■ロシア人がビザなしで入国できる数少ない国

ロシアの妊婦たちが母国を棄て、南半球への大移動を始めた。

米ワシントン・ポスト紙は、過去14カ月間で2万2200人以上のロシア人が南米・アルゼンチンに入国し、その多くが妊婦とみられると報じている。夫婦で移住することも多いようだ。

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モスクワからアルゼンチンまで直線距離で1万3000キロ超。地球を3分の1周する大移動となる。侵攻後に直行便が停止されたため、中東やアフリカなどを経由し、丸1日以上をかけた長旅となっている。

妊婦やその夫たちは、なぜアルゼンチンを目指すのだろうか。もちろん理由の一つには、アルゼンチンにビザなしで入国できる点があろう。経済制裁の下のロシアでは、生活に一定程度の不便が生じており、脱出の動機は強い。若い夫にとっては、徴兵の危険も無視できない。

だが、夫婦たちがロシア脱出を図る動機は、それだけではない。移民に寛容なアルゼンチンの制度を利用しようとする思惑があるようだ。

■「出生数の3分の1がロシア人」という病院も

昨年来、アルゼンチンの首都・ブエノスアイレスの街角で、妊婦たちの姿が目立つようになった。ブルームバーグは、現在南半球の夏の終わりを迎えている現地から、ある公園での光景をリポートしている。

「ブエノスアイレスの中心部に近い、緑豊かなラス・エラス公園。晩夏の暑さのなか、若い母親たちがバギーを押し、地元の人々は日陰でマテ茶を飲み、喉を潤している」

南米の郊外ではよく見られる光景だが、一昨年までは見られなかった異変が起きていると同記事は指摘する。「母親たちはみな、ロシア語を話しているのだ」

彼女たちは地元の母親ではなく、子供を産みにアルゼンチンに渡ったロシア人たちだ。記事によると、プーチン大統領が侵攻に及び、徴兵と経済不安が国民に及ぶようになって以来、ロシアの妊婦たちは「大挙して」アルゼンチンを訪れているという。

ワシントン・ポスト紙は、「ブエノスアイレスの人々は、街中で聞かれるロシア語にも慣れてきた」ほどだと報じている。現地紙によると、ロシア人に特に人気の高いブエノスアイレスの2つの病院では、出産数のほぼ3分の1をロシア人が占めるようになったという。

また、外国人観光客に人気のパレルモ地区では、ベビーカーを押したりベビー服を買ったりするロシア人の母親たちの姿が多く見られるようだ。

■安心して子供を産み、育てるための避難先

彼女たちの目的のひとつは、ロシアのウクライナ侵攻によって生活が不安定となったロシアの外に生活の拠点を築くことだ。

アルゼンチンで子供を産めば、その両親は弁護士を通じて居住権を申請できる。さらに、2年が経過した時点で裁判官が認めれば、両親にも市民権が与えられる。

ロシア人のジュリア・ズエワさん(34歳)は今年、アルゼンチンで子を産み母親になった。ブルームバーグの取材に対し、「(昨年)11月までは、何も考えていなかったんです」と語っている。「妊娠しているほかの女性たちと知り合いになったとき、みんな『アルゼンチンに飛ぶんだ』と口をそろえていたんです。興味が湧きました」

徴兵制のあるロシアでは、18〜27歳の男性に1年間の兵役義務が課される。追加徴兵の恐れもつきまとい、夫にとってもアルゼンチンが有力な逃避先となっている。アレックス・シェミアキンさん(37歳)は、エンジニアの仕事を辞めてまで同国に渡った。

「母国での選択肢は3つでした。国を去るか、黙って徴兵されるか、あるいは戦争反対を訴えて投獄されたうえに結局は戦争に駆り出されるかです」

ロシア人のなかにも、プーチン氏に反感を抱く市民は存在する。25歳女性のマリア・コロワノワさんは、ブエノスアイレスのロシア大使館前で行われた反戦デモに参加した。身ごもったお腹に「F--- Putin」のステッカーを貼って抗議の意志を明らかにした。

ワシントン・ポスト紙によると彼女は、安心して子育てのできないロシアには戻らず、少なくとも数年をアルゼンチンで過ごす予定だという。

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2023年2月27日、アルゼンチン・ブエノスアイレスでインタビューを受けるロシア人のマリア・コロワノワさん。サンクトペテルブルクで英語教師をしていたマリアさんはロシアで出産するつもりだったが、プーチンが部分動員を発表したことで、計画は変更を余儀なくされた - 写真=EPA/時事通信フォト

