門田博光が回想する村田兆治とのマンガの世界のような真剣勝負。「フォークの握りを見せてから放ってくることもあった」
「病院でテレビ見とったら、兆治の家が燃えてる言うから、なんかいなと思うとったら......元気でやっとると思うとった人間が、まさかや」
村田兆治さんが亡くなり1週間が過ぎた日の午後。ホテルのミーティングルームで会った門田博光は、ずいぶんと疲れているように見えた。自らも病院通いが続き、そこへ同時代を戦ったライバルの突然の訃報。気分が沈んでいることは、その口調からも十分伝わってきた。
「一酸化炭素というのは、ある程度吸ったら意識がなくなるんか? おそらくは苦しまんと逝けたということかいな」
門田も過去にボヤを起こし、気づくのがあと少しでも遅れていれば......という経験をしたことがある。酒を飲みながら趣味の油絵を描いていたところウトウトとなり、目が覚めた時には足がストーブにひっつき燃えていたのだ。
「兆治もアホなやっちゃで。ほんまに何をしとるんや......」
精一杯の明るさをつくりながらも、本心は泣いていた。今年9月に羽田空港でのトラブルが報じられた直後にも門田のもとを訪れ、村田の話をしたばかりだった。それからしばらくして、再び村田の話をすることになるとは......想像もしなかった。
70年代から80年代にかけてパ・リーグを盛り上げた門田博光(写真左)と村田兆治
門田と村田は、1970年代から80年代にかけて、閑古鳥が鳴くグラウンドでプロのプライドをかけ、真っ向勝負を繰り返した。セ・リーグとの格差をボヤきながら、ともに「実力のパ」を築き上げていった戦友でもあった。
「兆治は東京の家にひとりで住んどったんか?」
門田はごく断片的な情報しか持っていないようだった。夫人は親の介護のため数年前から神戸に移り、子どもたちは独立し、村田は東京でひとり暮らし。報道している内容を伝えると、「わしと似たようなもんやったんやな」と声を落とし、「たぶん、ここも一緒やな」とスポーツ新聞の記事の文中にあった"孤独"の二文字を指した。
「東京で仕事もあって元気にやっていると、見える部分と見えん部分が、誰にでも両面があるんや。ピラミッドの形を想像すればわかるやろ。頑張って上に行けば行くほど、横のつながりがなくなって、道を極めた者はみんな孤独になっていくんや。オレも兆治も、そういう道を選んだんやけど、だんだんと本音を言える相手もおらんようになって、奥さん連中とも......寂しいもんやな」
今回の一件に際し、村田の近況を伝えた報道からも孤独感が伝わり、そうした記事を目にするたび門田の今と重なってきた。
ともに生粋の職人気質。「村田さんと同じ匂いがします」と向けると、「そらそうや、2つ歳が違えば口もきけない、チームメイトでも敵だらけという時代のプロの世界で突き抜けてきた者同志や」と返ってきた。
己の技術をひたすら磨き、頂点を極めた、まさに頑固一徹。しかし、プレーのイメージとは裏腹に、繊細な神経の持ち主であるレジェンドたち。ユニフォームを脱いだ瞬間からその一徹さが時に仇となり、生きづらさとなってついて回ったことは容易に想像がつく。
「年代もほぼ同じの野球バカや。今の選手みたいに"バラエティ"はできんかったんや。オレも兆治も真面目の真面目。言い換えれば、融通が効かん。『もうちょっと柳の木みたいに曲がりなさいよ。揺れたらラクですよ』って言われてきたけど、できんのや。兆治に比べたらまだオレのほうがユニフォームを脱いだあと、少しコメディになれたやろうけど、彼はいくつになっても『140キロを投げる』ってマサカリをやっとったんやからな。中身は大エース・村田兆治のまんまやったんやないか」
報道では、かつて夫人が村田を評して使ったという「昭和生まれの明治男」のフレーズなども用いられ、頑固さ、厳格さが伝えられた。そんないくつかの記事のコピーを渡すと、門田は首をひねりながらこう語った。
「こんなもんみんな一緒やないか。(山田)久志も(鈴木)啓示も、みんな負けず嫌いの塊で、誰よりもプライドが高くて、誰よりも繊細。そうやなかったら、あの時代のプロの世界で200勝は当たり前というレベルでやれるかいな。みんな『オレが一番』『オレが大将や』と言うとったヤツばかりや。まあ、こんなこと今の人になんぼ言うてもわからんやろうけど」
プライドをかけた真剣勝負ここからしばらく同世代を生きたエースたちとの話題が続いた。すると、そのなかで門田は村田とほとんど会話らしい会話をしたことがないという話になった。こっちが驚いた反応を見せると、逆に「なんでや?」と不思議そうな顔で返してきた。
