「龍原砲」がブッチャーの頭を蹴りまくり、T.N.T.も頑張った。ケンコバが興奮した1987年の全日本「ベストバウト」
ケンドーコバヤシ
令和に語り継ぎたいプロレス名勝負(8)後編
(前編:ブロディ、ハンセンら史上最高の「世界最強タッグ」大阪大会。だが、天龍源一郎が出るメインカードに「がっかり」した>>)
1987年12月2日、全日本プロレス世界最強タッグ決定リーグの大阪府立体育会館大会のメインカードだった、天龍源一郎&阿修羅・原vsアブドーラ・ザ・ブッチャー&T.N.T.。他の豪華メンバーの試合を期待していた若きケンドーコバヤシさんは、そのカードが発表された時に「がっかりした」そうだが、実際に会場で見て「めちゃくちゃ面白かった」と大満足。いったいどんな試合だったのか。
T.N.T.(左)に打撃を浴びせる阿修羅・原。ブッチャーはロープの外から鋭い視線を送る
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――この大会の、当日の会場の雰囲気を覚えていますか?
「忘れられませんね。当時、全日本の大阪の大会ではいいカードが組まれることが少なかった、という話は(前編の記事で)しましたが、その日の会場にも『もうちょっと、ええカードを組んでくれよ』という空気がまん延してました。この大会の時点で、ブッチャー&T.N.T.は優勝戦線からほぼ脱落していましたしね。第1試合からまったく盛り上がらないんですよ。興行には"何をやっても客席が沸かない日"もありますが、この日はまさにそうでした」
――そうなると、メインカードも盛り上がらなかったんじゃないですか?
「入場も微妙でしたね。天龍さんの入場曲『サンダーストーム』が鳴ってもちょっと天龍コールは弱めで。ところが......この試合、1987年の全日本でベストバウトちゃうかっていうぐらい、めちゃくちゃ面白かったんです。
特にブッチャーのパートナーのT.N.T.が頑張っていた。プエルトリコからやってきた選手でこのシリーズが初来日。だから、どんな選手か情報がなかったんですけど、ゴングが鳴ったら『こんなにできる選手やったんか!』と驚きましたよ。特に、原さんに突き刺したトラースキックは強烈でした」
――"龍原砲"はどうでしたか?
「この年の3月に、長州力さんたちが新日本プロレスにUターンして、天龍さんが『全日本をなんとかしないといけない』と立ち上がって"天龍革命"を起こした。そこに原さんが共鳴してジャンボ鶴田さんに挑みました。その天龍革命以降の"龍原砲"を会場で見たのはこの試合が初めてでしたが、ものすごかったです。
ブッチャーの頭を、『どれだけ蹴るんだ』っていうくらい容赦なく2人で蹴って、あまりの激しさにブッチャーもちょっと引いてました。ブッチャーは、『天龍に蹴られるのはまだわかるけど、阿修羅もやってくるか』と怒りを剥き出しにする感じで、原さんには引かなかったですね。ブッチャーがあれほど不機嫌になったのも珍しかった。俺はその天龍さんと原さんのえげつなさに『かっこええ』と胸をときめかせました」
――天龍革命以降、天龍さんの攻めはすさまじさを増しましたね。
「それもありますが、俺個人としては、天龍革命のすごさはダイナミックな受け身を始めたことなんちゃうかと思ってるんです。この試合ではなかったですけど、例えば天龍さんは、キックを受けた時にトップロープを超えて場外に落ちたこともありました。ある意味、むちゃくちゃな受け身で会場が盛り上がったんです。
そんな天龍さん、それに共鳴した原さんの試合を初めて会場で体感して、『これが大スポが書いていた天龍革命か』と感動しました。地方会場でもまったく手抜きをしないで、『客席を沸かすのは俺らの仕事だ』というポリシーを目の当たりにしたのも、この大阪府立でのブッチャー&T.N.T.戦でしたね」
――それは忘れられない試合になりますね。
「あと、革命のあと天龍さんはチョップ、キック、延髄斬り、サンドウィッチラリアットなどで全国を沸かせてましたが、実はジャイアント馬場さんが得意としていたある技を復活させたんです」
――その技とは?
「河津落としです。これを天龍さんは、落とした後に自分が頭から直立して、一回転するくらいの勢いでかけていた。相手を落とした後に自分がもんどりうって場外に落ちるぐらいの技で、『ヤバすぎる技や。殺しの技やん』と、この技の恐ろしさを再認識したんです。ちなみに俺の中で、その河津落としを見た日は『河津落とし記念日』と呼んでます」
――「サラダ記念日」みたいですね(笑)。
「ここで一句したためました。『天龍が 直立になってくれたから 今日は河津落とし記念日』」
――俵万智先生にも届けたい一句ですね(笑)。
「とにかく、俺は天龍&原vsブッチャー&T.N.T.から"龍原砲"をひいきして応援するようになりました。そういう意味でも忘れられない試合なんです」
――この試合以降、全日本の大阪府立体育会館でのはカードはよくなったんですか?
「それが、しばらくはよくならなかったんですよ。天龍さんが鶴田さんのパワーボムで失神負けした鶴龍対決(1989年4月20日)などはありましたが、変わらなかったです。余談ですけど、大阪の鶴龍対決を見に行った時に、リングサイドに円広志さんがいるのを見つけて。俺は芸人になりたてで、『あいさつに行ったほうがええんかな』とソワソワしたのを覚えてます(笑)。
組まれるカードに変化があったのは、1995年1月17日の阪神・淡路大震災があってから。馬場さんが『関西の人を勇気づけたい』と考えてくれて、カードがよくなっていきました。それのあたりから、四天王プロレスの人気も爆発的なものになっていきましたね」