昭和の名選手が語る、
"闘将"江藤慎一(第8回)
前回を読む>>江藤慎一の専属バッティング投手だった大島康徳。打撃練習なのにニューボールを使う決まりごとに驚いた

1960年代から70年代にかけて、野球界をにぎわせた江藤慎一という野球選手がいた(2008年没)。ファイトあふれるプレーで"闘将"と呼ばれ、日本プロ野球史上初のセ・パ両リーグで首位打者を獲得。ベストナインに6回選出されるなど、ONにも劣らない実力がありながら、その野球人生は波乱に満ちたものだった。一体、江藤慎一とは何者だったのか──。ジャーナリストであり、ノンフィクションライターでもある木村元彦が、数々の名選手、関係者の証言をもとに、不世出のプロ野球選手、江藤慎一の人生に迫る。

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1969年、名将・水原茂は中日の監督に就任した(写真は1970年の様子)

 ここで日本のプロ野球(当時職業野球)の草分けである水原茂が、1969年に中日の指揮官に就くまでの経緯をさらってみる。 

 水原は高松商業から慶応大学へ進み、花形三塁手として鳴らした後、満州は奉天の自動車会社に就職していた。給料は本給60円に植民地手当60円がついて120円。大卒の初任給が65円程度の時代であったので、かなりの厚遇と言えた。

 そこへ大学の先輩である三宅大輔(当時東京倶楽部所属)が訪ねて来たのは1934年(昭和9年)の夏であった。「秋に読売新聞がベーブ・ルースを擁する大リーグのチームを日本に招いて試合をすることになり、迎え撃つ全日本チームを作ることになった。ついてはぜひ君にも参加してもらいたい」。そして「このチームは対戦後も解散せずにそのまま職業球団になる」とつけ加えた。大日本東京野球倶楽部、巨人軍の誕生である(三宅は巨人の初代監督に就く)。

 勤め人に馴染めずにいた水原に異論はなく、すぐさま内地に戻って、日本初のプロ野球球団に入団する。来日した大リーグのチームとの試合は全敗を喫するが、オーナーの正力松太郎の意気は高く、翌年2月にはチームの愛称をジャイアンツとし、武者修行としてのアメリカ遠征が敢行された。「大リーグに追いつけ、追い越せ!」がスローガンだった。

 この時、ロシア、ロマノフ王朝の将校コンスタンチン・スタルヒンの息子、ヴィクトル・スタルヒンが日本のエースピッチャーとして帯同していた。亡命白系ロシア人二世のスタルヒンは北海道・旭川中学で活躍しており、本人は学生野球を続けたかったが、読売に目をつけられ、巨人軍への入団を迫られた。読売からの圧力はすさまじく、この勧誘には、右翼の巨頭・頭山満までが登場し、最後は強制帰国をさせるとまで脅されて、職業野球入りを余儀なくされた。すでにソ連では、独裁者スターリンが君臨しており、故国に帰れば、スタルヒン一家の重刑は火を見るよりも明らかであった。このスターリンの存在は後の水原の半生にも大きな影を落とすことになるのだが、それはまだ先の話。

 巨人軍を乗せた秩父丸がサンフランシスコに入港する。選手たちが下船していくなか、スタルヒンは、ひとりだけ米国への入国を拒否されている。旅券が問題とされたのだ。スタルヒンは、国際連盟がロシア革命で流出した難民に対する救済措置として発行したナンセン・パスは持っていたが、これは日本入国においてのみ通用するもので、他の国には効力がない。政治難民の子である彼は、無国籍者のままであった。読売の政治力で米国訪問は許可されたが、まだ10代の若者には残酷な扱いであった。サンフランシスコ滞在中、水原はスタルヒンと同部屋であり、何かと面倒をみていた。

 巨人軍一行が米国遠征から帰国した1935年には、ふたつ目のプロ球団、大阪タイガースが設立。翌年には名古屋、東京セネタース、阪急、大東京、名古屋金鯱と続き、日本職業野球連盟が結成された。リーグ戦が始まると、水原は三塁のレギュラーとして、活躍を続ける。