「どこでしゃべるんや? 試合前、近くにおったとしてももちろん素通りや。絶対に話なんかせえへんし、顔も合わさん。見るだけで崩れてしまうんや。これから戦う相手、ふだん戦っている相手となんでニコニコしながら話ができるんや。話なんかしたら、オレの性格上、戦えなくなるし、向こうもそう思うとったはずや」
お互い現役を終えたあとに話すことはなかったのだろうか。
「食事なんかもちろん行ったことないし、対談なんかもしたことがない。ほんま兆治とはしゃべった記憶がないわ」
門田の話には、時折、おそらく事実がつくられたであろうと思うものがあり、さすがに一言二言の会話はあったに違いない。だから正確には、しっかり話す機会がなかったということなのだろう。いずれにしても、今とは明らかに違う時代背景を想像しながら頷いていると、思い出したように「でも1回だけあったわ」と言ってきた。
「お互い20代の時に、四国の試合で兆治からホームランを打ったんや。彼にしたら100%狙いどおりの膝もとへのスライダーやったらしい。それをオレが腕を縮めて、体を回転させてスコーンとライトスタンドへ放り込んだ。これに兆治が『あのコースをホームランにされるのか』とえらいショックを受けて、そこからフォークを磨くようになったそうなんや。
村田兆治にフォークを覚えさせたのはオレやという話なんやけど、これを本人から聞いたことがあった。『あのボールは失投じゃなかったんですよ』と。よそでもしゃべっとったらしいから、よほど悔しかったんやろうな。でも、兆治としゃべったのはその時だけや」
この村田からの技ありの一発は門田のお気に入りのエピソードで、これまで何度も聞いたことがあった。ただ門田が村田と会話をした記憶は、この一回限りだというのは初めて聞いた。
ちなみに引退後、名球会のイベントでも会話をした記憶はないと門田は言った。
「入会して、4年もしたらオレが名球会のイベントに顔を出さんようになったから、いよいよ話をする機会はなしや」
フォークを覚えてからの村田を門田は「第二の村田兆治」と呼び、「ほとんど打てんようになった」と言って笑った。
「フォークの握りを見せてから放ってくることもあったわ。こっちは打席から『兆治、野球はまずストレートやろ!』って言うて、真っすぐを投げさそうとしたりな......。漫画の世界やろ?(笑)。兆治のフォークは、人差し指、中指のかかり方で揺れながら外に落ちたり、内に入りながら落ちたり、厄介な球やったんや」
たまに軽打でレフト前に弾き返したくなることもあったが、一度もしなかった。
「2番を打っとった新井(宏昌)がカチーンとレフト前に打ったりして『ええな』と思うんやけど、オレがそれをやったら兆治との勝負は終わってしまう。いつでもこっちはホームランを打つスイングをして、向こうは空振りをとる球を投げる。それがオレらの勝負やったから。そう思うたら苦しめられたけど、楽しい勝負をさせてもらった。ええ時代やったわ」
村田兆治に聞きたかったことそして話は引退後の話になった。
「オレはゼロやけど、兆治もコーチをやったのは一回だけやろ。王(貞治)さんが九州で監督をやった時や。でも、そこで体壊してな。オレらの哲学を持って、若い選手らに教えるのは大変やったんやろう。生きてきた世界も、目指す世界も違うんやから。コーチを辞めて、そのあとからか、島をめぐって子どもらにか......」
村田はその遺伝子を離島の子どもたちに授けようと、2008年からライフワークとした。野球少年たちの純な心は、村田にとって最高の癒しだったのだろう。人混みを避けるように離島の野球少年のもとへと向かうその姿に、人づき合いに疲れ、山間の町へ越してきた門田とまた重なった。
「でも兆治は、まだ教えられる相手がおってよかったやないか。オレなんかなんもないまま、もう片足は棺桶や」
たっぷりとライバルとの思い出話を語った最後、門田はしみじみとした口調で叶わぬ思いを口にした。
「野村(克也)のオヤジが解説なんかやりながら、『昔のプロ野球を見たい』ってボヤく時があったけど、兆治は最近のプロ野球をどう見とったんやろうな。彼はひたすら『ほんまもん』って、そればかりを求めとった男や。それが今のバラエティが混じってきたようなプロ野球をどう見とったんか。もう聞かれへんど、聞いてみたかったわ」
今とは「エース」と「4番」の定義が違った時代。男のプライドがダイレクトにぶつかりあった昭和のパ・リーグの戦いの景色が、切なくも眩しく思い出された。