連載「斎藤佑樹、野球の旅〜ハンカチ王子の告白」第20回

 早実が夏の甲子園で初優勝を遂げ、斎藤佑樹は一躍、時の人となった。ハンカチフィーバーはとどまるところを知らず、深紅の大優勝旗を手土産に母校へ凱旋するハンカチ王子を一目見ようと、東京駅には約1000人、早実のお膝元である国分寺には約3000人もの人が集まる騒ぎとなった。


夏の甲子園で優勝し、一躍、時の人となった斎藤佑樹

マスコミってここまでするんだ

 優勝してからの記憶はぽっかり抜け落ちているんです。試合が終わってすぐ、佐々木(慎一、早実の野球部部長)先生がポンポンと背中を叩いてくれました。で、「お疲れさま」とひと言だけ......その言葉を聞いた瞬間、涙が溢れてきました。そこまでは記憶に残っています。

 僕は1年生の時から佐々木先生にずっとお世話になってきました。1年の時の担任で、朝早くから補習をしてもらった。群馬から国分寺へ通っていた時、野球以外のことでも本当にお世話になりました。その佐々木先生がいきなり優しい言葉をかけてくれて......いつも寡黙で、あまり感情を表に出さない人なんです。だからものすごく心に染みて、思わず泣けてきてしまいました。

 その次の記憶は、国分寺の学校へ戻ってきた時まで飛んでいます。バスの中だったので昼だったか、夜だったか、それさえもよく覚えていません。学校の周辺は閑静な住宅街なのにものすごくたくさんの人が集まって、テレビカメラもたくさんいたと思います。

 最初は甲子園で優勝するというのはこういうものなんだろうなと思っていました。凱旋した僕らを、地元の人たちはこんなふうに喜んで迎え入れてくれるんだと思って、すごくうれしかったんです。

 でもその翌朝、まず家を出る時に驚かされました。外にカメラマンがいたからでした。アパートの場所もバレていて、家を出た僕を通学路で待ち伏せしていました。駅の手前に踏み切りがあって、その踏み切りは開いているのになぜかひとり、ぽつんと立ち止まってタバコを吸っている人がいたんです。そんなこと、あり得ないじゃないですか。何をしているんだろうと思ったら隠し持っているカメラが見えて......あの時は恐怖さえ感じました。なにしろまだ高校生ですから、マスコミってここまでするんだと思って、怖くなりましたね。

 次の日の朝も、その次の日の朝もカメラマンがたくさんいて、それまでは普通に登校していたのに、学校の先生が送り迎えをしてくれるようになったんです。

 僕は有名になりたかったわけではないし、聖人君子のような生活をしていたわけでもなかったので、いつも見られている毎日はものすごくストレスでした。今まで買い食いしていたパン屋さんにも行けなくなって......その分、周りのみんながすごく気を遣ってくれました。みんなで一緒に行ってたんだから斎藤だけを置いて行けないよなって。「ああ、そんなこともできないんだなぁ」と思うことの連続で、家と学校をただ往復する生活を強いられてしまいました。

もし早実からプロに行っていたら

 やがて、僕の進路が注目されるようになります。プロか大学か......迷いは、もしかしたら一瞬だけならあったかもしれません。僕は高3の春のセンバツに出てからプロへ行きたいと思うようになりました。

 もしもプロの世界が野球だけでなく、スポーツビジネスやバイオメカニクスの勉強ができたり、英語を学べたり、そういう環境だったら高校を卒業する時にプロを選んでいたかもしれません。

 高校時代、僕は勉強ができていなくて、このままじゃダメになるとずっと思っていました。もしこのままプロになったら、野球も含めて何の武器も持たない大人になってしまうんじゃないかという不安がずっとあったんです。だから、高校を卒業する段階ではプロを選ぶことはできませんでした。

 もうひとつ、当時のドラフトに高校生も逆指名できるルールがあったら、揺れていたかもしれません。1パーセント程度の可能性だったかもしれませんが、プロの話は聞いてみたいという思いはありました。

 このチームに行きたかった、という意味での逆指名ではなく、事前の面談で育成方法とか野球以外の環境とか、そういうことをちゃんと聞いてみたかったんです。そういう機会があったら、プロを考えたかもしれません。