■狙いは「アルゼンチン国籍」

アルゼンチンでの長期生活を見据え、仕事の拠点を移した人々もいる。

リモートで母国の仕事をこなす人々のほか、ある写真家は現地でクライアントを見つけるなど、おのおののやり方で収入源を確保しているようだ。

ワシントン・ポスト紙は、すでに2400人ほどのロシア人が居住手続きの申請に動いたと報じている。家族で現地に定住するならば、アルゼンチン側にもメリットはある。激しい物価上昇や膨大な国家債務などの経済不安を抱えており、欧米から渡航していた頭脳労働者の流出が続いていたという。ロシアからの流入でそれを補えるのならば渡りに船だ。

しかし、定住を決めたロシア人は、渡航者全体からみれば少数派に留まる。多くの夫婦たちは子供が生まれるや否や、ロシアへのとんぼ返りを決めているという。

アルゼンチンの入国管理局長は英ガーディアン紙に対し、過去1年間で1万人を超えるロシアの妊婦がアルゼンチンを訪れたと説明している。うち5800人以上が直近3カ月間に訪れており、ペースは急速に高まっている。

多くは妊娠後期に当たる、妊娠33〜34週目の女性たちだったという。出産まで1カ月半ほどに迫ったこの時期に合わせて渡航し、現地で子供を生むようタイミングを見計らっているようだ。出産を済ませたロシア女性たちのうち、実に7000人が出産後すぐ、ロシアへと帰国している。

■ロシアが北朝鮮のようになることを恐れている

夫婦たちの最大の目的は、生まれてくる子供にロシア以外のパスポートを持たせることにある。ワシントン・ポスト紙は、ロシア人の若い夫婦たちの声を紹介している。子供が成長したとき、ロシア以外で活躍できる機会を残したいという切実な思いがある。

ロシア人男性のアレックス・スレペンコフさん(36歳)は、同紙に対し、母国が「北朝鮮のようになり、世界へ国境を閉ざすのではないかと恐れた」と語っている。昨年9月に第1子の妊娠を知ったスレペンコフさん夫婦は、子供の未来を守るため、ロシア以外での出生を模索した。夫婦は1月、アルゼンチンに渡っている。

アルゼンチンの入国管理局長は英BBCに対し、「私たちのパスポートは、世界中でとても安全です。171カ国にビザなしで入国できます」と説明し、これがロシア夫婦への誘因になっているとの見方を示した。

参考までに、2023年時点で日本のパスポートは、シンガポールと並び、世界で最も信頼があるとされる。ヘンリー・パスポート・インデックスは、世界最多となる193の国と地域にビザなし渡航ができると評価している。

アルゼンチンのパスポートは、ビザなしで170の国と地域へ渡ることができる。世界19番目の多さであり、非常に高い信頼性がある。対するロシアのパスポートは渡航先が119に限られるうえ、今後も減少が見込まれる。就労ビザの申請においても、ロシア国籍は西側諸国の多くで不利に働くことが予見される。

せめて子供には将来、ロシア国籍にとらわれずに生きてほしい。アルゼンチン国籍をねらって来訪するロシア人夫婦には、このようなねらいがあるようだ。

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■安く、良質…先進国並みの医療が魅力になっている

このほか、アルゼンチンの先進国並みの医療体制も、ロシアの妊婦たちを引き寄せている。BBCは、同国の高い医療水準が、戦争の影響を逃れたいロシア人にとって魅力的になっているのではないかと論じている。

現地の医療体制について、日本の外務省は、公立病院では医療レベルが限定的だとしながらも、「首都圏の一部の私立総合病院は、医療設備も整っており、欧米先進国と遜色のない医療レベルが期待できます」と評価している。

ロシアでも私立病院を選べば高水準の医療が期待できるが、戦地に医療資源を投入せざるを得ないいま、万全の体制は必ずしも期待できない。

これに加え、ロシアの私立病院では医療費が高額になる問題がある。昨年5月にアルゼンチンに到着したというロシア人女性は、ユーロ・ニュースに対し、「ここでは病院が安くつきますから」と来訪の理由を説明している。

もっともアルゼンチンでは、今年2月のインフレ率が100%超えを記録した。それでも、戦争で経済と生活環境が不安定となったロシアよりは、アルゼンチンに信頼を寄せるカップルが多いようだ。ブルームバーグは、「ロシア人たちはプーチンの戦争よりも、アルゼンチンのインフレ率100%を選ぶ」と記事にしている。