 しかし、1937年日中戦争の勃発により、戦禍が職業野球にも覆いかかってきた。平時であれば、満20歳で軍務に服し、2年間で兵役から帰ってこられるが、開戦中であれば、除隊どころか、実戦での戦死すら覚悟しなくてはならない。巨人からは沢村栄治が兵隊にとられ、タイガースに至っては藤村富美男、山口政信、藤井勇、御園生崇男そして景浦将が入営していき、大阪の名門は崩壊した。

 1941年太平洋戦争に突入すると、年齢を問わず兵隊に呼ばれた。33歳となっていた水原のもとに召集令状が届いたのは、1942年9月1日。巨人の三塁手としてシーズンMVPを受賞した直後だった。水原は地元丸亀の歩兵12連隊に招集され、中国大陸に送られると、満州国虎林地区九三六部隊に配属された。8年ぶりの満州であった。

 半年ほどで上等兵に昇進すると、兵器委員室勤務となった。何とか帰国をしたく、内地帰還すると言われていた部隊への転属を画策したが、この工作が裏目に出て、九三六部隊は帰還し、転属先の部隊は満州に残って牡丹江の防衛にあたることになってしまった。8月9日にソ連軍が参戦するとの報が入り、13日には爆撃を受けた。「水原分隊は牡丹江に架かった橋を死守せよ」との命が下ったが、兵隊は12名しかおらず、ソ連戦車部隊を防ぐことなど到底できない。この時、水原は死を覚悟した。それでも決戦のための穴を掘っていたら、「橋は爆破して引き上げることになった」と命令の変更が伝えられて九死に一生を得た。

 1945年8月15日に敗戦を迎え、ようやく内地に帰れると安堵していたが、9月1日には、ソ連軍の軍使が来て武装解除を命ぜられた。かつて管理していた恩賜の武器を差し出し、ここから水原はシベリアに送られたのである。

 これで帰国できると思っていた兵士の身からすれば知る由もなかったが、日本軍捕虜のシベリア抑留は、スターリンによる「50万人の日本人をソ連領内に移送して労働させよ」という1945年8月23日の極秘命令によるものであった。第二次大戦によって約2000万人の死者を出したソ連にとって労働力の確保は急務とされており、スターリンは日本人捕虜の徴用を考えたのである。

 水原は氷点下30度に下がる極寒の地、シベリアに37歳で抑留された。ラーゲリ(収容所)では、何人もの仲間が凍傷、飢えで亡くなり、異国の凍った大地の下に埋められていった。栄養不足に加えて路盤掘りなどの重労働が重なり、結核、チフス、赤痢......、多くの病が発症した。倒れると簡易病院に運ばれるが、不衛生なために身体や衣服に潜り込んだ大量の虱(しらみ)が媒介となってさらに感染者が増えた。虱は取り憑いていた患者が亡くなると、また集団で音を立てて息のある者に移動する。凍傷になった者は麻酔もなしでその箇所を切断された。

 水原は巨人軍時代にアメリカ遠征をしていることがソ連兵に知られていた。この過去に対してスパイの嫌疑がかけられて、過酷な取調べを2度に渡って課せられた。関東軍の特務機関に所属していたことで、敗戦後、抑留されたカザフスタンで同じくスパイ行為の罪でソ連兵に取調べを受けていた石原吉郎によれば、そのやり方は、深夜の熟睡中を狙ってたたき起こされ、未明にかけて1週間連続して行なわれたという。「このやり方はソ連ではすでに伝統的なものである」(『石原吉郎詩文集』講談社文芸文庫刊)

 日中の強制労働に加えてほぼ2週間、睡眠を止められていたことになる。厳しかったのは、ソ連軍に強いられた労働の環境だけではなかった。

 シベリアラーゲリでは、あらゆる記録をつけることは禁止され、見つかれば処罰された。それにも関わらず、ここで起きた出来事を伝え残さねばならないという使命感から、名刺大の紙に「豆日記」を書き続け、命がけで持ち帰った画家の四國五郎によれば、敗戦によって解体されるはずだった「日本の軍隊」が、ラーゲリのなかでは温存されていたという。