 現実的ではないかもしれませんが、たとえば4年間、eスクール(通信教育課程)に通いながらプロとして野球ができるという環境を許してもらえたら、そちらを選んでいた可能性もあったと思います。

 早稲田大学の人間科学部には当時もeスクールはありましたし、そういう可能性を探ることもできずにプロか進学かを二者択一で決めなければなりませんでしたから、大学へ行きたいという気持ちが大半だった僕にプロを選ぶことはできませんでした。だから(9月11日)高校での進路表明会見で、僕は大学への進学希望を正式に表明しました。

 もしあの時、プロへ行っていたらどうなっていたんでしょうね。いろんな人から言われましたよ、高校からそのままプロへ行っていたらって......ポジティブに想像するなら、3年以内に一軍で3勝ぐらいはできていたのかな。当時の僕なら平気で30勝とか口にしていたかもしれませんね(笑)。

野球人生初のボタンのかけ違い

 甲子園で勝った直後は野球に関しては何でもできると思っていましたし、けっこう調子に乗っていましたからね。ただ、あらためて振り返ってみると、夏の甲子園のあと、僕の野球人生で最初のボタンのかけ違いがあったような気もするんですよね。

 甲子園が終わってすぐ、高校日本代表に選ばれてアメリカへ遠征したんです。早実からは後藤(貴司)と船橋(悠)、駒苫のマー君(田中将大)や本間(篤史)、ピッチャーは鹿児島工の(榎下)陽大、東洋大姫路から乾(真大)、八重山商工の金城長靖、福知山成美の駒谷(謙)が選ばれていました。

 その時、野球の殿堂があるニューヨーク州のクーパーズタウンへ行きました。(オツェゴ)湖があって、球場(ダブルディ・フィールド)も気持ちよくて、日本では感じられない感覚を味わいました。甲子園で戦ったみんなと試合ができる喜びもあったし、終わってからみんなで一緒にごはんを食べた時も楽しかった。

 僕は第1戦(米国東部選抜チームとの日米親善試合)に先発した(4回を投げて被安打4、毎回の8奪三振、無失点)んですが、あの時、技術的な感覚がズレてしまったんじゃないかと思うことがあったんです。

 夏の甲子園の僕が投げる変化球は、ほとんどがスライダーでした。フォークはたまに投げるくらいだったのに、アメリカではフォークばっかり投げました。それはフォークの調子がものすごくよかったからでした。甲子園のマウンドはすごく軟らかいのに、アメリカのマウンドって硬いじゃないですか。その硬いマウンドに適した投げ方をすると、フォークがやたらと落ちてくれるんです。それでフォークの味を覚えてしまって......でも、それが落とし穴でした。

 僕のなかでは「調子いいじゃん」って感じだったんです。新しい自分を見つけた、とも思っていました。甲子園ではストレートとスライダーだけで勝った、でもアメリカでさらにフォークを覚えた......大学へ進んでその先、プロに行くためには新しい変化球を増やさなくちゃいけないと思っていましたから、すごくうれしかったんです。でも、じつはあれで自分のリズムが変わって歯車がズレ始めていたのかな、と思うようになりました。

 最近になってトラックマンのような計測機器がいろいろ出てきて、今まで可視化できなかった自分のピッチングをデータで見ることができるようになった時、僕の得意球は何だろうと思って見てみたんです。そうしたら、フォークの回転数とか回転軸がすごくいい感じでした。ああ、フォークがいいんだと思って投げていたら、いい数字が出た時って肩に負担がかかる感じがあったんです。

 そういえば......と思い返してみたら、フォークを落としにいくためにそういう投げ方をして、実際にすごく落ちている時って負担がかかる投げ方をしていたんですよね。トラックマンのデータがなかったら気づかなかったことかもしれませんけど、アメリカで投げた時にフォークの味を覚えてしまったということが、その後にいっぱいあったボタンのかけ違いの最初だったのかもしれません。

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 斎藤は早稲田大学教育学部に合格、神宮のマウンドを目指すことになった。そして背番号16の大学1年生は、東京六大学野球の春季リーグ戦でいきなり日本中をあっと言わせることになる。

(次回へ続く)