■「エコノミークラス」は66万円、「ファーストクラス」は…

こうしたなか「出産ツーリズム」がグレーゾーン・ビジネスとして成立しているようだ。

2月10日、首都ブエノスアイレスに位置するエセイサ国際空港。東アフリカのエチオピア航空機が到着すると、妊婦33人を含む乗客たちが一斉に降機した。アルゼンチン側の入国管理局は、妊婦のうち3人の身柄を拘束した。

地元紙の報道を基にBBCが報じたところによると、「書類上の問題」が確認されたという。彼女たちは観光目的で訪れたと虚偽の申請をしつつ、実際には出産のため入境した疑いが持たれている。

現状では、入国の目的を観光と偽ることを除いては、ロシア人たちの入国に違法性はない。こうしたなか「出産ツーリズム」がグレーゾーン・ビジネスとして成立しているようだ。

BBCが確認したロシア語のウェブサイトでは、5000ドル(約66万円)の「エコノミークラス」から1万5000ドル(約197万円)の「ファーストクラス」まで、予算に応じた渡航プランが紹介されていたという。現状では、入国の目的を観光と偽ることを除いては、ロシア人たちの入国に違法性はない。

こうしたプランは空港への迎車に始まり、「アルゼンチン首都で最高の病院」での出産入院の手配や、現地での生活を見据えたスペイン語の授業までを含む、包括的なパッケージとなっている。

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■不安につけ込んだビジネスという指摘も

ガーディアン紙は「出産ツーリズムの概念自体は、新しいものではない」としながらも、「戦争によってロシアは西側から孤立し、ロシア人がビザを必要としないアルゼンチンはこうして、子供に第二の国籍という特権を与えたい家族にとって、人気の目的地と化したのである」と指摘している。

すべて自前でこなす決意があれば、こうした高額なサービスすら必要ない。妊娠9カ月の妻と現地に渡ったロシア人男性は、ユーロ・ニュースに対し、「ロシア人はビザなしでアルゼンチンに来て90日間滞在できるのに、なぜこのようなサービスを利用するのか理解できない」と語っている。

男性によると「唯一の苦労は、マンションを見つけることだった」という。記事は、市民権の申請を弁護士に依頼したとしても、パッケージ費用の10%程度で済むと指摘する。現地を訪れる人々の不安につけ込み、高額なビジネスが横行しているようだ。

なかには夫婦がアルゼンチンに定住できるよう、書類を偽造するケースがあり、アルゼンチン警察が摘発に乗り出している。また、両親のアルゼンチン国籍の取得が約束されていると謳い高額を請求するものもあるが、実際には国籍申請が通る法的な後ろ盾はない。

■妊婦たちは「プーチンの戦争」の被害者である

観光を装った不正な入国は、国境管理の観点から許されることではない。

観光目的との嘘を並べて押し寄せる1万人以上のロシア人たちに、アルゼンチン当局は閉口している。だが、妊娠しているだけでは、観光客でないと判断することもできない。審査の限界を突いた不正となっている。

同時に、多数のロシア人妊婦が国外での出産を迫られているという事実は、事態のもうひとつの側面を物語る。妊婦たちは、ロシアでの出産が、子供の将来にかせをかけることになると危惧しているのだ。出産という困難な時期に一計を案じなければならない妊婦たちも、プーチン氏が起こした侵略戦争の被害者とみることができるかもしれない。

ロシア国外への移動をめぐっては、欧米の経済制裁を逃れようとする新興財閥(オリガルヒ)たちが、ドバイやアルメニアなどへ移住し、現地でビジネスを続行する例が問題視されてきた。金銭目的のこうした事例と比べれば、子供の将来をロシアの汚名から救いたいという父母の計らいは、心情的にはまだ理解が及ぶものだ。

抜け穴を突いた「出産ツーリズム」は褒められたものではないものの、ロシアの妊婦たちが身重な身体で赤道を跨いだ大移動に臨む現状の裏には、ウクライナ侵攻の影響に踊らされる悲しい国民たちの実情が隠されているようだ。

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青葉 やまと(あおば・やまと)
フリーライター・翻訳者
1982年生まれ。関西学院大学を卒業後、都内IT企業でエンジニアとして活動。6年間の業界経験ののち、2010年から文筆業に転身。技術知識を生かした技術翻訳ほか、IT・国際情勢などニュース記事の執筆を手がける。ウェブサイト『ニューズウィーク日本版』などで執筆中。
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(フリーライター・翻訳者 青葉 やまと)