 そこでは、戦時中そのままの階級が引き継がれており、上級兵士が気に食わない下級兵士を虐待していた。裸にして、水風呂に入れ、そのなかに氷や雪を入れて凍えさせるアイスクリームと呼ばれたリンチなどが存在していた。さらには飢えた上級兵士が下級兵士を食べた、という記録もあったという。絵本『おこりじぞう』(金の星社刊)の挿絵で世界的に知られる四國は、帰国後、上官によるイジメにより、ラーゲリで首を吊って死んでいた兵士を陶板に彫っている。

 当時の捕虜の給与は、1日で雑穀400グラム、パン350グラム、砂糖10グラムというのが定量だった。不惑の年齢に近かった水原はそんなシベリアで約3年間、必死に生き抜いた。

 満州のチャムスに駐屯中、ソ連軍の捕虜となった山下静夫は、自著『シベリア抑留1450日』(東京堂出版刊)のなかでラーゲリで水原に出逢った時のことをこう書いている。

「建物の一番入り口に近い二階の端に陣取った。一緒に来た、体のいかつい、私よりかなり年配の男と隣り合わせた。『よろしく。山下です』と挨拶した。『いや、こちらこそ。水原です』と返事が戻ってきた。私はその短い言葉に讃岐訛があることに気がついた。『訛りが香川県だと思うんですが、どちらでしょう』。年輩者への敬意を込めて尋ねてみた。すると、『わたしですか。高松です』と、口数の少ない返事。〈ああ、やっぱり〉(中略)そんな話の中から、この水原君がプロ野球巨人軍の水原氏ではなかろうかとふと思ったが、このシベリア生活で、そんな華やかな過去のことをひき出すのも憚られて尋ねるのを控えた」

 山下は慮ったが、やはり、この水原は巨人軍の正三塁手の水原であった。

 後に浪商野球部の監督になる中島春雄大尉は、何かと水原に便宜を図ってくれたが、捕虜に対しては、内地での名声、年齢など関係のない過酷な抑留生活であった。1948年になると、11月7日のソ連の革命記念日まで鉄道の敷設を完成させろというノルマが設定された。昼夜を徹して作業を続けて完成させると、ドラム缶一杯のウオッカがふるまわれた。そのまま帰還すると言われ、列車に乗りこんで喜んだのも束の間、再び、貨車から降ろされて、鉄道敷設の労働に駆り立てられた。またシベリアの冬を越さなければならない。何度目かの絶望が襲ってきた。

 1949年6月、水原はついに収容所の兵士から、「ダモイ(帰還)」と告げられた。7月2日、チュクシャから列車でナホトカに着いた。ここでアクチブと呼ばれるソ連共産党シンパの先鋭分子が、思想教育を行なった。アクチブの機嫌を損なうとたちまちシベリアに戻されてしまうので、収容者たちは、共産党万歳を叫び続けた。

 水原は順番を待ち、7月17日に英彦丸に乗り込んだ。船中でラジオを聞いたという乗組員から、プロ野球が復活し、川上哲治やスタルヒンが活躍している話を耳にした。水原は、まさか、と思った。戦前の職業野球は学生野球に比べて人気は低く、盛り上がっているとは、にわかには信じられなかった。船には手紙も届けられていた。その現役時代を知るはずがない岐阜の小学生からのファンレターがあった。「お父さんから、水原という名選手が帰ってくると聞きました。僕はタイガースフアンなので阪神でがんばって下さい」という文面。水原の帰還は国内でも話題になっていたのだ。

 京都の舞鶴港に帰国したのは7月20日、実に7年ぶりの祖国だった。検疫や帰国事務処理などでそこから3日を要し、さらに煩雑な手続きがあと4日ほどかかる予定であったが、迎えに来たプロ野球関係者は、7月24日に後楽園球場で行なわれる巨人対大映の試合に水原を登場させて、無事の帰還をファンに報告させたかった。

 当時は米軍統治下で、引揚者には、移動の自由もままならなかったが、巨人軍のアメリカ遠征時に対決した日系二世の選手、キャピー原田こと原田恒男が、GHQに務めており、彼が奔走して便宜を図ってくれた。水原は7月23日の夜行に乗り込み翌24日10時30分に東京駅に到着、その足で水道橋、後楽園球場に向かった。満員のスタンドが水原を驚かせた。

