メッサーシュミットの知られざるライバル 英「ミーティア」とは 東側にパクられまくるまで
ドイツとのジェット機開発競争でしのぎを削ったイギリス。同国初のジェット機として誕生したグロスター「ミーティア」は、凡庸な機体ながら黎明期のジェット戦闘機として、その後の基礎を築きました。
ジェット・エンジンの初特許はイギリス
第2次世界大戦中のジェット戦闘機といえば、世界初となったドイツ空軍のメッサーシュミットMe262が有名です。だからといって当時、ジェット戦闘機=ドイツの専売特許というわけではありませんでした。
大戦後期は米英の連合国、日独伊の枢軸国、双方ともジェット機の開発にしのぎを削っていたのです。中でもドイツと先陣を競っていたのがイギリスでした。そこで、Me262とほぼ同時期に実戦配備され、のちのジェット戦闘機に大きな影響を与えたグロスター「ミーティア」にスポットを当てて見てみましょう。
試作型のF.1、F.2に続き本格的な生産型として第2次世界大戦中に実戦配備された「ミーティア」F.3(画像:パブリックドメイン)。
各国がジェット機の開発に乗り出すきっかけとなったのは、イギリス空軍の士官だったフランク・ホイットルが1929(昭和4)年に出したひとつの特許でした。とはいえ当時、ホイットルのジェット・エンジンはイギリス本国では注目を集めなかったため、1935(昭和10)年に特許は失効しています。
その後、ドイツでジェット戦闘機の開発が始まったのは1938(昭和13)年のこと。翌1939(昭和14)年にはハインケル社が単発のジェット・エンジンを搭載したHe178で初飛行に成功しています。
この成功を受け、同年1月にドイツ航空省はメッサーシュミット社に新たなジェット戦闘機の開発を指示しました。
ドイツのメッサーシュミット社でジェット戦闘機開発が始まったのと同じ年、イギリスでは、前出のフランク・ホイットルが理解者の協力を得て、グロスター社とジェット機の製造契約にこぎつけます。ここに至ってようやくイギリス航空省は、ジェット戦闘機および新しいジェット・エンジン「パワー・ジェット」に関する開発契約をグロスター社と結ぶに至りました。
こうして、イギリス初のジェット機となった最初の試験機グロスターE28/39は、1941(昭和16)年5月15日、初飛行に成功しています。
初戦果は “巡航ミサイルの撃墜”
ただ、初期のジェット・エンジンは推力が低かったため、単発のHe178やE28/39は実用に適さず、独英ともに双発化することで必要な推力を賄う方策を採ります。とはいえ、ドイツのメッサーシュミット社におけるジェット戦闘機開発では、実用的なジェット・エンジンの開発に難航したことから、試験飛行はピストン・エンジンを搭載した機体で行い、1942(昭和17)年7月にジェット推進による初飛行にこぎつけています。
ところが、ヒトラーはのちにMe262となるこのジェット機を迎撃戦闘機ではなく対地攻撃機として使用するよう命令したために、実戦配備が大幅に遅れる悪影響が出ました。
ドイツのMe262の実戦配備が遅れる中、イギリスのグロスター「ミーティア」初号機は1944(昭和19)1月12日に初飛行へとこぎつけます。その後、試験飛行を経て改良が重ねられ、実戦部隊で運用が始まったのは同年7月17日でした。
本来の迎撃機としての運用に戻されたMe262は、同じ年の4月から試験部隊で運用が始まっており、7月26日にイギリス空軍の戦闘機を損傷(被弾後に機体は喪失)させ初戦果を挙げています。
第2次世界大戦中にイギリス本土を飛行するイギリス空軍第616飛行隊の「ミーティア」試作量産型F.1(画像:イギリス帝国戦争博物館)。
同時期、6月6日のノルマンディー上陸作戦で、米英を主体とした連合軍はフランスに橋頭保を確保します。しかし、イギリス空軍はグロスター「ミーティア」をフランス上空に飛ばそうとはしませんでした。その理由は、ジェット・エンジンは燃料消費が大きいため航続距離が短く、また万一墜落してドイツ軍に機体が捕獲されるのを恐れたからです。
結果、「ミーティア」はイギリス本土の防空のみの使用に限定されました。そのため、「ミーティア」の初戦果は、イギリス本土に飛来したドイツのV1巡航ミサイルに主翼を引っかけて墜落させた、というものでした。
連合軍がドイツ占領地域の制空権を握った1945(昭和20)年1月、「ミーティア」はオランダに配備され、4月にはドイツのファスベルクに進出します。このころにはドイツ空軍の抵抗はほとんどなくなっており、時折飛んでくるレシプロ機との戦闘で戦果を挙げるも、英独ジェット戦闘機同士の対決は実現しないまま終戦を迎えました。
凡庸だけど残した実績は大きかった「ミーティア」
一方、アメリカは、1944(昭和19)年1月8日に同国初のジェット戦闘機となるロッキードP-80「シューティングスター」を初飛行させています。同機は1945(昭和20)2月から3月にかけて2機がイタリアに配備されたものの、実戦を経験せずに終戦を迎えました。
後退翼が主流になる戦後のジェット戦闘機に比べると、「ミーティア」は従来の設計に基づいた凡庸な機体でした。ゆえに、イギリス空軍は後継機となるデ・ハビランド「パンパイア」の調達に軸足を移すようになります。それでも「ミーティア」の改良型は対地攻撃機や偵察機など多岐にわたる任務で用いられ、イギリスだけでなく、大戦中に連合軍だったフランスを始めとした国々や、旧植民地のエジプト、シリア、イスラエルなどで1960年代初めまで運用されました。
また大戦終結の5年後に起きた朝鮮戦争(1950〜53年)では、初期にオーストラリア軍が最前線の制空任務に投入し、やがて戦場にアメリカのF-86「セイバー」戦闘機が登場すると、対地攻撃や偵察機として活動しています。
大戦末期の1945年3月に、イギリス空軍第616飛行隊の分遣隊としてベルギーに配備され、敵味方識別用に白い塗装をした「ミーティア」F.3(画像:イギリス帝国戦争博物館)。
「ミーティア」は、直線翼の機体形状で凡庸な設計であり、なおかつ第2次世界大戦中に目立った戦果を上げることもなかったため、ライバルだったドイツのMe262に比べると地味に思えるかもしれません。しかし大戦後、各国軍によって運用され続けたため、その実績はMe262よりも大きく、そういう意味では戦後のジェット戦闘機の開発史における重要な機体であったことは間違いないでしょう。
ちなみに、ロールスロイス社の遠心圧縮式ターボジェット・エンジン「ニーン」(「ミーティア」はこの小型版「ダーベント」を搭載)は、アメリカのプラット&ホイットニー社がライセンス生産し、グラマンF9Fパンサーに搭載されたほか、旧ソ連(ロシア)には少数供与されたのちにデッドコピーされ、その発展型エンジン「VK-1」は大量生産されてMiG-15やMiG-17に搭載されました。
加えてVK-1は中国も「渦噴5型」の名称でコピー生産しており、その意味ではイギリスのジェット・エンジン技術が各国の航空機開発技術に与えた影響は大きかったと言えるのではないでしょうか。