製造1.5万機以上! 傑作飛行機「DC-3」メガヒットにはカラクリが “純正機”は実はごくわずか?
かつてあった航空機メーカー、ダグラス社の傑作機「DC-3」は、1万5000機以上のメガヒットを記録しました。ただ、これにはちょっとしたカラクリが。この機の軌跡を見ていきます。
1935年12月17日「ダグラス寝台機」として初飛行
かつてアメリカで、ボーイング社と双璧をなすアメリカの航空機メーカーだったダグラス社の傑作機のひとつが、1935年12月17日に原型機が初飛行したプロペラ機の「DC-3」です。初飛行は「Douglas Sleeper Transport(ダグラス寝台機)」として飛び、その後各種派生型含め1万5000機以上が製造されました。なぜここまで多くの機数が製造されることになったのでしょうか。
日本ヘリコプター輸送時代の飛行機、ダグラスDC-3。「日ぺリ航空」という会社愛称が機体に書かれている(画像:ANA)
DC-3は、胴体の下部に主翼を配置し、主翼上面のピストン・エンジンに3枚のプロペラを取り付けた推進装置を各1基装備するスタイルで、双発プロペラ輸送機の代表形といえます。脚は尾輪式のスタイルをとっているため、接地姿勢は機首が上を向いています。全長は約20m、全幅約30mで、飛行速度は300km/h以上、飛行距離は約2500kmといったスペックです。客席は左右に通路を挟んで2-2列がスタンダードで、32席を設けることができました。
1930年以前の旅客機は、主翼や胴体が布張りであったり、木製の構造を採用したりするのが一般的でした。ただ、雨が降った場合に格納庫へ収納しないと、機体に不具合が生じ、実際に事故も起きていたことから、機体を金属で構成するニーズが高まってきました。
そこでボーイング社では247を、そして当時まだ新参メーカーだったダグラス社ではDC-1という金属製旅客機を開発。DC-1は1機のみの製造にとどまったものの、ダグラス社はDC-1をベースに胴体延長などのアップデートを加えたDC-2を開発し量産しました。
そのDC-2をベースにさらに強力なエンジンを搭載し、よりいっそう機体を大きくしたのがDC-3です。大型のDC-3の方にニーズが集まったため、DC-2はヒット機にはならなかったものの、その堅牢な設計から好評で、これがDC-3のメガヒットにもつながったともいえるでしょう。
ただ、DC-3がここまで多く作られたのは、これだけが理由ではありません。
実は「純DC-3」は600機だけ?メガ・ヒットとなったカラクリ
実は、純粋な「DC-3」は約600機しか製造されておらず、1943年に生産を終了しています。ただ、この機は軍事転用され、さまざまな国で作られることになり、それがメガヒットにつながったのです。
アメリカ海軍のC-47輸送機。写真は1966年、ベトナム戦争中のベトナム上空にて撮影されたもの(画像:アメリカ海軍)。
アメリカ陸軍航空隊では、「DC-3」がC-47輸送機として採用され、物資輸送や落下傘部隊の降下用に使用。最終的には1万機以上が製造されました。また、日本でもライセンス生産され、第2次世界大戦中には零式輸送機として500機近くが製造されています。
しかも、これらの「軍用版DC-3」は大戦が終結すると、再度旅客機として改修され、民間航空の世界に“出戻り”することになりました。つまり、民間仕様含め、ほとんどのDC-3はC-47を民間登録したり、DC-3にC-47のパーツを使用したりする「軍用輸送機出身」の機体ということになるのです。
話をこの機の初飛行を戻すと、12月17日はライト兄弟による人類初の動力飛行から32周年を迎える日で、あえてこの日が選ばれたそうです。ちなみに、「DC-3」のもととなった「ダグラス寝台機」はその名のとおり、アメリカ大陸を横断するには、途中複数回の給油と長時間の移動となることから、14台の寝台を備えた「オール寝台旅客機」仕様としていましたが、量産型では座席のみとするのが標準的となりました。