 かつて職業野球は、大学を卒業しても堅気の仕事に就けないものがする卑しき仕事として蔑まれ、巨人対阪神戦でさえ、2000人ほどの観客しか入っていなかった。それが、2万人は優に超える人々が集い、今、自分の帰還を祝福してくれているのだ。水原は、「水原茂、ただいま帰ってまいりました」とその一言を言うだけで胸が詰まり、それ以上は言葉にならなかった。こうして水原は日本球界に復帰した。

 水原はシベリアから帰国した翌年から、巨人の監督に就いた。1950年(昭和25年)から1960年(昭和35年)まで指揮を執り、11年間で8度の優勝を飾った。1961年(昭和36年)からは東映フライヤーズに移り、ここでもチームを初優勝に導き、7年の在籍期間中、すべてAクラスという成績を残している。

 そして一年のインターバルを経て、水原は1969年(昭和44年)から中部財界の後押しによって三顧の礼をもって中日ドラゴンズの監督に就任した。

 このシーズンから、江藤の弟の省三もまた期を同じくして、巨人から移籍していた。登録名は江藤慎一が江藤兄、江藤省三が江藤弟となった。

 省三の述懐。

「大学(慶応)時代は、実力的に自分はプロではなく社会人にいくものと思っていました。特にカネボウが創立50周年で選手を集めていましたから、卒業したらカネボウに行くつもりでした。ところが、第1回ドラフトで巨人に3位で指名されたんです。ドラフトにかかっちゃうと、何か自分がすごくうまくなったような錯覚がしますからね(笑)。それでプロ入りしたわけですが、兄貴(慎一)からは3年やって芽が出なかったら、野球を辞めて俺の会社を手伝えと言われていました」

 江藤慎一は首位打者を獲得した頃から、チームメイトのジム・マーシャルからの勧めもあり、副業として自動車整備工場を経営していた。

 省三の巨人軍3年間の通算安打数は3。自身でも見切りをつけて球団に退団を申し入れた。

「これからどうするんだ?と言われたんですが、兄貴が会社を手伝えと言うので名古屋に戻りますと言って帰りました。そしたら当時、中日スタヂアムの社長だった平岩(治郎)さんが『お前、たった3年で引退はもったいない。俺が中日の代表をやっていた頃、甲子園であんなに活躍していたじゃないか』と言って球団に取り次いで契約してくれたんです」

 退団は、当初進路が拘束される任意引退であったが、巨人は無償トレードのかたちにしてくれた。

 しかし、中日で再会した兄とは気安くベンチで話ができなかった。

「当時のプロ野球というのは本当に主力と控えの選手との差がすごかったんです。権藤(博)さんや板東(英二)さん、葛城(隆雄)さんなんかは、『おお、省三、よく来た』と話しかけてくれたんですが、むしろ兄貴とは、なかなか会話ができませんでした」

 江藤自身もそうであったが、当時は貧困や生活苦から抜け出すためにプロに入ってきた選手の集団でもある。年齢とは別に、レギュラーと控えの格差や待遇、チーム内でのナチュラルランキングは歴然としていた。それゆえに若い選手が抜擢をされ出すと、今以上にベンチには大きな緊張が走ったという。

 三顧の礼をもって迎えられた水原の采配に対して、選手たちから最初に起こった不満は入団1年目の島谷金二をサードのレギュラーとして使ったことであったという。その後、トレード先の阪急でクリーンナップを打ち、通算1514安打を積み上げた島谷の活躍を見れば、この若手起用は、結果的に間違っていなかったとも言えるが、ルーキーイヤーのこの年は、428打数で107三振を喫している(打率.210)。

 島谷はそもそも社会人時代はセカンドであり、なぜ前年に11本塁打を打っている徳武定祐(旧名・定之)や地元名古屋出身の伊藤竜彦を使わないのか。水原は、島谷の堅実無比な守備を買ったわけだが、周囲には同じ高松商業の後輩を偏愛しているように映った。

 もはや53年前の出来事ではあるが、当時のベンチ内を知る選手たちを取材すると、代表するかたちで水原の采配やチーム運営に対して直接声を出して異議を唱えていたのが、リーダーの江藤慎一であったと言われている。

 チームメイトであった板東英二は、遠征先の夜間外出を咎められて、1年間の外出禁止を試合前のミーティングで水原に突きつけられたが、江藤が「やる気がなくなるので、そういう話は試合後にして下さい」と皆の気持ちを代弁して盾を突いた。これが水原との最初の衝突であったという。

