松坂由里香は、パーフェクトな女。

美貌。才能。財力。育ち。すべてを持つ彼女は、だからこそこう考える。

「完璧な人生には、完璧なパートナーが必要である」と。

けれど、彼女が出会う”未来の夫候補”たちは、揃いも揃って何やらちょっとクセが強いようで…？

松坂由里香の奇妙な婚活が、いま、幕を開ける──。

▶前回：寝室で彼と寝ていたら、玄関から物音が…。女が思わず悲鳴をあげた、侵入者の正体は




Vol.10 完璧な男


「星野くん〜、この資料ファイルしておいてくれる？」

「了解です」

いつもと変わらない、夜のオフィスの光景。

たったひとつ違っているのは…由里香の左手の薬指に、GRAFFのエンゲージリングが輝いていることだ。

資料を手渡すその瞬間、飴玉のように大きなダイヤがキラリと光る。

星野は、しばらく資料から手を離さないままじっとそのダイヤを見つめていたかと思うと、空中に目線を逸らして呟いた。

「由里香社長。式の準備は順調なんですか？」

「うん、あと2ヶ月だからね。色々と忙しいよ。明日は準備で1日お休みもらうけど、何かあったら遠慮なく連絡ちょうだいね」

星野の問いかけに、由里香は困ったような照れ笑いを浮かべた。

指輪の送り主は、実業家として知られるマサタカだ。

3ヶ月前のあの日、失意のどん底で訪れた白金のバーで、ワインをこぼされた瞬間。

嘘みたいな話だけれど、お互いに一目惚れだったのだ。

服を汚したお詫びという名目でデートに誘われてからは、マサタカと由里香は順調に交際を重ねた。

そして、運命的な出会いを果たした二人は、交際2ヶ月にしてスピード婚約に至ったのだった。

星野に結婚式の話をしていることに、言いようのない気恥ずかしさを覚えた由里香は、普段の調子で冗談めかす。

「でもさでもさ、星野くんはまさか私が本当に結婚できるなんて、全然信じてなかったでしょ！しかも、あんなに完璧な人と」

「普通に考えて、完全にムリだと思ってました」なんて、いつもの皮肉を言ってもらうつもりだった。

けれど…星野からの返事は、由里香の予想の斜め上をいくものだった。


星野は、どこか寂しげな表情を浮かべながら微笑んだかと思うと、小さな声で呟く。

「いや、由里香社長なら誰だって放っておきませんよ。社長みたいな傲慢な女、俺くらいしか相手できないと思ってたのが間違いでした」

「え…？」

「じゃあお先に失礼します」

言葉の真意を問いただす暇も与えず、星野は一転、いつもの調子でさっさと退勤してしまう。




― 今の、どういう意味…？

わずかな動揺を紛らわそうとコーヒーを飲もうとするものの、いつのまにかマグカップは空になっていた。

独立する時、星野にもらった安物のマグカップ。もう何年使っているだろう。空っぽになったカップの底には、年季が入ったくすみが目立つ。

― 一回、持って帰ってキレイにしようかな。とにかく、私ももう出なくちゃ。

気を取り直して、身支度を始める。

今夜はマサタカの家に泊まって、明日にかけて式の準備を進める約束をしているのだ。ボンヤリしている暇はない。

適当な紙袋にマグカップを入れると、由里香は慌ただしくオフィスを飛び出す。

星野の言った奇妙な言葉も、どうにか心の奥底へとしまい込んだ。

◆

「由里香、待ってて。いま水持ってくる」

愛おしそうに由里香の頭を撫でると、クイーンサイズのベッドからマサタカが立ち上がる。

「あ、大丈夫。私コーヒー飲みたいから淹れるね。マサタカさんのぶんも」

マサタカの家での夜。いつものように愛を確かめ合った由里香は余韻を振り切ると、汗ばんだ素肌にマサタカのシャツを羽織った。

元麻布の低層マンションの窓からは、夜景は望めない。

その代わり、広々としたリビングや寝室、廊下や書斎などには、至る所にアート作品が飾られている。そのどれもこれもが、界隈で注目を集め始めている現代アート作品だ。

キッチンで、使い慣れた自分用のカップと彼のカップにコーヒーを注ぎながら、由里香は思う。

― ほんと、マサタカさんって完璧。求めていたパーフェクトなパートナーに本当に出会えるなんて、私、めちゃくちゃ幸せなんだろうな。




実業家兼、エンジェル投資家としても知られるマサタカは、京大卒の40歳。

在学中に友人と起こした語学学習関連のベンチャー企業を成功させたことを皮切りに、今もビジネスの最先端を走り続けている。

それだけでなく、容姿も端麗。会話は知的で、性格も温和。

趣味は由里香と同じ旅行とアート鑑賞で、ベッドの相性まで良いことがわかった時には、由里香はあまりの奇跡に震えるような思いがしたのだった。

「由里香、ありがとう」

ソファに座ったマサタカは、どこかあどけなさの残る笑顔で由里香の差し出すコーヒーを受け取る。

そして、隣に腰掛けた由里香の額にキスをすると、じっと瞳を覗き込んで心配そうに尋ねた。

「どうしたの？何か、悩みでもある？」

目の前のコーヒーテーブルの上には、ごく親しい仲間を集めてNYで行う予定の、結婚式の資料が広げられていた。

ドレス。ケーキ。ホテル。何をとっても、由里香の希望がすべて叶えられている。

「ううん、なんでもない。ちょっと仕事で疲れてるだけ」

星野の意味深な態度を目前にして以来、なぜだかはしゃぐ気になれない由里香は、それでもマサタカを心配させまいとニコッと笑みを浮かべる。

けれどマサタカは、そんな由里香の様子などお見通しであるかのように、言葉を続けるのだった。


「由里香。何度も言うけど、仕事は由里香の好きなようにすればいいからね。辞めてもいい。続けてもいい。

個人的には、由里香にしかできない素晴らしい仕事なんだから、応援したいと思ってるよ。家事とか家のことは、僕もやるし。お金で解決できることはなんでもお金で済ませよう」

