の若者にも共通していた。目標なき戦い、計画なき戦いであったのかもしれない。ただ、現状を批判し、それを一時中断し、その後で何かを考えようとしていたことだけは、確かだ。

社会学者・哲学者で、5月革命の中心にいたパリ大学ナンテール校のアンリ・ルフェーブルは「日常性へのマニフェスト」という言い方をしていた。いったん何もかも中断し、そこから日常のありかたを再考するのだ。

地下鉄やバスを止めるのはなぜか

ルフェーヴルによると、この問題は都市の抑圧的姿と関係しているという。日常生活の中で都市が抑圧的などと感じる者はほとんどいない。豊かな生活にどっぷりつかっている者は、都市を満喫し、楽しむ。それが抑圧的などとは思わない。

しかし、地下鉄が止まったり、バスが止まったりしたらどうであろう。快適な空間が苦痛に変貌する。だからストライキや、デモなどはだれもが避けたいと思うのだ。

しかし、この都市の空間から排除されている者、たとえば移民労働者、貧しい者、ホームレスなどなどにとっては、都市はけっして快適な空間ではない。今ではこうした排除されている者は、格差拡大でどんどん増えている。

フランスでは毎年2回、自動車が燃やされる日がある。それは、大晦日の夜、そして7月14日の革命記念日(パリ祭)である。この日は郊外の若者たちが、自分のものではない都市の中心に出て、思う存分都市を破壊するのだ。もちろん秩序はある。壊されるものは決まっている。それは、これ見よがしの豊かさをもつ路上駐車場に止めてある自動車だ。

前出のルフェーヴルは1871年のパリ・コミューンを、こう分析した。「パリ・コミューンの意味の一つは、場末の周辺へと投げ返されていた労働者達が都市の中心へと大挙して帰来したことであり、彼らから奪い取られていた財貨のなかの財貨であり価値であり作品である『都市』をふたたび征服したことであった」(『都市への権利』森本和夫訳、ちくま学芸文庫、29〜30ページ)。

パリ・コミューンは、都市から排除されたものによる都市の奪還運動だったのだというのだ。5月革命についても同じことがいえるかもしれない。

パリ郊外のナンテール(今はパリ第10大学)は、貧しい郊外の一角にあった。そこから、自分たちを縛ってきた都市の権力に立ち向かい、パリの中心(カルチェ・ラタン)にその運動は伸びていき、大統領の直下でのゼネストという手段に訴えたのだ。

そして鉄壁を誇った中央権力は、パリ・コミューンのときと同様に崩壊した。

しかし、今回の5月の運動は、膠着状態であるがマクロン政権の崩壊は見られない。民衆のあいつぐデモ、ストライキに耐えているのだ。なぜだろう。

今回、フランスで大問題となっている年金問題は、都市の空間から排除され、細々と生きている老人たちの権利の擁護でもある。その意味では、5月革命のような展開を期待することもできる。

また、都市の権利運動として起こった公園占拠運動にも近い。この運動のガイドブックともなったステファン・エセルの『若者よ怒れ! これがきみたちの希望の道だ』(エドガール・モランとの共著)なども、ルフェーヴルの考えとよく似ている。エセルは第2次世界大戦のレジスタンス出身で、外交官として人権擁護運動にも深く関わった人物だ。

世界的連携がないと運動は成功しないのか

しかし、不思議なことに、マクロン政府はまったくひるむ様子はないのだ。パリ5月革命を体験した立命館大学名誉教授の西川長夫は、『パリ五月革命 私論』(平凡社新書、2011)で、この運動が成功したのは、当時世界との運動の連携があったからだと述べている。

確かに今、フランスの年金問題への世界の関心は低いし、これに触れられることも少ない。今回の運動は、5月革命の時代とちがって、今一つ世界への関心を捉えることができていないのである。

もっとも、世界はそれどころではない。確かに、ウクライナ戦争へのNATO(北大西洋条約機構)の全面協力、経済制裁によるブーメラン現象としての物価上昇、年金問題はまさに深く結び合っているのだが、今一つ、世論がそれを意識して行動していない。ウクライナ戦争への出費増大が年金に影響するのは必至だ。

しかし、ウクライナ問題は取り上げにくい。なぜなら大手メディアはウクライナ支持を打ち出し、フランス人の多くも、公にウクライナ支援をやめろとは言いにくい。物価上昇は逼迫しているが、それは世界中どこも同じであり、フランスだけの問題ではない。

フランスの財政赤字はGDP比率で100%を超えている。政権が変わっても64歳への支給年齢引き上げは、いずれ来る必然的問題かもしれない。

年金制度は、資本主義社会の経済成長と若者の人口増によって成立したものであるが、その成長も人口増もいまや多くの国でも実現できていないのである。

ウクライナ戦争への出費は難題だが、もしロシアが勝利するようなことがあれば、西側経済は破綻するのではないかという懸念があり、武器をひたすら送り、そこに望みをつなぐしかないのも事実だ。

そうなると年金問題の撤回も、マクロンの退陣もありえず、半年にわたる抗議運動は、徒労に終わる可能性が高い。

やはりパリ・コミューンや5月革命、そしてフランス革命のような大きな運動は、100年のタームでしか来ないのかもしれない。市民はそう簡単に日常生活を中断することなどできないのだ。「さくらんぼ」は、実らないのだ。

(的場 昭弘 : 哲学者、経済学者)