 そしてかような首脳陣批判がメディアを通して表面化したのは江藤も出場した真夏のオールスターゲームの時であった。選出されなかった選手たちは名古屋に残ってチーム練習に取り組むのだが、水原がこの球宴のテレビ中継にゲスト解説者として出演するため監督不在となった。選手間には、そのことに対する不満が溢れた。

 オールスターの初戦、東京球場でレフト場外に消える本塁打を放った江藤は水原のこの番組出演を痛烈に批判した。「監督がいないなかでどうやって残ったメンバーはチーム練習をするんだ。何でテレビなんかに出るのだ」という発言がマスコミに載った。江藤にすれば、選手の気持ちの代弁であったが、体面を重んじる水原の耳にも当然入り、以降、指揮官と主砲の対立は決定的なものとなった。

 当時を知る何人かの選手や、この確執を伝える記事を総合すると、このときに慶応閥で固められたコーチ陣のほとんどが、水原と選手のリーダーである江藤の間に立って水原に具申したり、調整できるような立場にはなく、溝はますます深くなっていったという。

 水原の先輩にあたる浜崎真二(元国鉄監督)は『週刊ベースボール』(ベースボール・マガジン社刊)のコラムでこう書いている。「お水(水原のこと)のほうから、選手の中へ飛降りていって、オレの考えはこうなんだと、話し合えるようにならねばうそだ。(中略)コーチが新参なのだから、お水の責任はよけい重くなってくるわけだ」

 省三もまた慶応のOBであり、このときの空気の悪さを語っている。

「代打の切り札の葛城さんや徳武さんたちが、ベンチ裏で必死に素振りして出番に備えている。僕はまだ若手ですから、そのスペースに行けないので、ベンチにいると水原さんは、僕を代打に指名するんですね。そりゃあ、先輩たちは怒りますね。実績のある人が一生懸命に振っているのに、座っていただけの監督の大学の後輩の若造が先に出て行く。水原さんはあとから、『試合を見ていないやつを使えるか』と言うんですが、それならそう伝えてくれる人がいればよかったのに、コミュニケーションが取れていなくて、最悪の雰囲気でした」

 起用される弟とは対照的に、スタメンから外されるというかたちで兄の慎一は干された。自宅から、球場に向かうクルマのなかのふたりは終始無言であった。やがて慎一は代打でさえ、起用されなくなった。9月28日の阪神とのダブルヘッダーでは、定位置のレフトを守ったのは、新人の菱川章であった。

 1試合目はルーキー星野仙一が村山実と投げ合い1対5で完投勝利を飾った。高木守道はこの試合で通算1000本安打を記録している。2試合目は、延長12回までもつれ、その間、いく度か中日はチャンスを迎えるが、都度、代打として告げられるなかに打撃10傑で6位に位置する江藤兄の名前はなかった。

 徳武、伊藤、新宅洋志、江藤弟らが先にバッターボックスに入り、最後、フォックスというテストで入団した貧打の外国人選手に代わってピンチヒッターに呼ばれたのが、この年の通算成績が7打数1安打の高木時夫だった。高木は凡打に倒れ、試合も2度同点に追いつきながら、最後は藤田平に3ランを打たれて敗戦となった。2年連続首位打者の江藤のプライドはずたずたに引き裂かれた。

 翌日の中日新聞は、江藤はアキレス腱悪化と寝違えでバットが振れなかったと伝えているが、水原は江藤がいなくても勝てるということをチームに知らしめたかったと側近に漏らしている。

 水原と江藤の対立はすでに球界でも多くの関係者が知るところとなった。東映時代に水原の気性を知る張本勲は、江藤に「早く謝れ、謝るんだ」と謝罪を勧めていた。それでも江藤は、水原に頭を下げようとはしなかった。反抗も元々が「勝ちたい」という思いからの言動である。不動の四番である自身が外されては、チームの勝利はますます遠のくという自負もあった。批判の声を上げ続けた。

