“あと1年早ければ…”遅れてきたジェット戦闘機「Me 262」背景にはヒトラーの横やりも
第2次世界大戦末期、ドイツ空軍はメッサーシュミットMe262を投入します。同機は世界初の量産ジェット戦闘機で、連合軍機を圧倒することになりますが、登場時期が遅すぎたため、もはや戦局を変えるには至りませんでした。
史上初めて実戦配備されたジェット戦闘機
1903(明治36)年12月17日は、アメリカのライト兄弟が実用的な航空機「ライトフライヤー号」を初めて飛ばした日です。その機体はプロペラ推進で木製部品が主な複葉機でしたが、そこから約40年で人類はジェットエンジン推進の航空機を開発するという目覚ましい進化を遂げます。
航空機の歴史上、初の実用ジェット機として登場したのは戦闘機でした。それがドイツのメッサーシュミット Me262「シュヴァルベ」です。1944(昭和19)年の6月に運用が開始された同機は、第2次世界大戦末期のドイツ本土防空戦などで、それまでのプロペラで飛行する、レシプロ戦闘機を圧倒する性能を見せつけました。
世界初の本格的なジェット戦闘機であるMe262(画像:アメリカ空軍)。
まず、同機は双発のジェットエンジン戦闘機ということで、一般的な単発レシプロエンジン機のようなプロペラが機首にありません。これにより、命中精度から考えた場合、機体中心線に最も近い理想的な位置といえる機首部分に機関砲を集中配置することができました。しかも搭載されている機関砲MK 108は、口径30mmという、当時の水準で考えると、戦闘機用の機関砲としてはなり威力の高いもので、それを4門、機首に集中配置していました。これにより威力は絶大で、アメリカのB-17やイギリスのアブロ「ランカスター」など、連合軍が運用する大型4発爆撃機を相手にしても数発の命中弾で撃墜することが可能でした。
MK 108は、ほかにもレシプロエンジン双発機のBf110などにも搭載されていましたが、速度の関係で満足な性能は発揮できていませんでした。しかしMe262は約870km/hという当時の水準では超高速といえるスピードで敵機の編隊上空から急降下して撃墜する、いわゆる「一撃離脱」戦法をとったため、戦闘機としての性能を最大限に発揮しました。
加えてMe262は、30mm機関砲のほかにも「R4M」と呼ばれる空対空ロケット弾を主翼左右のラックに計12発ずつ、計24発を搭載することができました。ロケット弾には誘導装置などついていないため、命中は運頼みとなりますが、1発当たれば一撃で爆撃機を撃墜することが可能でした。
攻撃後は、その速度を活かして離脱します。同機の最大速度に追いつける戦闘機は連合軍にはなく、爆撃機を攻撃された後、護衛の戦闘機が迎撃態勢に入っても間に合わなかったといわれています。
超高性能で先進的! しかし……
ほかにもMe262は、後に続くジェット戦闘機の基本となる構造を備えていました。まず主翼が直線翼ではなく、後退翼で、主翼面積が小さく薄いため高速性に優れていたとされています。当時、レシプロ戦闘機などで主流だったのは直線翼でした。ゆえに、同時期にアメリカやイギリスで開発されていたジェット機、たとえばベル P-59「エアラコメット」やグロスター「ミーティア」などもその影響を受けて直線翼を採用していたため、機体構造的には古さを感じさせるものでした。
アメリカ軍で飛行テストされるMe262(画像:アメリカ空軍)。
とはいっても、Me262が後退翼になったのは、始めから性能の向上を目指したからではなく、試作の段階で搭載を予定していたエンジンBMW 003が現状の設計ではつけられないと判断されたからです。つまり、やむをえず後退翼にしたといえ、たまたま変更したことが良い方向に行った形です。
さらに、開発されたばかりの射出座席も搭載していました。今では戦闘機のスタンダードになっている、座席ごと搭乗者を射出して脱出させるあの装置を第2次世界大戦中に実用化し、標準装備していたのです。ジェット機のような高速で飛ぶ機体では、パイロットが自力で脱出するのは困難という理由から搭載されました。
Me262が戦場に姿を現すと、連合軍爆撃隊は物理的にも心理的にもダメージを受けたと言われています。ただ、本格的な実戦参加は1945(昭和20)年に入ってからであったため、ほどなくしてドイツ自身が敗戦となり、戦局に影響を与えるほど大きな戦果を出すことなく運用を終えています。
実は、同機は当時の戦況以外にも、様々な要因の影響を受け、開発が遅れた経緯があります。たとえば、アドルフ・ヒトラーが開発当初に戦闘機ではなく戦闘爆撃機として使いたいと言ったことなどが挙げられます。もし、開発がスムーズに進んでいたら、1年ほど早く運用が開始されていたのではというハナシもあります。
また、Me262の弱点としては、低速での機動性が悪かったというのが挙げられます。そのため、無防備な離陸途中を狙われるとひとたまりもなかったとか。さらに、撃墜が困難ならば納品される前に破壊してしまえという連合軍の戦法もあり、工場で製造中や移動中に銃爆撃で破壊された機体も多かったそうです。それでも終戦までの総生産数は約1400機といわれており、敗色濃厚なドイツ軍の中で、最期の輝きのひとつとなったのは事実でしょう。
なお、戦後は、アメリカやソ連が同機を接収し、戦後開発された第1世代ジェット戦闘機である、F-86「セイバー」やMiG-15などに大きな影響を及ぼすことになります。ただ、ドイツ自体は戦後直後に軍が一度解体され、国家自体も東西に分裂した影響などから、ジェット戦闘機を生み出すのは西ドイツ(当時)がイギリスやイタリアなどと「トーネード」の共同開発に関わる1970年代くらいまで、時間がかかっています。