100点満点のマサタカの言葉に、由里香は瞳を潤ませながら「ありがとう」と答える。

けれどなぜだか、いたたまれなくなり、コーヒー入りのマグを持ったままソファから立ち上がり、リビングにかけてある大きな油彩画の前に立った。




「私、この絵好きだな」

描かれているのは、奇抜な色使いで描かれた東京タワーの風景画だ。

足元に、芝公園の木々らしき緑が広がっている。たぶん、ちょうど星野と一緒に山盛りのパンを食べたあたりだ。

「いいよね、この絵。現役の藝大生の作品を当時3万円で買ったんだけど、今、いくらになってると思う？300万。これからも価値は上がっていくと思うよ」

由里香を追って背後へと立ったマサタカが、由里香の肩に手を回しながら言った。

「さすが、マサタカさんの目利きだね」

「アートは資産だからね。投資の一種だよ」

成績表を褒められた子どものように誇らしげに胸を張るマサタカに、由里香はほんのわずかな違和感を覚えた。

見ていると、なぜだか胸を締め付けられるような繊細な色使い。

由里香にはそんなふうに感じられるこの絵を、マサタカは全く違った場所から見ているように思えたのだ。

返す言葉が思いつかない由里香は、代わりに、いつのまにか冷めてしまったコーヒーを飲み干す。

その時だった。

由里香がコーヒーを飲み干すのを見届けたマサタカが、イタズラっぽい笑みを浮かべながら──由里香の手から、マグカップを取り上げたのだ。

「あっ、何するの」

戸惑う由里香を無視して、マサタカはキッチンへと歩みを進める。

そして、吊り棚の奥から美しい模様の描かれたコーヒーカップを取り出すと、代わりに由里香に手渡した。

「いや、なんか小汚いカップ使ってるなーと思って。やっぱり、妻には日頃からいいものを使っていてほしいよ。それ、エルメスのだからよかったら使って」

「でも…」

言い淀む由里香に、マサタカは100％の善意で微笑む。

「この汚いカップは、捨てておくね。もうそろそろ寝ようか。あ、洗い物は明日の朝、僕がやるからね…」

そう言うとマサタカは、由里香のマグカップを無造作にゴミ箱へと放り込む。

ゴトリと鈍い音を立てて、マグカップがゴミ箱の底に落ちる音がした。

どこにでもある、つまらないカップ。何の変哲もない、由里香だけにとって大切なカップ。

マサタカのスラリとした背中が、寝室の奥へと消えていく。

そのパーフェクトな男の後ろ姿を、広く美しいリビングの片隅から、由里香はただただじっと見つめ続けた。

◆

翌日の朝。

差し込む朝日の中で怪訝な表情を浮かべているのは、朝イチのオフィスに出社した星野だ。

「星野くん、おはよー！」

「由里香さん、何でここにいるんですか？今日は結婚式の準備でお休みなんですよね？」

そう問いかける星野に、由里香はこともなげに言い放つ。

「あー、結婚ね。あれやめた！」

「は？」

「だから、マサタカさんと結婚するのやめた」

「はぁ？」

放心する星野を無視して、由里香は仕事を続ける。

「えー…と。一応、理由を聞いておきましょうか」

「うーん。強いて言えば…絵を見る時の感想が変だったから…？」

すっかり呆れ返った様子の星野は、しばらくの間黙り込んでいたかと思うと、グシャグシャと自らの頭を掻きむしる。

「ほとんどこじつけじゃないですか！あのねえ、由里香さん。あなただって、人のこと言えるような完璧な女じゃないでしょう。

今回の人は、どっからどう見てもパーフェクトだって言ってたじゃないですか。人の粗探しばかりしていないで、いいところに目を向けないと、幸せになんかなれませんよ！」

珍しく息の荒い星野に、由里香も負けじと言い返す。

「私、気づいたの。誰にとってもパーフェクトな人じゃ意味がないって。

私にとってだけ、パーフェクトな人。それが、私の結婚相手に相応しい男でしょ」

「じゃあ、婚活は続けるんですか？」

「続けるわよ。探しても探しても変な男ばっかなんだから、続けるしかないじゃない」

「はぁ…人の気も知らないで…」




いつもの言い争いを続ける由里香と星野の傍らには、ほんの少しフチの欠けた、いつものマグカップが置いてあった。

左手の薬指には、もうダイヤの輝きはない。

けれど由里香は、マグカップでひと口コーヒーを飲みながら、好奇心に満ち溢れた瞳をきらめかせて星野に宣言する。

「完璧な人生には、完璧なパートナーが必要なの。私だけのパーフェクトな相手…。私、絶対手に入れてみせるからね！」

Fin.

▶前回：寝室で彼と寝ていると、玄関から物音が…。女が思わず悲鳴をあげた、侵入者の正体は

▶1話目はこちら：お泊まりデートの翌日。男は先にベッドを抜け出し、女の目を盗んでこっそり…