 当時一軍マネージャーだった足木敏郎の著作(『ドラゴンズ裏方人生57年』中日新聞社開発局出版開発部刊)によれば、先発を外されて、ロッカーから、大声で監督を批判する江藤の声は監督のいるベンチにまで聞こえていた。「勝つ気があるんか」「なぜ、あんな奴を使うんじゃ」水原は耳に入れながら、何も言わずにじっと耐えていた。しかし、シベリアの極寒のなかを耐え抜いた誇り高い指揮官の怒りは内面で沸点に達していた。

 シーズン終了後、水原は親会社に江藤の放出を希望すると申し入れ、中日新聞側もこれを受諾した。中部財界を後ろ盾にした大物監督についてはその意向を全面的にバックアップすることが約束されていた。

 ここに至って江藤は猛省を余儀なくされた。中日以外の球団でプレーをすることはまったく考えていなかった。

 11月24日、江藤は東京都目黒区緑が丘の水原の自宅を訪ねた。無礼や越権の行為についての謝罪を述べ、玄関口で膝を折り、両手をつけて頭を地面に頭をこすりつけた。土下座である。しかし、水原の意志は変わらなかった。「君のトレードはチームが決めたことだから」土下座は財界の人間からスタンドプレーだと揶揄された。

 これらの状況のなかで張本もまた親友のために動いた。同じく水原の自宅を訪ねて行った。張本はこんなふうに問題を腑分けしてみせた。

「水原さんは、巨人も東映も日本一に導いた。慶応ボーイで日本の経済界の重鎮とも人脈があった。片や慎ちゃんは中日一筋の叩き上げ。選手仲間が不満を言ったら、『よしわかった。俺が言ってやるよ』とああいう性格ですからね。『いくら大監督か知らんけど、野球やるのは選手や』そんな気持ちがあったらしい。慎ちゃんの副業の自動車工場も『これがいい』と思ったら、さっさと開業して突き進む性格だからね。昔、東映フライヤーズに山本八郎さんという私の浪商の先輩がいたんですよ。わがままじゃないけど、お山の大将でね。それを水原さんは、毅然として二軍に落とした。あの時と似ているなあ、何とかならないだろうか、と思って目黒の緑が丘の親父さんの家まで行きました。でも玄関口で『お前入るな』と言われました。『山本八郎のこと、覚えているだろう』と。どっちにしても水原さんはチームで戦う人で、折れる性格ではないですからね。だから、切っていくわな」

 1969年12月3日。ついに江藤にトレードが通達され、マスコミにも発表された。

 チームの若返り、体質改善、投手陣強化のためにトレードに出すという名目であったが、具体的に意中の交換相手がいたわけではない。いわんや、大型トレードはむしろ秘密裏に進められることが、常識である。巨人、ロッテ、広島、サンケイからも獲得の意思があると報じられたが、晒し者にするように新聞紙上で公開されたのは、まず江藤の退団ありきであったからに他ならない。そもそも「中日で終わりたい」と常々言っていた江藤が引退してしまえば、四番を失い、交換相手も消滅する。改革ではあったが、補強のためとは言い難いものであった。

 また同日、葛城隆雄のトレード、板東英二がユニフォームを脱ぐことも伝えられた。板東はスカウトへの転進が勧められていた。

 板東は肘がもう使いものにならなくなっていたので、自身は納得しての引退であったが、江藤の放出については、著作のなかで軽い筆致ながらも、今で言うパワハラではないかと批判している。

「このときのことを冷静に考えてみると、やっぱり水原さんの方に非があった思うわ。いくら力のある監督いうても、そこまで選手に理不尽なことしたら、選手はついていきまへんで」(『プロ野球知らなきゃ損する』青春出版社刊)

 トレードを通達された江藤は、直後の取材で「野球をやっていたおかげで事業(江藤産業、江藤自動車、南紀産業)もできた。人は事業をやっていたからマイナスになったというが、私はたとえ最初は事業の二軍選手でもきっと人一倍の努力をして、四番打者になってみせる」「でもあと3年は3割、25本、80打点の自信はある」と語った。

 江藤は11年間で1484安打、本塁打268本、打点845の記録を残した。現役を続ける自信はあったが、"中日の江藤"でいさぎよく辞める覚悟を決めていた。

 12月26日、江藤は、未練を絶つようにトレードを拒否し、(現役に復帰する際は、引退当時の球団以外には行けないという)任意引退の道を自ら選んだ。

(つづく)